恋の記録

藤谷 郁

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素足

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「一条さん。そろそろ出てもいいですよ」


車が走り出してから10分ほどのところで、老人が合図した。

私はシートをそっとめくり、周りを見回してからカートを出る。狭い空間でじっとしているのは思いのほか苦痛だった。


「こ、腰が痛い……」


凝り固まった身体を伸ばし、ワンボックスを運転する老人に訊ねた。


「今って、高速を走ってますよね。かなり遠くまで行くんですか?」

「私が運転するのは途中までなので、行き先はちょっと……それより、後ろにバスタオルがあるので使ってください。そのままでは風邪を引いてしまいますよ」

「あ、はい。ありがとうございます」


返事を濁された。三国が口止めしたのだろう。途中で逃げて、通報するとでも思っているのか。


(そんなこと、するわけがない。する必要もないし、私は絶対に智哉さんに会うんだから)


荷室の隅にバスタオルが置いてあった。私はカートの陰にしゃがんでリュックを引き寄せ、着替え一式を取り出してから服を脱いだ。ほとんど全裸だが、気にしない。荷室はスモークフィルムで囲まれているし、運転手の死角である。

脱いだ服は着替えが入っていたビニール袋に放り込んだ。再び着ることがあるか分からないが、一応リュックに入れておこう。

清潔なバスタオルで身体を拭くと、ちょっとスッキリした。素早く下着をつけて、グレイのパーカーとデニムに着替える。そして、レザーパンプスの代わりに防水加工のスリッポンを履いた。雨は止みそうにないし、レザーソールで屋外は歩けないから。

でも、パンプスは大切なお守りだ。肌身離さず持っていよう。


「お守りか……」


私はしばし考え、リュックにしまい直した。



着替え終わると、急に脱力した。ようやく緊張が解けたのかもしれない。本当の勝負はこれからだが、とりあえず一段落である。


(身体の節々が痛い。全身の筋肉を使ったのって、何年ぶりだろう)


我ながらすごいことをやったものだ。今無事でいられるのが奇跡に思える。

シートを倒した荷室は、カートを積んであってもスペースに余裕がある。横になろうとすると、老人の声が聞こえた。


「一条さん、お疲れになったでしょう。サービスエリアに寄りませんか」

「えっ、でも……」


ずいぶんと呑気な提案だ。自分たちは現在、逃走中である。


「警察については、ご安心を。脱出が発覚しても即手配とはならないし、この時間ならまだ大丈夫だと、あの人が言っていました」

「はあ。そういうものなんですね……」


あの人というのは三国のことだ。なぜ彼が捜査事情に詳しいのか不明だが、老人がいいと言うのであれば、私も構わない。それに、喉がカラカラだった。


「では、お願いします」

「承知しました。長居はできませんが、今のうちに休憩なさってください」


老人がウインカーを出して、サービスエリアの進入路へ進んだ。




サービスエリアの休憩スペースは、ほとんどの椅子が埋まっていた。私は老人と並んで隅の席に座り、ペットボトルのお茶を飲んだ。人心地がついたところで、あらためて周りを見やる。


「結構、こんでますね」

「連休中ですから。今日明日はUターンラッシュのピークなので、上りのSAはすごい人でしょうな」


そういえば、反対側の道路が渋滞していた。私は頭の中で道路地図を開く。


(ここは、関越自動車道下りの高坂サービスエリアだ。ということは、行き先は群馬か、それとも長野、岐阜……あるいは途中で高速を降りるかもしれない)


これからどこへ向かうのか、絞るのは難しい。老人に訊いても、終着地は言わないだろう。


「あの……一つ、お訊ねしたいのですが」 


他のことでもいい。とにかく質問してみよう。三国仁志について情報を得たい。


「はい、何でしょう」

「あなたはなぜ、あの人を手伝うのですか?」


老人が飲みかけの缶コーヒーをテーブルに置いた。顔を見ると、少し戸惑っている。


「こんなリスキーな計画、いくらお金のためでも乗るのは危険です。捕まれば刑務所行きですよ? なぜ引き受けたのか、理解できません」

「……」


老人は答えない。もしかしたらと思い、ストレートに言ってみる。


「あなたも、あの男に脅されたんですね」

「違います」


強い口調だった。

私が驚くのを見て、老人は少し済まなそうにするが、ハッキリと言った。


「私は、あの人……三国さんに救われました」

「えっ?」


意外な反応であり、言葉だった。

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