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揺れる心
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水曜日――
今夜は嶺倉さんと食事デートだ。
私はデータをチェックしつつ、何度も時計を確かめてしまう。今日は仕事量が少なく、時の流れががやけに遅く感じられて、じれったくなる。
(でも、もうすぐ午後2時か。少し早いけど、休憩しよう)
財布を持つと、早めに休憩することを同僚に告げ、オフィスを出た。
ついでに、あくびを一つ。
「いけない、私としたことが」
嶺倉さんに会えるのが楽しみすぎて、昨夜はよく眠れなかった。いつもより、仕事の集中力が落ちている。
ぺちぺちと頬を叩き、休憩コーナーに向かった。
自動販売機に硬貨を入れ、ブラックコーヒーのボタンを押す。
しばらくすると出来上がりを報せる音が鳴り、私は湯気の立つカップを取り出した。
窓辺のカウンターにもたれ、静かに味わう。
「おいし……」
自販機と観葉植物が置かれただけの休憩室にいるのは自分一人。3時には賑わう空間も、今はシンとしている。
(今夜はどこかのレストランで食事して、お喋りして、それから……)
あらぬ妄想が浮かび、私はそっと頬を染める。
結婚するまで手を出さないと、嶺倉さんは約束してくれた。
でも私は、自らガードを緩めようとしている。こんなにも早く許すとは、自分でも驚いてしまう。
だが、それを彼に伝える勇気はない。何と言えばいいのか分からないし、何より恥ずかしい。
「嶺倉さんのことだから、上手く受け止めてくれるだろうけど……」
「先輩も嶺倉推しですか?」
「……!」
いきなり耳元に話しかけられ、心臓が跳ね上がる。
いつの間に休憩室に入ってきたのか、すぐ横に営業部の河内さんが立っていた。
「な、なっ、どうしてあなたがここにっ……」
「さっきまで、会議室の掃除をしてたんです。5時に嶺倉水産の営業部長が来社されるんで、準備するよう金田専務に命じられて。で、喉が渇いちゃったから、ジュースを飲みに来たんですけど……先輩こそ、どうして今頃休憩を?」
なるほど、そうだったのか。『嶺倉推し』の意味は不明だが、おそらく彼女は、何も気付いていない。
「ちょ、ちょっとね、私も喉が渇いたから早めに休憩してるの」
「そうなんですか。お会いできて嬉しいです!」
河内さんは可愛らしく笑うと、自販機でオレンジジュースを買い、私のもとへすぐに戻ってきた。
「それにしても、椅子もテーブルもない休憩室ってありなんですか? 全然ゆっくりできない。さっさと仕事に行けと言わんばかりですよね」
ブツブツ言いながら、カウンターで頬杖をつく。
営業部の河内さん。ついこの間まで、私のことをうっとうしがっていた彼女は、安井さんの一件以来、ころっと態度が変わった。
今ではこうして顔を合わせるたび、親しげに声をかけてくる。
「それで、さっきの話ですけど。北見さん、嶺倉さんがどうとか……独り言が聞こえたんですけど」
「え、ええっと、それは」
冷汗が出そうになるが、彼女は勝手にお喋りを続ける。
「嶺倉水産の嶺倉京史って、すっごいイケメンでハイスペックだそうですね。創業家の御曹司で、仕事もできる。それなのに独身だっていうから、会社中の女子が色めき立ってますよ。以前から人気だったんだけど、これからはウイステリアと深くかかわるとかで、ますますファンが増えてるって聞きました。何でも、そのきっかけを作ったのは金田専務だそうで、今日は契約の打ち合わせに見えるとか」
「ふ……ふうん、そうなんだ」
金田専務は、嶺倉水産とのライセンス契約が実現すれば、それは自分の手柄だ――と、あちこちで自慢しているようだ。それはいいのだが、今に私の名前も出すのではないかと、ハラハラする。
「北見さんまで、嶺倉推しなんですか?」
「えっ? どっ、どうして」
「だって、さっき『嶺倉さん』って、独り言をつぶやいてたから」
話が戻ってしまった。
彼との関係を河内さんに知られたら、えらいことになる。数時間、いや数分で、全社に伝わってしまうだろう。
「それはあの、私も会議のことで、専務に資料作りを頼まれてるから、仕事の段取りを考えていただけよ」
「ああ、それで……北見さんも専務に命令されましたか。あの人、ごり押しがすごいですよね」
何とかごまかせたようだ。
しかし、河内さんは勘が良い人なので、これ以上一緒にいるのは危険だ。
「それじゃ、私はもう行くわ」
「あ、ちょっと待ってください。嶺倉王子のことで、いいことを教えちゃいます」
河内さんはスマートフォンを取り出し、ささっと操作する。
(嶺倉王子……?)
