恋の記録

藤谷 郁

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春菜の願い

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そもそも出会いから不自然だった。

レストランで私が足を滑らせたのは、彼の仕業だ。よく考えれば、床に氷が落ちているなど、そうそうあることではない。

智哉さんは前方のテーブルに座っていた。レジに行く時、私が横を通るのは分かりきっている。隙を見て氷水を通路に撒き、トラップを仕掛ければいい。レザーソールのパンプス、しかもハーフラバーを着けていない女など簡単に引っ掛かるだろう。


(だからあんな風に、しっかりと抱きとめられたんだ)


運命を感じさせるほどの、素晴らしいタイミングで。悔しいくらい完璧なトラップだった。


「苦情の紙も、智哉さんの仕業だったのですね」

「はい。高崎の事件と同じ状況を作り出すため、鳥宮優一朗に書かせたと考えられます。しかし、すべての状況を作り出したわけではありません。例えば、一条さんが【アパートの5階】に住んでいたのは偶然ですよね。そういった符合には、ある作用が働く」

「作用……?」


身体がグラグラする。でも、よく聞かなければ。


「一条さんと斎藤陽向には、いくつかの共通点があります。職場が近いことや、レザーパンプスもそう。水樹さんはそれらの偶然に、運命を感じたでしょう。人生をやり直すなら今だ……と、過去の上書きを思いついたとしても不思議ではありません。人生のやり直しは、彼の悲願ですから」


瀬戸さんの説明は合理的で、筋が通っていた。


「そういえば、私の職場が同じビルだと知ったとき、智哉さんはとても嬉しそうでした。パンプスも、ハーフラバーを着けない私に、君らしくていいと……」


斎藤陽向も、そうだったから。


「……皆さんの推測どおり、智哉さんは、陽向さんをハルと呼んでいたのかな。確かに、ひなたの『陽』は、『はる』とも読みますもんね」

「一条さん……」


つまり、偶然が作用したのである。

私を身代わりに選んだのは、度重なる符合に運命を感じたから。レザーソールのパンプスを穿いていれば、誰でもよかったのだろう。

容姿、性格、嗜好……それらは彼にとって、さほど重要ではなかった。多少違ったところで記録に影響しない。大事なのは、彼女を思わせる小道具とか、運命を感じさせる要素。記録と矛盾しないエピソードと、恋人を守り切るという結果である。

何より智哉さんが求めたのは、陽向さんとの未来だった。


「ううっ……」


胸が苦しい。そうとしか考えられなくて、つらい。


「私は、蜂蜜たっぷりの甘いピザなんか好きじゃない。神経質でも怖がりでもないし、ハルなんて呼ばれたくなかった!」


『君のことを、これから「ハル」と呼ぼう。僕的に、すごくしっくりくる』


智哉さんの笑顔が目に浮かぶが、すぐに打ち消す。彼は、私に笑いかけたのではなかった。


「私、バカみたいですね」

「一条さん……」


瀬戸さんは警察官であり、聴取は仕事だ。同情を顔に出すことはないが、それでも私は惨めさと恥ずかしさでいっぱいになる。

理想の王子様とめぐり逢い、恋をし、結婚する。お伽噺の主人公になった気がして、ただ浮かれていた。

君を守るという彼の言葉に胸ときめかせ、すっかり身を委ね、無償の愛を信じていた。

私を誰かの身代わりにして、知らないうちに恐ろしいことをしていたなんて。それも最初から計算ずくで。

運命の出会いなんかじゃなかった。

あの人は意図的に私と出会い、過去を隠し、何食わぬ顔でそばにいたのだ。


「神経質で怖がりなのは、陽向さんです。私はそんな弱い女じゃないから、智哉さんに言われるたび、違和感がありました」


自虐的に笑うと、東松さんが少しつらそうにした。この人はとても良い人だ。智哉さんと違って。


「あんまりです……」


負の感情が込み上げてくる。苦しい、悔しい、つらい。


智哉さんは、私を愛していなかった。


彼に夢中の私は、元カノや過去なんてどうでもいいと本気で思っていた。その気持ちを利用されたのだ。

どうすればそんなことができるの?

酷い、酷すぎる。

斎藤陽向もトラウマも知るもんか。そんなの、私を騙していい理由にならない!


「一条さん。休みますか」

「はっ……」


瀬戸さんが心配そうに覗き込んだ。私は大丈夫と言おうとして、自分が泣いているのに初めて気づいた。

恥ずかしかった。泣いたことではなく、偽りの愛に喜んでいた自分を彼女が知っているから。だけど、女としての意地とかプライドとか、そんなものは地に落ちたも同然。今さら取り繕っても無意味である。


「すみません。取り乱しました」


ただ、悲しくて、悔しい。

私は智哉さんを愛していた。大切に思っていた。だからこそ許せないのだ。


「大丈夫です。聴取を続けてください」


涙を拭って顔を上げる私に、瀬戸さんがうなずく。

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