恋の記録

藤谷 郁

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素足

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サービスエリアを出たあと、私は荷室に横たわり、あれこれと考えた。


(行き先は岐阜かもしれない)


老人の話を聞いて、ぼんやりとだが輪郭が見えてきた。三国はおそらく、智哉さんの過去を知っている。それも、子ども時代。岐阜に住んでいた頃。

智哉さんは世の中の理不尽に耐えていた。うさぎ小屋の中で、小さな膝を抱えて。


「うさぎ小屋……」


小さくつぶやき、目を閉じる。

斎藤陽向さんは『うさぎ』に似ていた。賢く、優しく、神経質で怖がりな性格。智哉さんはそんな彼女を可愛いと感じて、愛情を抱いた。

だけど彼女は理不尽な目に遭い、死んでしまう。智哉さんは助けられず、その上、事件がきっかけで子ども時代のトラウマが蘇り、人生のやり直しに執着するに至った。

人生をやり直す。

それこそが智哉さんの光明であると、三国は知っているのだ。

詳しい関わりは、分からないけれど。


「『ハルは今夜……悪夢のような檻から脱出する……血まみれの檻には……もう帰さない』」


日記の内容を、断片的に思い出す。ハル……陽向さんを守り切った彼の、リスタートの記録である。


「アパートの部屋を『檻』だなんて、まるで、うさぎ小屋みたい」


子どもの頃、本当にうさぎを可愛がっていたのだろう。母親なんかより、よほど大切な家族だった。だから、どうしても守りたかったのだ。


(私は、どこまでいっても身代わりだけどね)


考えるのをやめて、手もとに置いたリュックを握りしめる。私は私。一条春菜として彼と向き合えばいい。


(なんとしても智哉さんに会わなくては。東松さん、気づいてくれたかしら……)


無愛想な強面が瞼に浮かび、なぜかほっとした。あの人ならきっと、すぐに気づいて追いかけてくる。私を助けてくれる。

大丈夫。

安心したせいか、急に眠くなってきた。少し休んだぐらいでは疲れが取れない。車の振動に身を委ねるうち、じきに眠ってしまった。





「……一条さん、起きてください。一条さん」


誰かが私を呼んでいる。

目を開けると、見覚えのあるおじいさんがそばにいて、心配そうに見下ろしていた。


(あれ、この人は……)


今の状況を瞬時に思い出し、慌てて起き上がった。


「す、すみません。私、寝てたんですね」

「ずっと静かだったので、たぶん。そのおかげで、休憩なしで一気に走ることができましたが」


老人は微笑むが、かなり疲れた様子だ。

車のエンジンが止まっている。デジタル時計の表示は午後11時半過ぎ。どこまで来たのだろう。


「あの、ここは?」

「岐阜県内のサービスエリアです」

「岐阜……」


逃亡先は、やはり岐阜だった。

しかし、サービスエリアということは、まだ高速から降りていない。


「まだ走るんですか?」

「いいえ。ワンボックスは乗り捨てて、私は別の車に乗り換えます。ここでお別れですね」


老人がぺこりと頭を下げた。よく見ると、彼はボストンバッグをかたわらに置き、レインコートを着ている。


「お別れって……このあと私は、どうすればいいんですか?」

「三国さんの指示に従って、動いてもらいます」


老人がポケットからスマートフォンを取り出し、私に手渡した。


「足がつかないケータイだそうです。私にはもう必要ないので、ここに着いたら一条さんに渡すよう言われておりました」

「三国さんに電話すればいいんですね」


スマホを操作すると、電話番号が一つだけ登録されていた。


「そうです。彼の言うとおりにすれば、水樹さんにたどり着けますよ。もう一息です」


胸がズキッとする。善悪はともかく、この人は私を応援しているのだ。


「では、私はこれで」

「あ、あのっ、ちょっと待ってください」


老人が車を出ようとするのを、私は反射的に呼び止めた。


「はい、なんでしょう」

「その、えっと……」


言葉に詰まった。彼は私のせいで捕まるだろう。GPS追跡アプリによって、この場所は既に特定されているはずだから。でも、やっぱり言っておきたい。


「お元気で。いろいろと、ありがとうございました」

「ああ……どういたしまして。こちらこそ、一条さんにお会いできて良かったです。どうぞ、お幸せに」


老人はフードを被ると、スライドドアを開けて外に出た。こちらを振り向くことなく、雨の中を駆けていく。

ドアを閉めると、私は一人きりになった。


「まずは、三国に電話しなくちゃ」


スマートフォンを操作しようとして、ふと手を止める。

病院を脱け出してから5時間が経過した。警察は既に、GPSで追跡しているだろう。おそらく彼らは、智哉さんの居場所が分かるまで接触してこない。追跡がバレたら、なにもかも台無しになってしまうから。

窓に顔を寄せて、外を覗いてみた。ここは駐車場の端っこのようで、外灯は暗く、店舗棟の明かりも届かない。深夜のためか、駐車する車も数えるほどだった。

きっと、あのうちのどれかが覆面パトカーだ。私が移動すれば、付いてくるだろう。三国に気づかれないよう、うまく追跡してくれる。

希望的観測だが、成功を信じなければやってられない。


(東松さんに連絡すれば、確かめられるのに)


しかし、このスマホは使えない。三国のことだから、どこかから遠隔チェックしている。スマホの操作も私の行動も、きっと把握済みだ。

妙な動きをすれば、山賀さんに危害が及ぶ。発信機を隠し通すことだけ考えて、あとは従おう。

私はスマートフォンに向き合い、電話をかけた。




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