そうか。女性社員は皆、嶺倉京史の本質がミイちゃんであることを知らないのだ。外見どおり、中身まで王子様だと思い、憧れている。私も最初はそうだったように。
「これ、とある外資系OLのSNSなんですけど、ばっちり写ってるんですよー」
「え?」
河内さんが、いかにも楽しそうに、その画面を見せてくる。
個人のSNSのページだ。写真がたくさん公開されている。ハッシュタグは『打ち上げ』『イベント』『交流』――
「これって、まさか」
見覚えのある男性が女性に囲まれ、お酒を飲んでいる。親しげに彼の肩に手を掛け、カメラに笑顔を向けるのは、お洒落で垢抜けた女性ばかり。
「王子の大ファンのコが、偶然見つけたんですって。すごいですよね、嶺倉王子。モテ方が半端ないっていうか、まるでハーレム。他にも男性がいるのに、ほとんどカットされてるし」
「……」
河内さんは画面をスクロールし、写真を次々に見せてくる。
レベルの高い女性達と、嶺倉さんが一緒に飲んだり、歌ったり、楽しむ様子がアップされていた。
「仕事関係の飲み会かなあ。それにしても、べたべたしすぎな感じ……って、あれ、北見さん?」
「もう行くわ。河内さんも、早く仕事に戻りなさいね」
私は紙コップをゴミ箱に捨てると、休憩室を後にした。
SNSの写真は、仕事関係の飲み会やイベントだと思う。だけど、河内さんが言うように、女達が妙に密着していた。何より、嶺倉さんの、あの楽しそうな顔!
――あいつの女好きは一生変わらない。一緒になれば、後悔するのはあなたですよ。
海藤さんの言葉を思い出す。
暗雲が、胸に広がるのを止められなかった。
今夜は嶺倉さんと食事デートだ。
私はデータをチェックしつつ、何度も時計を確かめてしまう。今日は仕事量が少なく、時の流れががやけに遅く感じられて、じれったくなる。
(でも、もうすぐ午後2時か。少し早いけど、休憩しよう)
財布を持つと、早めに休憩することを同僚に告げ、オフィスを出た。
ついでに、あくびを一つ。
「いけない、私としたことが」
嶺倉さんに会えるのが楽しみすぎて、昨夜はよく眠れなかった。いつもより、仕事の集中力が落ちている。
ぺちぺちと頬を叩き、休憩コーナーに向かった。
自動販売機に硬貨を入れ、ブラックコーヒーのボタンを押す。
しばらくすると出来上がりを報せる音が鳴り、私は湯気の立つカップを取り出した。
窓辺のカウンターにもたれ、静かに味わう。
「おいし……」
自販機と観葉植物が置かれただけの休憩室にいるのは自分一人。3時には賑わう空間も、今はシンとしている。
(今夜はどこかのレストランで食事して、お喋りして、それから……)
あらぬ妄想が浮かび、私はそっと頬を染める。
結婚するまで手を出さないと、嶺倉さんは約束してくれた。
でも私は、自らガードを緩めようとしている。こんなにも早く許すとは、自分でも驚いてしまう。
だが、それを彼に伝える勇気はない。何と言えばいいのか分からないし、何より恥ずかしい。
「嶺倉さんのことだから、上手く受け止めてくれるだろうけど……」
「先輩も嶺倉推しですか?」
「……!」
いきなり耳元に話しかけられ、心臓が跳ね上がる。
いつの間に休憩室に入ってきたのか、すぐ横に営業部の河内さんが立っていた。
「な、なっ、どうしてあなたがここにっ……」
「さっきまで、会議室の掃除をしてたんです。5時に嶺倉水産の営業部長が来社されるんで、準備するよう金田専務に命じられて。で、喉が渇いちゃったから、ジュースを飲みに来たんですけど……先輩こそ、どうして今頃休憩を?」
なるほど、そうだったのか。『嶺倉推し』の意味は不明だが、おそらく彼女は、何も気付いていない。
「ちょ、ちょっとね、私も喉が渇いたから早めに休憩してるの」
「そうなんですか。お会いできて嬉しいです!」
河内さんは可愛らしく笑うと、自販機でオレンジジュースを買い、私のもとへすぐに戻ってきた。
