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春菜と智哉
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「ようやく納得したんだ。君は、ハルじゃない」
「智哉さん、それって」
ついに私の気持ちが通じた? と、思ったけれど……
「ハルなら、こんなことはしない」
彼がザックから取り出したものを見て、ドキッとする。
「智哉さん。それは……」
「気を失っても、しっかり握ってたぞ」
「……」
私のレザーパンプス。智哉さんの言わんとすることを察して、口をつぐんだ。
「驚いたよ」
彼はパンプスをひっくり返し、軽く振った。黒いプラスチックケースが転がり出て、乾いた音を立てる。
「GPS発信機。まさか、こんなものを隠し持っていたとはね」
気まずい沈黙が流れる。しかし、彼の表情は明るく、どこか吹っ切れた様子にも見えた。
「認めるよ。君は神経質でも怖がりでもない。ハルとはまったく違うタイプの女だってことを」
「智哉さん……」
彼は発信機を拾い、手のひらにのせた。当然、電源が切られている。たぶん、ここに来る前に見つけたのだ。三国ですら気づかなかったのに。
「警察に頼まれたのか」
「違う。私が一人で考えて、勝手にやったの」
「だろうな。警察が危険な真似を許すはずがない。それに、もしやるとしても、連絡を取れる機種にするだろう」
「どういうこと?」
「ボイスメッセージとか、チャット機能が付いたやつとか」
「えっ、そんなものがあるの?」
知らなかった。もっとよく調べて買えば良かったと後悔するが、今さらどうしようもない。もう、バレてしまったのだから。
「努力賞ってところかな。だけど大したもんだ。君の行動力と執念には感動させられる」
「執念って……あなたに言われたくないんだけど」
真面目に返したつもりが、冗談に聞こえたらしく、智哉さんは笑っている。やはり表情が明るい。
「まあ、お互い様ってことで」
パンプスの踵をこちらに向けて、私の前に置いた。よく見ると、泥などの汚れをきれいに拭き取ってある。
「君はハルじゃない。だけど、好ましい女であることは確かだ」
「えっ?」
智哉さんは私ではなく、パンプスに話しかけている。どう受け止めればいいのか分からず、次の言葉を待った。
「春菜」
「は、はい」
智哉さんが視線を上げて、私をじっと見つめる。何を言われるのだろう。
「腹が減ったな。朝飯にしようか」
「あ、朝飯?」
ぽかんとする私をよそに、彼はザックから何やら取り出し始める。
折りたたみ式のコンロに、コッヘル、ステンレスのカップ。キャンプで使う調理器具のようだ。水のペットボトルや缶詰、パンなどの食品も並ぶ。
「ど、どうしたの、これ」
「詳しい話はあとにして、まずは腹ごしらえだ」
智哉さんが立ち上がり、私を手招きする。よく分からないが、パンプスを履いて付いていった。
「足もとに気をつけて。床がひび割れてるから」
「う、うん」
ドアを開けて、モルタルの廊下を進んだ。曇りガラスの窓から光が差している。
建物は鉄筋コンクリート造の平家のようだ。他にも部屋があるが、ドアはすべて閉じられ、蜘蛛の巣が張っていた。骨組みは頑丈でも傷みが激しく、まともに住める状態ではない。
廊下の突き当たりは玄関だった。コンクリートのたたきに蛇口付きのポリタンクが置いてある。
「この水で手を洗ってくれ。山の中だから、水道がないんだ」
「山の中……」
智哉さんが玄関扉を開けて、外の様子を見せてくれた。建物の周りは雑草だらけで、道らしきものはない。思ったとおり、森に囲まれた一軒家という感じだ。
ここは人里離れた山の中。崖崩れの地点からさらに奥まった場所であり、この建物は間違いなく廃墟である。
「顔も洗っていいよ」
