恋の記録

藤谷 郁

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春菜の願い

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「交通事故……」


強い衝撃とともに、智哉さんの言葉を思い出す。


――昔、災難に巻き込まれて……両親も家も、もう存在しない。


父親の病気、母親の交通事故。過去のすべてが災難だったのだ。災難と表現したのは、ありのまま伝えるには重すぎる事実だから。


「北城は、沙智子さんの生命保険が目当てだったんじゃないかな」


若月さんのつぶやきに、ハッとした。まだ話は終わっていない。その後、智哉さんがどう生きてきたのか、しっかり聞かなければ。


「生命保険、ですか?」

「沙智子さんがスナックの客に頼まれて入ったという生命保険です。店の太客だったので断れなかったらしく、かなり高額の保険ですよ。北城はもちろん把握していたでしょう」

「それって、つまり……」


若月さんが声をひそめた。ここは、警察署内の食堂である。


「事故について、保険の調査員が疑ったそうです。北城は、沙智子さんだけを事故死に見せかけて殺すつもりが、失敗したのではないかと」

「北城が受取人だったんですか?」


もしそうなら保険金殺人だ。悪魔のような目論見に、背筋がゾッとする。


「いえ、受取人は智哉くんでした。しかし保護者面で取りついてしまえば、どうとでもなります。相手は子どもですから」


北城という男は、女や子どもを食い物にするような、下衆な人間だった。結婚をほのめかしたのは、そのための手続き。母親はそんなことにも気づかず、愛欲に溺れたということ。


「でも、北城も事故で死んだんですよね。母親と一緒に」

「そうなんです」


保険会社は最後まで疑ったが、警察の調査で事故死と判断されたそうだ。原因はスピードの出し過ぎによるスリップ。当時、雨が降って道が滑りやすかったらしい。


「いずれにしろ、沙智子さんが死んだのは天罰ですよ。子どもを蔑ろにして、自分の欲求を優先させたのだから。伸哉さんが生きていたら、彼女がしたことを絶対に許さなかっただろうって、僕の母が嘆いていました」


両親に守り育てられてきた私にとって、智哉さんの生い立ちは、あまりにも壮絶だった。なぜ彼が過去や家族について話そうとしなかったのか、ようやく理解できた。彼があんな風になってしまったのは、生い立ちが原因だ。

瀬戸さんたちが推測したように、斎藤陽向さんの事件がきっかけでトラウマが蘇ったのだろう。子どもの頃の記憶がフラッシュバックして、苦しみ抜いて、人生をやり直そうと決意したのだ。

それとも、まだ他にも原因が?

分からない。

だけど、一つ言えることは、智哉さんの罪が消えるわけじゃないということ。どんな過去があろうと、自分のために他者を利用したり、犠牲にしてもいい理由にはならない。

揺らぐ体をしゃんとさせて、客観的になるよう努めた。


「母親が死んで、智哉さんは独りになったんですね。それから彼は、どうやって生きてきたのでしょう」


私が問いかけると、若月さんは少し明るい口調になり、答えてくれた。


「智哉くんは、僕の母が引き取りました」

「えっ、若月さんのお母様が?」


そういえば、智哉さんは『名古屋のお母さん』と慕っていたという。


「母は沙智子さんの事故死を新聞で知り、急いで智哉くんのもとに駆けつけました。そして、彼が置かれた状況を見て、引き取りたいと希望したそうです」


その時に、周囲の人から詳しい話を聞いたという。


「智哉くんも、母のことは覚えていたようで、顔を見たとたん泣き出したと言っていました。彼を預かっていた親戚はビックリしたそうですよ。母親が亡くなっても涙一つ見せなかったのに、と。幼い頃可愛がってくれた人を見て、気が緩んだのかもしれませんね」


智哉さんの親戚は皆、彼の母親を嫌っていた。親が憎ければ子も憎いのか、誰も彼を引き取ろうとしなかったそうだ。
しかし、それは智哉さんにとって幸運だった。揉めごともなく、最良の環境を得られたのだから。


「言い忘れましたが、母は既に亡くなっています。婿養子だった父と離縁してから、女手一つで店を守り、僕を育て上げた気丈な人でした。智哉くんを引き取るくらい、なんでもなかったんでしょうね。それに、智哉くんは沙智子さんの死亡保険金を受け取っているので、学費など必要なお金はじゅうぶんにありましたから。ただ……」


若月さんが、ふっと息をつく。
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