恋の記録

藤谷 郁

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素足

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「一条さん。危ないですから、こちらに」


浅野さんが私に傘を差し掛け、後ろに下がらせようとした。でも私は、首を振ってその場に留まる。智哉さんが逮捕されるのを、見届けるべきだと思ったから。

雨の音にまぎれ、途切れ途切れに声が聞こえてくる。


「水樹智哉……殺人容疑で……」


警察官が智哉さんの腕を掴んだ。さっきのは逮捕容疑の読み上げであり、次は手錠を掛けるのだろう。

智哉さんは抵抗せず、がくりと首を垂れた。状況を把握し、ついに観念したのだ。


(智哉さん……)


全身から力が抜けて、膝が震え始める。緊張が解けたのかもしれない。だけど、パンプスを握る手は緩めなかった。


(私の計画どおりにことが運んだ。これで、良かったのよ)


罪を償ってほしかった。まっとうな裁きを受けた上で、人生をやり直してほしかった。その一心でここまで来たのだから、後悔なんて微塵もない。

手錠を掛けられた智哉さんが、私をじっと見つめる。悲しそうな顔だった。まるで、おいてきぼりにされる子どものように。


(どうしてそんな顔をするの。私は、ハルでも陽向さんでもないのよ?)


私は彼に騙され、陽向さんの身代わりにされたのだ。裏切ったのは智哉さんであり、傷付けられたのは私。罪悪感を持つなんておかしい。


(もういい。早く帰りたい。あとは全部、警察に任せてしまおう。智哉さんとは、もう二度と会わない。関わりたくない)


堪らなくなって、目を逸らした。


「音がしませんでしたか?」

「……えっ?」


我に返り、浅野さんを見上げた。耳に手をやり、何か聞き取ろうとしている。


「音って……雷ですか?」

「いや、違います。もっとこう、ゴゴゴッて感じの低い音で……」


浅野さんが足もとに目をやり、急にしゃがみ込んだ。雨に濡れた道路をまじまじと見回し、落ちている土くれを拾うと眉間に皺を寄せる。


「ちょっと待っててください」


傘を私に預けて、今度は崖の上方へと目を凝らした。大粒の雨が降りかかるが、彼女は瞬きすらしない。


「やばいぞ……」


彼女はつぶやくと、上役らしき人のもとへとダッシュした。崖を指差しながら何事か報告し、それに驚いた上役が周囲に大声で怒鳴っている。

戻ってきた浅野さんが、私の手を引いて走り出そうとした。


「ど、どうしたんですか?」

「崖崩れの前兆です。この場を離れるので、早く車に乗ってください」

「ええっ?」


振り返ると、警察官がそれぞれ避難を始めていた。

智哉さんも警察官二人に挟まれ、こちらに走ってくる。手錠のせいで走りにくいのか、つんのめって地面に膝をついた。


「おい、しっかりしろ!」


警察官が手錠を外し、その代わり腕をガッチリと組んで智哉さんを立ち上がらせる。


「一条さん、早く!」

「は、はいっ」


浅野さんが車のドアを開け、私の手を引っ張る。その弾みでパンプスを落としてしまった。拾おうとするが、彼女は構わずシートに押し込もうとする。


「急いで急いで!」

「ま、待ってください。靴が……」

「そんなもん、ほっときゃー! よせんと死んでまうわ!!」


激しくせき立てられ、パンプスをあきらめて車に乗りかけた。その時、頭の斜め上でドンッと音がして、地面がぐらぐらと揺れた。


「きゃあっ」


木々が激しくざわめき、地鳴りのような轟音が響く。崖の一部が崩れて、土砂が軽自動車を押し流すのが見えた。


「こっち側も崩れるぞ。間に合わんから、走って逃げろ!」


乗ろうとした車から運転手が飛び出した。

他の警察官も、皆、少しでも崖から離れようとして道路を走って行く。


「コラーッ! 戻るんだ、水樹!!」


すぐ後ろで怒鳴り声がした。見ると、智哉さんがガードレールを乗り越えようとしている。今の衝撃で、警察官が手を離したのだ。


「智哉さん!?」


まさか脱走? でも、ガードレールは土砂が流れる方向にあり、崖が崩れたら一巻の終わりだ。逃げても助からない。


死ぬつもりなの――?


今度は頭の真上でドンッと音がした。見なくても分かる。崖が崩れる合図だ。

警察官が智哉さんの確保をあきらめ、一目散に逃げ出した。浅野さんも私を連れて行こうとする。だけど私は彼女の手を払い、パンプスを拾うとスリッポンを脱いで素足になった。


「ちょっと一条さん、何やっとんの!」

「浅野さんは逃げてください!」


私は駆け出していた。智哉さんに向かって一直線に。自分が何をしているのか分からなかった。


「智哉さん!」


私の声に気づき、彼が振り向いた。信じられないという顔。私だって信じられない。


「はる……」


轟音が声をかき消す。

智哉さんに飛びつき、抱きしめられると同時に身体が一回転した。

ガードレールの向こうは、奈落の底だと覚悟する。

意識を失う寸前、『はるな』と、呼ばれた気がした。

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