恋の記録

藤谷 郁

文字の大きさ
上 下
170 / 236
春菜の願い

しおりを挟む
智哉さんが事件を起こした翌日の夕方。私は事情聴取のために緑署を訪れた。

係員に案内されて取調室に入ると、東松さんと瀬戸さんが待っていた。

事件後、東松さんに聴取されるのは初めてである。何か進展があったのではと期待したが、智哉さんの行方は不明のまま。

落胆した。

しかし、智哉さんを追跡するための重要な聴取だと告げられ、気を引き締める。

私はその時点まで、自分が被疑者ともやさんの恋人であり、彼が古池保を殺したのは私を守るためだと信じていたから。





東松さんは資料を手もとに置き、智哉さんが古池を殺害するまでの経緯について、現時点での推測を説明した。それはまた、私の知らない(智哉さんが話そうとしなかった)高崎時代の暴露でもあった。



「あの、待ってください。よく分からないのですが、つまり、私がその斎藤陽向さん……智哉さんの『元恋人』の、身代わりだと言うのですか?」

「そうです」

「……」


私だけでなく、転落死した鳥宮さんも、智哉さんが人生をやり直すための計画に使われたという。斎藤陽向さんを殺害した犯人「田村剛士」の役をあてがわれて。


「嘘です。そんなの、バカげてる……」


まるで現実味のない話だ。と言うより、信じたくない気持ちが理解を妨げていた。


「証拠を精査した上での答えです。信じてもらうしかありません」

「証拠……」


二年前に高崎市で起きた殺人事件。若い女性がアパートの隣人に殺害されるという痛ましい事件を、私は初めて知った。そして、当時女性の恋人だった智哉さんが、現場の第一発見者であったことも。

恐ろしく、衝撃的な事実だった。

東松さんは証拠書類の一部を見せてくれた。犯人の田村が斎藤陽向さんのポストに入れたとされる苦情の紙がその一つである。

赤いペンでレポート用紙に殴り書きされた「うるさいぞ」の文字を見て、息が止まりそうになった。筆跡こそ違うが、私が鳥宮さんからもらった苦情の紙とそっくり同じだ。智哉さんが鳥宮さんに指示して、同じものを作らせたからだと警察は判断している。

つまり智哉さんが鳥宮さんを買収し、隣人トラブルを再現したと言うのだ。二人の接触場面も映像で証拠が挙がっている。金銭取引したのは間違いないらしい。


「智哉さんが、鳥宮さんを転落死させたってことですか……まさか、本当に?」

「うまくそのように仕向けたと推測されます」


東松さんは真剣だ。この人だけでなく、警察は事件解決のために必死である。参考人を嘘で揺さぶる余裕など1ミリもないはず。


「水樹は鳥宮を転落死させることで過去を上書きした。ストーカーから恋人を守るという筋書きを完成し、人生をやり直すためです。しかし上手くことが運んだのはそこまでで、再出発の矢先に誤算が生じた。引っ越しの日に古池に遭遇するという誤算です。あの時の、たった数秒の睨み合いで水樹は破綻し、計画のすべてをぶち壊すことになった」


どうしても信じられない。だけど、もしも本当なら知るべきだ。たとえ理解できなくても。


「水樹がなぜ破綻し、凶行に及んだのか。それはおそらく、トラウマが原因です」

「トラウマ?」


唐突な発言に思えた。でもやはり東松さんは真剣そのもの。まっすぐな目で私と向き合っている。


「その辺りについては調査中なので具体的には言えませんが…… 水樹の行動原理はおそらくトラウマの克服。『古池を排除しなければならない』という強迫観念に囚われた可能性がある」

「トラウマというのは……」

「心の傷です。それもかなり深刻な」


思いも寄らない告知だった。あの智哉さんにトラウマがあったなんて……


「水樹が逃走したのは、まだ挽回できると思ってのことです。人生をもう一度やり直すために、一条さんに必ずコンタクトを取り、連れて行こうとする。あなたには酷でしょうが、水樹の逮捕にどうか協力してください」