「あ、うん」
どこから持ってきたのか、智哉さんが蛇口の下に洗面器を置いた。
「眠ってる間に、軽く拭いておいたけど」
「そうなの?」
まったく気づかなかった。智哉さんが顔を拭いたり、着替えさせたり、世話してくれたのだ。今さら恥ずかしくて、頬が熱くなる。
(ということは、今の私はすっぴん。途中でバッグを捨てたから、メイク道具もないし……でも、まあ、別にいいか)
私と智哉さんは、もうそんな関係ではない。お洒落したり、格好をつけたりしても無駄。いろんな意味で、素顔をさらけ出している。
「はい、タオル」
彼が差し出したのは新品のタオルだった。ポリタンクの横に段ボールが積んであり、タオルだけでなく様々な物資が詰まっているらしい。
「着替えは僕の分しかないから、適当なものを貸すよ」
「ありがとう。じゃあ、タオルも使わせてもらいます」
蛇口をひねると、チョロチョロと水が出た。手だけサッと洗って、タオルで拭く。
(貴重な水だもんね。だけど、このぶんじゃ、トイレは外だろうな)
智哉さんに訊くと、黙ってうなずいた。いろいろ揃っているが、さすがにそこまで用意されていない。
「恥ずかしいなら、シートで囲いを作るけど?」
「だ、大丈夫。見えないところで、致しますので……」
とはいえ、やっぱり抵抗がある。突然のワイルドライフに、戸惑いを隠せなかった。
「嘆くほどでもないさ。確かに不便だけど、工夫しだいでじゅうぶん快適に暮らせる。こんな生活も、やってみると案外面白いよ」
「あは……たくましいね」
実際、智哉さんが逞しく見えた。それに、昨夜は疲れた様子だったけれど、今日はなぜか生き生きしている。
(どうしてだろ。私がハルじゃないと認めて、かえってスッキリしたとか?)
彼の心情が掴めない。
(この古い建物は何なの? どうやってここにたどり着いたの? 三国とあなたは、どんな関係なの?)
訊きたいことは山ほどあるが、今はやめておく。私を気遣いながら歩く彼とともに、もとの部屋に戻った。
「智哉さん、それって」
ついに私の気持ちが通じた? と、思ったけれど……
「ハルなら、こんなことはしない」
彼がザックから取り出したものを見て、ドキッとする。
「智哉さん。それは……」
「気を失っても、しっかり握ってたぞ」
「……」
私のレザーパンプス。智哉さんの言わんとすることを察して、口をつぐんだ。
「驚いたよ」
彼はパンプスをひっくり返し、軽く振った。黒いプラスチックケースが転がり出て、乾いた音を立てる。
「GPS発信機。まさか、こんなものを隠し持っていたとはね」
気まずい沈黙が流れる。しかし、彼の表情は明るく、どこか吹っ切れた様子にも見えた。
「認めるよ。君は神経質でも怖がりでもない。ハルとはまったく違うタイプの女だってことを」
「智哉さん……」
彼は発信機を拾い、手のひらにのせた。当然、電源が切られている。たぶん、ここに来る前に見つけたのだ。三国ですら気づかなかったのに。
「警察に頼まれたのか」
「違う。私が一人で考えて、勝手にやったの」
「だろうな。警察が危険な真似を許すはずがない。それに、もしやるとしても、連絡を取れる機種にするだろう」
「どういうこと?」
「ボイスメッセージとか、チャット機能が付いたやつとか」
「えっ、そんなものがあるの?」
知らなかった。もっとよく調べて買えば良かったと後悔するが、今さらどうしようもない。もう、バレてしまったのだから。
「努力賞ってところかな。だけど大したもんだ。君の行動力と執念には感動させられる」
「執念って……あなたに言われたくないんだけど」
真面目に返したつもりが、冗談に聞こえたらしく、智哉さんは笑っている。やはり表情が明るい。
「まあ、お互い様ってことで」
パンプスの踵をこちらに向けて、私の前に置いた。よく見ると、泥などの汚れをきれいに拭き取ってある。
