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春菜と智哉
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翌朝、自分のくしゃみで目が覚めた。冷えた体をさすりながら周囲を見回し、曇った空を見上げる。
『そっか。野宿したんだ』
頭がはっきりしてきて、まっ先に考えたのはハルのことだった。
昨夜、噛みつかれたショックでハルを叩いてしまった。でも、冷静になってみれば理由が分かる。ハルはたぶん、急に抱き上げられてびっくりしたのだ。
僕は勝手に傷ついて八つ当たりしただけ。つまり、感情に任せた暴力である。
悪いことをしたら「ごめんなさい」だぞと、お父さんが言っていた。
きちんと謝らなくちゃ。
僕は堤を歩きながら、仲直りのためのお土産を探した。ウサギが好きそうな野草が、たくさん生えている。
『これくらいでいいかな』
ハルの喜ぶ姿が目に浮かぶ。両手いっぱいに野草を握りしめて、急いで駆けていった。
異変に気づいたのは、庭に入ってすぐだった。ウサギ小屋の扉が開いている。
『えっ、どうして?』
昨夜、小屋を出たあと、カンヌキ錠をかけたはず。どんなことがあっても、それだけは習慣になっているので間違いない。
ハルが逃げてしまった?
慌てて小屋に駆け寄り、中を確認した。
『……!』
衝撃のあまり、声が出なかった。手から力が抜けて、野草が地面に散らばる。
小屋の中で、ハルが血まみれになって死んでいた。
『ハ……ハル。なんで…‥なにがあった?』
小屋に入って、ハルを抱きかかえた。冷たく、だらりとした死体。
野犬に襲われた? 違う。野犬は鍵を開けられない。それに、ハルは全身を刺されている。この傷は食いちぎられたのではなく、刃物でやられたのだ。
小屋が血まみれなのは、刺されてから逃げ回ったから。だけど、すぐに力尽きただろう。傷は深く、出血は大量だった。
『ハル、ハル!』
どんなに痛かったか、苦しかったか、怖かったか。僕は亡骸を抱きしめ、嗚咽した。
ハルは死んでしまった。温もりは、もう、戻らない。
僕はしばらく、ハルの冷たい体を撫でていた。涙がとめどなくあふれる。大切な存在を失う。それは、自分が死ぬ以上の苦しみなのだと知った。
僕はだが涙を拭い、藁を集めてハルを包み、しっかりと抱いて小屋を出た。
ハルを弔わなければならない。それは家族としての責任であり、務めである。
庭の一角に穴を掘った。ハルをそっと入れて、じっと見つめる。ぴくりとも動かない。あらためて死を確認し、絶望した。
『ハル、ごめん』
頭を撫でて、謝った。
『一人にしてごめん。叩いてごめん……痛かったよね』
後悔でいっぱいになりながら土をかけ、最後に手を合わせた。
なぜこんなことになったのか。
子どもの僕にも察しがついた。誰がやったのかなんて、決まっている。
『大丈夫だよ。すぐに追いかけるから、天国で待っててね』
僕は立ち上がり、家の中に入った。
居間に行くと、北城と女が出かける用意をしていた。
服を血だらけにした僕を見て女はぎょっとするが、特に何も言わない。なぜ血だらけなのか知っているのだ。
北城はニヤニヤ笑っている。奴の手もとに折りたたみ式のナイフが、これ見よがしに置いてあった。僕は体中の血液が沸騰するのを覚えた。
『今日はドライブに行くわ。帰りは遅くなるから、ごはんは勝手に食べてなさいね。カップラーメンでいいでしょ』
『どんなに遅くなろうが、平気だよ。コイツには、かわいいウサギちゃんがついてるもんな』
北城がゲラゲラ笑い、女がぷっと噴き出す。
『でもお前、昨夜はどこに行ってたんだよ。ウサギちゃんが寂しそうにしてたから、遊んでおいてやったぞ』
僕の中で、すべてが決まる瞬間だった。
さっきの激情が嘘のように、体がすーっと冷たくなる。
『なんだよ、その目は』
北城がすごむが、まったく怖くない。僕は感情を失っていた。
『……薄気味悪いガキだ。おい、出かける前に一杯飲むぞ』
『いいけど、一杯だけにしてよ。車なんだから』
『うるせえな。分かってるよ』
雷の音が聞こえた。窓を見ると、雨が降りだしている。
『チッ! 今日は雨かよ。いい気分が台無しだぜ』
僕が泣かないので、面白くないのだろう。北城が顔を顰め、居間を出ていく。
『ちょっと、どこに行くのさ。お酒はどうすんのよ』
『トイレだ。作ってそこに置いとけ』
僕も居間を出て、洗面台に行った。引き出しを開けて、女の常備薬を探す。見つけると、一粒握りしめて居間に戻る。
北城はまだトイレだ。女は台所にいる。テーブルに酒のグラスが置いてあり、僕は迷わずその中に薬を入れた。
数分後、あいつらは車に乗り込み、出発した。しばらくすると雨が激しくなり、僕は居間の窓から、遠くの山をぼんやりと眺めた。
テーブルのグラスは空になっていた。
『そっか。野宿したんだ』
頭がはっきりしてきて、まっ先に考えたのはハルのことだった。
昨夜、噛みつかれたショックでハルを叩いてしまった。でも、冷静になってみれば理由が分かる。ハルはたぶん、急に抱き上げられてびっくりしたのだ。
僕は勝手に傷ついて八つ当たりしただけ。つまり、感情に任せた暴力である。
悪いことをしたら「ごめんなさい」だぞと、お父さんが言っていた。
きちんと謝らなくちゃ。
僕は堤を歩きながら、仲直りのためのお土産を探した。ウサギが好きそうな野草が、たくさん生えている。
『これくらいでいいかな』
ハルの喜ぶ姿が目に浮かぶ。両手いっぱいに野草を握りしめて、急いで駆けていった。
異変に気づいたのは、庭に入ってすぐだった。ウサギ小屋の扉が開いている。
『えっ、どうして?』
昨夜、小屋を出たあと、カンヌキ錠をかけたはず。どんなことがあっても、それだけは習慣になっているので間違いない。
ハルが逃げてしまった?
