恋の記録

藤谷 郁

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素足

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梯子を下ろす前に、滑り止め付きの靴を履いた。あまりにもピッタリなので驚くが、パンプスをリュックにしまおうとして、智哉さんが靴のサイズを三国に教えたのだと思い至る。


(滑り止め、か……)


雨に濡れた窓を見やり、ふと、鳥宮さんを連想した。彼はサンダル履きの足を滑らせ、ベランダから転落したのだ。

警察は、智哉さんが彼にサンダルを履かせたのではないかと疑っている。しかもレザーのものを。

私が渡されたのは滑り止め付きのシューズだが、本当に安全なのだろうか。もし、鳥宮さんみたいに、落ちてしまったら……


(余計なことを考えてはダメ。大丈夫、一つ下の階に降りるだけだもの。それに、命綱だってある……!)


頭を強く振り、恐怖を打ち払った。失敗を恐れず、もっと先のことを考えるべきだ。

そう、大切なのは病院を出たあと。脱出は終わりではなく、むしろ始まり。突貫工事で進めた『裏の作戦』を頭の中で確認した。


(GPS追跡アプリはノートパソコンにインストール済み。ログインパスワードを書いたメモは、うさぎの絆創膏セットに入れておいた。キーワードの『うさぎ』は、智哉さんの日記を読み込んでいればピンとくるはず。あとは病院を出る時、発信機をONにするだけだ。きっと大丈夫。彼ならすぐに気づいてくれる)





「準備ができたわ」


時刻は午後6時20分を回ったところ。外は暗く、雨で見通しが悪い。誰にも見つからずに脱出できるだろう。


「おじいさんに合図します」


山賀さんが窓の側に来て、下で待機する老人に電話をかけた。私は言われたとおり窓を開けて、命綱の先端を垂らし、窓枠に梯子を掛けた。しばらくするとGoサインが出る。

山賀さんと目を合わせ、言葉を交わした。


「じゃあ、もう行くね」

「一条さん、お元気で。私のためにも、水樹さんと幸せになってください」


山賀さんが目を潤ませた。彼女にとっては、今生の別れである。私はただうなずき、微笑んでみせた。


「裏には誰もいません。今のうちです」

「うん」


フックがしっかり掛かっているのを確かめてから窓枠を越え、後ろ向きになって、徐々に体重を梯子に移していく。


「ひっ、つめたい……」


雨が降りかかり、たちまちびしょ濡れになった。風が横から吹いて、梯子ごとぐらぐら揺れる。とんでもなく不安定な状態だ。

想像したより100倍怖い。地上20メートルの高さで、ミノムシみたいにぶら下がっている。


(アクションスターじゃあるまいし、こんなこと、私に出来るはずがない。絶対に無理……!)


しかし、時すでに遅し。ミッションは始まってしまった。

死にたくなければ、やるしかない。

意を決して、一段、また一段と梯子を降りる。生まれて初めて、地球の重力を意識した。靴のグリップに助けられ、かろうじて安定を保っていられる。


(命綱だってあるし、絶対に大丈夫)


なるべく下を見ないようにするが、恐怖が薄まるわけではない。とにかく、しっかりと梯子を握り、足を掛けて、降りることに集中する。

気を抜けば、奈落の底へ真っ逆さまだ。

鳥宮さんのように。


「はあ……はあ……」


息が切れてきた。

誰かに見られたらどうしようとか、そんな心配はもはやどうでも良く、とにかく、死にたくない。それだけが今のすべて。上も下も見ることができず、歯を食いしばって降りていくのみ。


「その調子です。慎重に、ゆっくりゆっくり」


老人の声が聞こえた。ゴールがすぐそこだと分かり嬉しくなるが、同時に緊張する。少しでも気を抜けば、あっという間に奈落の底だ。


「はい、そこでストップ。梯子ごとこちらに寄せますから、足を窓枠に掛けてください」


老人の誘導で、梯子から5階の窓へと体重を移す。もうすぐフィニッシュだ。


「手を貸してください。そうです。しっかり掴まって、いちにのさん、はいっ」

「……!」


勢い余って、窓の中に転げ落ちた。

衝撃のためか、一瞬だけ気を失った感覚になる。気がつくと、老人が私の下敷きになっていた。


「す、すみません!」

「いてて……け、けがはないですかな」

「大丈夫です。おじいさんは?」

「尻餅をついただけですので、ご心配なく」


無事、ミッション成功。

安心したとたん、汗がどっと噴き出る。喉がカラカラだった。


「さあ、ゆっくりしてる暇はありません。命綱を外してください。私は梯子を回収します」

「は、はい」


老人が窓から上を覗き、梯子を軽く引っ張る。山賀さんへの合図だと分かった。彼女がフックを外すよう、打ち合わせてあるのだ。

老人は梯子を回収すると、命綱と一緒にゴミ袋に放り込み、カートに運ぶ。カートはドアの側に用意してあった。


「一条さん、お乗りください」


いよいよ脱出である。背中からリュックを下ろし、濡れたジャケットと、グローブと滑り止めの靴も脱いで身軽になった。その時、リュックのポケットでスマートフォンが震えているのに気づく。取り出して見ると、通知に『母』と表示されていた。


「失礼」


老人が私の手からスマホを取り上げた。彼は通知を確かめ、残念そうに首を垂れる。


「申しわけありません。電話は没収するよう言われてますので」

「え? あっ……」


電源を切って彼のポケットに入れてしまった。


「追跡されては困ると、あの人が」

「そうですか……」


予想はしていた。たぶん、どこかで処分されるのだろう。


(お母さん……)


私がちっとも連絡しないので、心配してかけてきたのだ。親の気持ちを考えると胸が痛いが、今は、やるべきことに集中しなければ。


「一条さん、お早く」

「はい」


私がカートに入ると、老人がビニールシートで覆い隠した。

用具倉庫を出て、エレベーターに乗って1階に降りる。途中、「お疲れ様です」と声が聞こえた。病院のスタッフだろうか。私は息を殺してうずくまり、リュックをしっかりと抱いた。


(車に積まれたら、発信機をONにする。あとは、運を天に任せよう)


智哉さんのもとへと、私は運ばれていった。


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