恋の記録

藤谷 郁

文字の大きさ
上 下
172 / 236
春菜の願い

しおりを挟む
そもそも出会いから不自然だった。

レストランで私が足を滑らせたのは、彼の仕業だ。よく考えれば、床に氷が落ちているなど、そうそうあることではない。

智哉さんは前方のテーブルに座っていた。レジに行く時、私が横を通るのは分かりきっている。隙を見て氷水を通路に撒き、トラップを仕掛ければいい。レザーソールのパンプス、しかもハーフラバーを着けていない女など簡単に引っ掛かるだろう。


(だからあんな風に、しっかりと抱きとめられたんだ)


運命を感じさせるほどの、素晴らしいタイミングで。悔しいくらい完璧なトラップだった。


「苦情の紙も、智哉さんの仕業だったのですね」

「はい。高崎の事件と同じ状況を作り出すため、鳥宮優一朗に書かせたと考えられます。しかし、すべての状況を作り出したわけではありません。例えば、一条さんが【アパートの5階】に住んでいたのは偶然ですよね。そういった符合には、ある作用が働く」

「作用……?」


身体がグラグラする。でも、よく聞かなければ。


「一条さんと斎藤陽向には、いくつかの共通点があります。職場が近いことや、レザーパンプスもそう。水樹さんはそれらの偶然に、運命を感じたでしょう。人生をやり直すなら今だ……と、過去の上書きを思いついたとしても不思議ではありません。人生のやり直しは、彼の悲願ですから」


瀬戸さんの説明は合理的で、筋が通っていた。


「そういえば、私の職場が同じビルだと知ったとき、智哉さんはとても嬉しそうでした。パンプスも、ハーフラバーを着けない私に、君らしくていいと……」


斎藤陽向も、そうだったから。


「……皆さんの推測どおり、智哉さんは、陽向さんをハルと呼んでいたのかな。確かに、ひなたの『陽』は、『はる』とも読みますもんね」

「一条さん……」


つまり、偶然が作用したのである。

私を身代わりに選んだのは、度重なる符合に運命を感じたから。レザーソールのパンプスを穿いていれば、誰でもよかったのだろう。

容姿、性格、嗜好……それらは彼にとって、さほど重要ではなかった。多少違ったところで記録に影響しない。大事なのは、彼女を思わせる小道具とか、運命を感じさせる要素。記録と矛盾しないエピソードと、恋人を守り切るという結果である。

何より智哉さんが求めたのは、陽向さんとの未来だった。


「ううっ……」


胸が苦しい。そうとしか考えられなくて、つらい。


「私は、蜂蜜たっぷりの甘いピザなんか好きじゃない。神経質でも怖がりでもないし、ハルなんて呼ばれたくなかった!」


『君のことを、これから「ハル」と呼ぼう。僕的に、すごくしっくりくる』


智哉さんの笑顔が目に浮かぶが、すぐに打ち消す。彼は、私に笑いかけたのではなかった。


「私、バカみたいですね」

「一条さん……」


瀬戸さんは警察官であり、聴取は仕事だ。同情を顔に出すことはないが、それでも私は惨めさと恥ずかしさでいっぱいになる。

理想の王子様とめぐり逢い、恋をし、結婚する。お伽噺の主人公になった気がして、ただ浮かれていた。

君を守るという彼の言葉に胸ときめかせ、すっかり身を委ね、無償の愛を信じていた。

私を誰かの身代わりにして、知らないうちに恐ろしいことをしていたなんて。それも最初から計算ずくで。

運命の出会いなんかじゃなかった。

あの人は意図的に私と出会い、過去を隠し、何食わぬ顔でそばにいたのだ。


「神経質で怖がりなのは、陽向さんです。私はそんな弱い女じゃないから、智哉さんに言われるたび、違和感がありました」


自虐的に笑うと、東松さんが少しつらそうにした。この人はとても良い人だ。智哉さんと違って。


「あんまりです……」


負の感情が込み上げてくる。苦しい、悔しい、つらい。


智哉さんは、私を愛していなかった。


彼に夢中の私は、元カノや過去なんてどうでもいいと本気で思っていた。その気持ちを利用されたのだ。

どうすればそんなことができるの?

酷い、酷すぎる。

斎藤陽向もトラウマも知るもんか。そんなの、私を騙していい理由にならない!


「一条さん。休みますか」

「はっ……」


瀬戸さんが心配そうに覗き込んだ。私は大丈夫と言おうとして、自分が泣いているのに初めて気づいた。

恥ずかしかった。泣いたことではなく、偽りの愛に喜んでいた自分を彼女が知っているから。だけど、女としての意地とかプライドとか、そんなものは地に落ちたも同然。今さら取り繕っても無意味である。


「すみません。取り乱しました」


ただ、悲しくて、悔しい。

私は智哉さんを愛していた。大切に思っていた。だからこそ許せないのだ。


「大丈夫です。聴取を続けてください」


涙を拭って顔を上げる私に、瀬戸さんがうなずく。

しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

友達の母親が俺の目の前で下着姿に…

じゅ〜ん
エッセイ・ノンフィクション
とあるオッサンの青春実話です

それは奇妙な町でした

ねこしゃけ日和
ミステリー
 売れない作家である有馬四迷は新作を目新しさが足りないと言われ、ボツにされた。  バイト先のオーナーであるアメリカ人のルドリックさんにそのことを告げるとちょうどいい町があると教えられた。  猫神町は誰もがねこを敬う奇妙な町だった。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

マクデブルクの半球

ナコイトオル
ミステリー
ある夜、電話がかかってきた。ただそれだけの、はずだった。 高校時代、自分と折り合いの付かなかった優等生からの唐突な電話。それが全てのはじまりだった。 電話をかけたのとほぼ同時刻、何者かに突き落とされ意識不明となった青年コウと、そんな彼と昔折り合いを付けることが出来なかった、容疑者となった女、ユキ。どうしてこうなったのかを調べていく内に、コウを突き落とした容疑者はどんどんと増えてきてしまう─── 「犯人を探そう。出来れば、彼が目を覚ますまでに」 自他共に認める在宅ストーカーを相棒に、誰かのために進む、犯人探し。

ハイブリッド・ブレイン

青木ぬかり
ミステリー
「人とアリ、命の永さは同じだよ。……たぶん」  14歳女子の死、その理由に迫る物語です。

サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由

フルーツパフェ
大衆娯楽
 クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。  トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。  いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。  考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。  赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。  言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。  たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。

SP警護と強気な華【完】

氷萌
ミステリー
『遺産10億の相続は  20歳の成人を迎えた孫娘”冬月カトレア”へ譲り渡す』 祖父の遺した遺書が波乱を呼び 美しい媛は欲に塗れた大人達から 大金を賭けて命を狙われる――― 彼女を護るは たった1人のボディガード 金持ち強気な美人媛 冬月カトレア(20)-Katorea Fuyuduki- ××× 性悪専属護衛SP 柊ナツメ(27)-Nathume Hiragi- 過去と現在 複雑に絡み合う人間関係 金か仕事か それとも愛か――― ***注意事項*** 警察SPが民間人の護衛をする事は 基本的にはあり得ません。 ですがストーリー上、必要とする為 別物として捉えて頂ければ幸いです。 様々な意見はあるとは思いますが 今後の展開で明らかになりますので お付き合いの程、宜しくお願い致します。

淫らに、咲き乱れる

あるまん
恋愛
軽蔑してた、筈なのに。

処理中です...