「それにしても、椅子もテーブルもない休憩室ってありなんですか? 全然ゆっくりできない。さっさと仕事に行けと言わんばかりですよね」
ブツブツ言いながら、カウンターで頬杖をつく。
営業部の河内さん。ついこの間まで、私のことをうっとうしがっていた彼女は、安井さんの一件以来、ころっと態度が変わった。
今ではこうして顔を合わせるたび、親しげに声をかけてくる。
「それで、さっきの話ですけど。北見さん、嶺倉さんがどうとか……独り言が聞こえたんですけど」
「え、ええっと、それは」
冷汗が出そうになるが、彼女は勝手にお喋りを続ける。
「嶺倉水産の嶺倉京史って、すっごいイケメンでハイスペックだそうですね。創業家の御曹司で、仕事もできる。それなのに独身だっていうから、会社中の女子が色めき立ってますよ。以前から人気だったんだけど、これからはウイステリアと深くかかわるとかで、ますますファンが増えてるって聞きました。何でも、そのきっかけを作ったのは金田専務だそうで、今日は契約の打ち合わせに見えるとか」
「ふ……ふうん、そうなんだ」
金田専務は、嶺倉水産とのライセンス契約が実現すれば、それは自分の手柄だ――と、あちこちで自慢しているようだ。それはいいのだが、今に私の名前も出すのではないかと、ハラハラする。
「北見さんまで、嶺倉推しなんですか?」
「えっ? どっ、どうして」
「だって、さっき『嶺倉さん』って、独り言をつぶやいてたから」
話が戻ってしまった。
彼との関係を河内さんに知られたら、えらいことになる。数時間、いや数分で、全社に伝わってしまうだろう。
「それはあの、私も会議のことで、専務に資料作りを頼まれてるから、仕事の段取りを考えていただけよ」
「ああ、それで……北見さんも専務に命令されましたか。あの人、ごり押しがすごいですよね」
何とかごまかせたようだ。
しかし、河内さんは勘が良い人なので、これ以上一緒にいるのは危険だ。
「それじゃ、私はもう行くわ」
「あ、ちょっと待ってください。嶺倉王子のことで、いいことを教えちゃいます」
河内さんはスマートフォンを取り出し、ささっと操作する。
(嶺倉王子……?)
そうか。女性社員は皆、嶺倉京史の本質がミイちゃんであることを知らないのだ。外見どおり、中身まで王子様だと思い、憧れている。私も最初はそうだったように。
「これ、とある外資系OLのSNSなんですけど、ばっちり写ってるんですよー」
「え?」
河内さんが、いかにも楽しそうに、その画面を見せてくる。
個人のSNSのページだ。写真がたくさん公開されている。ハッシュタグは『打ち上げ』『イベント』『交流』――
「これって、まさか」
見覚えのある男性が女性に囲まれ、お酒を飲んでいる。親しげに彼の肩に手を掛け、カメラに笑顔を向けるのは、お洒落で垢抜けた女性ばかり。
「王子の大ファンのコが、偶然見つけたんですって。すごいですよね、嶺倉王子。モテ方が半端ないっていうか、まるでハーレム。他にも男性がいるのに、ほとんどカットされてるし」
「……」
河内さんは画面をスクロールし、写真を次々に見せてくる。
レベルの高い女性達と、嶺倉さんが一緒に飲んだり、歌ったり、楽しむ様子がアップされていた。
「仕事関係の飲み会かなあ。それにしても、べたべたしすぎな感じ……って、あれ、北見さん?」
「もう行くわ。河内さんも、早く仕事に戻りなさいね」
私は紙コップをゴミ箱に捨てると、休憩室を後にした。
SNSの写真は、仕事関係の飲み会やイベントだと思う。だけど、河内さんが言うように、女達が妙に密着していた。何より、嶺倉さんの、あの楽しそうな顔!
――あいつの女好きは一生変わらない。一緒になれば、後悔するのはあなたですよ。
海藤さんの言葉を思い出す。
暗雲が、胸に広がるのを止められなかった。
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