「君はハルじゃない。だけど、好ましい女であることは確かだ」
「えっ?」
智哉さんは私ではなく、パンプスに話しかけている。どう受け止めればいいのか分からず、次の言葉を待った。
「春菜」
「は、はい」
智哉さんが視線を上げて、私をじっと見つめる。何を言われるのだろう。
「腹が減ったな。朝飯にしようか」
「あ、朝飯?」
ぽかんとする私をよそに、彼はザックから何やら取り出し始める。
折りたたみ式のコンロに、コッヘル、ステンレスのカップ。キャンプで使う調理器具のようだ。水のペットボトルや缶詰、パンなどの食品も並ぶ。
「ど、どうしたの、これ」
「詳しい話はあとにして、まずは腹ごしらえだ」
智哉さんが立ち上がり、私を手招きする。よく分からないが、パンプスを履いて付いていった。
「足もとに気をつけて。床がひび割れてるから」
「う、うん」
ドアを開けて、モルタルの廊下を進んだ。曇りガラスの窓から光が差している。
建物は鉄筋コンクリート造の平家のようだ。他にも部屋があるが、ドアはすべて閉じられ、蜘蛛の巣が張っていた。骨組みは頑丈でも傷みが激しく、まともに住める状態ではない。
廊下の突き当たりは玄関だった。コンクリートのたたきに蛇口付きのポリタンクが置いてある。
「この水で手を洗ってくれ。山の中だから、水道がないんだ」
「山の中……」
智哉さんが玄関扉を開けて、外の様子を見せてくれた。建物の周りは雑草だらけで、道らしきものはない。思ったとおり、森に囲まれた一軒家という感じだ。
ここは人里離れた山の中。崖崩れの地点からさらに奥まった場所であり、この建物は間違いなく廃墟である。
「顔も洗っていいよ」
「あ、うん」
どこから持ってきたのか、智哉さんが蛇口の下に洗面器を置いた。
「眠ってる間に、軽く拭いておいたけど」
「そうなの?」
まったく気づかなかった。智哉さんが顔を拭いたり、着替えさせたり、世話してくれたのだ。今さら恥ずかしくて、頬が熱くなる。
(ということは、今の私はすっぴん。途中でバッグを捨てたから、メイク道具もないし……でも、まあ、別にいいか)
私と智哉さんは、もうそんな関係ではない。お洒落したり、格好をつけたりしても無駄。いろんな意味で、素顔をさらけ出している。
「はい、タオル」
彼が差し出したのは新品のタオルだった。ポリタンクの横に段ボールが積んであり、タオルだけでなく様々な物資が詰まっているらしい。
「着替えは僕の分しかないから、適当なものを貸すよ」
「ありがとう。じゃあ、タオルも使わせてもらいます」
蛇口をひねると、チョロチョロと水が出た。手だけサッと洗って、タオルで拭く。
(貴重な水だもんね。だけど、このぶんじゃ、トイレは外だろうな)
智哉さんに訊くと、黙ってうなずいた。いろいろ揃っているが、さすがにそこまで用意されていない。
「恥ずかしいなら、シートで囲いを作るけど?」
「だ、大丈夫。見えないところで、致しますので……」
とはいえ、やっぱり抵抗がある。突然のワイルドライフに、戸惑いを隠せなかった。
「嘆くほどでもないさ。確かに不便だけど、工夫しだいでじゅうぶん快適に暮らせる。こんな生活も、やってみると案外面白いよ」
「あは……たくましいね」
実際、智哉さんが逞しく見えた。それに、昨夜は疲れた様子だったけれど、今日はなぜか生き生きしている。
(どうしてだろ。私がハルじゃないと認めて、かえってスッキリしたとか?)
彼の心情が掴めない。
(この古い建物は何なの? どうやってここにたどり着いたの? 三国とあなたは、どんな関係なの?)
訊きたいことは山ほどあるが、今はやめておく。私を気遣いながら歩く彼とともに、もとの部屋に戻った。
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