恋の記録

藤谷 郁

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春菜と智哉

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「でも若月さんは、三国について何も言わなかったわ」

「そりゃそうだ。三国はあの時、僕が言ったことを周囲に話さなかった。親戚、後見人のおばさん、保険会社の調査員。誰も本当のことを知らない」

「……え?」


智哉さんが川を見下ろす。口もとに笑みが浮かんでいた。


「本当のこと?」

「あれは、ただの事故じゃなかった」


どういうことか分からない。私は額に手をあて、若月さんから聞いた話を思い出す。

智哉さんは今、保険会社の調査員と言った。


「あなたのお母さんは、北城って人と一緒に亡くなったんだよね。雨の日に車で出かけて、スピードの出し過ぎでカーブを曲がりきれずに」


調査員は、実は北城がわざと事故を起こしたのではないかと疑っていた。だけど警察が事故死と判断し、保険金も支払われたと聞く。


「やっぱり、北城がわざと事故を?」


それを知っていた智哉さんが三国に告げたが、彼は誰にも言わなかった。もし保険会社が知れば、智哉さんにお金が下りないから。そういうことだろうか。

母親に見捨てられた子を哀れに思い、せめてお金を得られるよう嘘の調書を作る。あの人ならやるかもしれない。

しかし、私の推測を智哉さんは否定した。


「まったくのハズレじゃないが、アタリでもないな」

「だったらどういうこと? ただの事故じゃないって」


智哉さんがこちらを向いた。なぜか、とても嬉しそうに微笑んでいる。


「真実を話すのは、三国を除けば君が初めてだ。墓場まで持っていくはずだったのに、こんな日が来るとはね」

「……?」


なんとなく後ずさった。

彼が何を言おうとするのか見当もつかない。それなのに、どうしてか恐ろしくて。


「北城はスピードの出し過ぎで、カーブを曲がりきれなかったんじゃない。雨でスリップしたのでもない。眠ってたんだ。だからブレーキが間に合わず、ガードレールを突き破って崖下に落ちた」

「……ええっ?」


つまり、居眠り運転?――そう考えて、すぐに違和感を覚える。なぜ智哉さんがそれを知っていたのか。

無言で問う私に、彼はためらわず答えをくれた。


「僕が北城に睡眠薬を飲ませた。あれほどうまくいくとは思わなかったな」

「まさか……」


当時、智哉さんは10歳かそこらの子どもだ。そんな恐ろしいこと、できるわけがない。信じられない。


「嘘でしょう?」

「本当だよ。僕は23年前に、母親と男を殺した。思い出したのはつい最近だけど、鮮明に覚えている」

「そんな……そんなこと……」


絶対に嘘。だって、こんなに爽やかな表情で語るなんておかしい。

だけど私は、地面にへたり込んだ。否定しようとしても無理だった。嘘だと思いたくても、彼の表情こそが証明している。

この人にとって殺人は、悪いやつを退治しただけの『正当な行為』なのだ。


――世の中は理不尽に満ちている
――正義など何の役にも立たないと、俺が水樹に教えたんだ


三国は警察官でありながら、正義など何の役に立たないと言って、智哉さんの行いを不問に付した。哀れな子どもを助けるつもりで。

それが真実。

私はうつむき、唇を噛んだ。腹が立って、悔しくてしょうがなかった。警察も法律も、悪いやつを退治してくれない。だからといって、やっていいことと悪いことを大人が教えなくてどうする。

あまりにも無責任だ。絶対に間違ってる。


「春菜」


智哉さんが私の前にしゃがみ、優しく声をかける。間違ったことは何もしていないと、言いわけするのだろう。聞きたくなかった。


「もちろん、悪いことだと分かっていた。だから、僕がやりましたと告白したんだよ。ちゃんと自首してから、僕は死ぬつもりだった」

「えっ?」


顔を上げて智哉さんを見た。彼はもう笑っていない。


「死ぬつもりだった?」

「ああ。警察にきっちり報告して、謝ってから死のう。子どもながらに悲愴な覚悟をしてたんだ。悪いことをしたら『ごめんなさい』だぞって、死んだ親父も言ってたからね」

「お父さん……」


瞼をこすり、もう一度智哉さんを見つめる。彼の目鼻立ちは、若月さんが見せてくれた写真の『お父さん』に生き写しだ。


「でも、三国は僕の意志を退けた。動機と殺害方法を聞いた上で、誰にも話すなと言ったんだ。そこから僕の記憶は曖昧になった」

「ど……どういうこと?」

「よく分からない。たぶん、子どもだった僕は、死を覚悟したのに生きることになって、困惑したんじゃないかな。心が壊れないための、自己防衛だと思ってる。大切な存在を失ったのに、独りで生きなければならないのは地獄だろ? だから、無意識に記憶を封じ込めて、人生を過ごすことになったんだ。若月家の人は良くしてくれたけど、僕はいつも孤独で、濃い霧の中にいるみたいで……生きづらかった」


陽向さんの事件がきっかけでフラッシュバックしたのは、この記憶なのだ。母親と男を殺した時点まで彼は引き戻され、生きるか死ぬかの狭間で悩み苦しんだ。そして……


「生きることを選び、人生をやり直そうとしたのね」


智哉さんがうなずく。



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