慌てて小屋に駆け寄り、中を確認した。
『……!』
衝撃のあまり、声が出なかった。手から力が抜けて、野草が地面に散らばる。
小屋の中で、ハルが血まみれになって死んでいた。
『ハ……ハル。なんで…‥なにがあった?』
小屋に入って、ハルを抱きかかえた。冷たく、だらりとした死体。
野犬に襲われた? 違う。野犬は鍵を開けられない。それに、ハルは全身を刺されている。この傷は食いちぎられたのではなく、刃物でやられたのだ。
小屋が血まみれなのは、刺されてから逃げ回ったから。だけど、すぐに力尽きただろう。傷は深く、出血は大量だった。
『ハル、ハル!』
どんなに痛かったか、苦しかったか、怖かったか。僕は亡骸を抱きしめ、嗚咽した。
ハルは死んでしまった。温もりは、もう、戻らない。
僕はしばらく、ハルの冷たい体を撫でていた。涙がとめどなくあふれる。大切な存在を失う。それは、自分が死ぬ以上の苦しみなのだと知った。
僕はだが涙を拭い、藁を集めてハルを包み、しっかりと抱いて小屋を出た。
ハルを弔わなければならない。それは家族としての責任であり、務めである。
庭の一角に穴を掘った。ハルをそっと入れて、じっと見つめる。ぴくりとも動かない。あらためて死を確認し、絶望した。
『ハル、ごめん』
頭を撫でて、謝った。
『一人にしてごめん。叩いてごめん……痛かったよね』
後悔でいっぱいになりながら土をかけ、最後に手を合わせた。
なぜこんなことになったのか。
子どもの僕にも察しがついた。誰がやったのかなんて、決まっている。
『大丈夫だよ。すぐに追いかけるから、天国で待っててね』
僕は立ち上がり、家の中に入った。
居間に行くと、北城と女が出かける用意をしていた。
服を血だらけにした僕を見て女はぎょっとするが、特に何も言わない。なぜ血だらけなのか知っているのだ。
北城はニヤニヤ笑っている。奴の手もとに折りたたみ式のナイフが、これ見よがしに置いてあった。僕は体中の血液が沸騰するのを覚えた。
『今日はドライブに行くわ。帰りは遅くなるから、ごはんは勝手に食べてなさいね。カップラーメンでいいでしょ』
『どんなに遅くなろうが、平気だよ。コイツには、かわいいウサギちゃんがついてるもんな』
北城がゲラゲラ笑い、女がぷっと噴き出す。
『でもお前、昨夜はどこに行ってたんだよ。ウサギちゃんが寂しそうにしてたから、遊んでおいてやったぞ』
僕の中で、すべてが決まる瞬間だった。
さっきの激情が嘘のように、体がすーっと冷たくなる。
『なんだよ、その目は』
北城がすごむが、まったく怖くない。僕は感情を失っていた。
『……薄気味悪いガキだ。おい、出かける前に一杯飲むぞ』
『いいけど、一杯だけにしてよ。車なんだから』
『うるせえな。分かってるよ』
雷の音が聞こえた。窓を見ると、雨が降りだしている。
『チッ! 今日は雨かよ。いい気分が台無しだぜ』
僕が泣かないので、面白くないのだろう。北城が顔を顰め、居間を出ていく。
『ちょっと、どこに行くのさ。お酒はどうすんのよ』
『トイレだ。作ってそこに置いとけ』
僕も居間を出て、洗面台に行った。引き出しを開けて、女の常備薬を探す。見つけると、一粒握りしめて居間に戻る。
北城はまだトイレだ。女は台所にいる。テーブルに酒のグラスが置いてあり、僕は迷わずその中に薬を入れた。
数分後、あいつらは車に乗り込み、出発した。しばらくすると雨が激しくなり、僕は居間の窓から、遠くの山をぼんやりと眺めた。
テーブルのグラスは空になっていた。
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