警察の推測は筋が通っている。いや、私に話すくらいだから、きっともう推測ではなく事実なのだろう。東松さんが言ったように、さまざまな証拠を精査した結果なのだ。

それでも、私はまだ信じたかった。智哉さんが愛してくれたのは私自身だと。


「一条さん」


聴取を見守っていた瀬戸さんが、私に話しかけた。ふいに名前を呼ばれてドキッとする。

「は、はい」

「実は、あなたに見てほしいものがあります」


瀬戸さんはやわらかな口調で言うと、東松さんの肩を突いて交代を促した。

しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

夫の色のドレスを着るのをやめた結果、夫が我慢をやめてしまいました

氷雨そら
恋愛
夫の色のドレスは私には似合わない。 ある夜会、夫と一緒にいたのは夫の愛人だという噂が流れている令嬢だった。彼女は夫の瞳の色のドレスを私とは違い完璧に着こなしていた。噂が事実なのだと確信した私は、もう夫の色のドレスは着ないことに決めた。 小説家になろう様にも掲載中です

失った記憶が戻り、失ってからの記憶を失った私の話

本見りん
ミステリー
交通事故に遭った沙良が目を覚ますと、そこには婚約者の拓人が居た。 一年前の交通事故で沙良は記憶を失い、今は彼と結婚しているという。 しかし今の沙良にはこの一年の記憶がない。 そして、彼女が記憶を失う交通事故の前に見たものは……。 『○曜○イド劇場』風、ミステリーとサスペンスです。 最後のやり取りはお約束の断崖絶壁の海に行きたかったのですが、海の公園辺りになっています。

ピエロの嘲笑が消えない

葉羽
ミステリー
天才高校生・神藤葉羽は、幼馴染の望月彩由美から奇妙な相談を受ける。彼女の叔母が入院している精神科診療所「クロウ・ハウス」で、不可解な現象が続いているというのだ。患者たちは一様に「ピエロを見た」と怯え、精神を病んでいく。葉羽は、彩由美と共に診療所を訪れ、調査を開始する。だが、そこは常識では計り知れない恐怖が支配する場所だった。患者たちの証言、院長の怪しい行動、そして診療所に隠された秘密。葉羽は持ち前の推理力で謎に挑むが、見えない敵は彼の想像を遥かに超える狡猾さで迫ってくる。ピエロの正体は何なのか? 診療所で何が行われているのか? そして、葉羽は愛する彩由美を守り抜き、この悪夢を終わらせることができるのか? 深層心理に潜む恐怖を暴き出す、戦慄の本格推理ホラー。

あなたの子ですが、内緒で育てます

椿蛍
恋愛
「本当にあなたの子ですか?」  突然現れた浮気相手、私の夫である国王陛下の子を身籠っているという。  夫、王妃の座、全て奪われ冷遇される日々――王宮から、追われた私のお腹には陛下の子が宿っていた。  私は強くなることを決意する。 「この子は私が育てます!」  お腹にいる子供は王の子。  王の子だけが不思議な力を持つ。  私は育った子供を連れて王宮へ戻る。  ――そして、私を追い出したことを後悔してください。 ※夫の後悔、浮気相手と虐げられからのざまあ ※他サイト様でも掲載しております。 ※hotランキング1位&エールありがとうございます!

夫の不貞現場を目撃してしまいました

秋月乃衣
恋愛
伯爵夫人ミレーユは、夫との間に子供が授からないまま、閨を共にしなくなって一年。 何故か夫から閨を拒否されてしまっているが、理由が分からない。 そんな時に夜会中の庭園で、夫と未亡人のマデリーンが、情事に耽っている場面を目撃してしまう。 なろう様でも掲載しております。

復讐の旋律

北川 悠
ミステリー
 昨年、特別賞を頂きました【嗜食】は現在、非公開とさせていただいておりますが、改稿を加え、近いうち再搭載させていただきますので、よろしくお願いします。  復讐の旋律 あらすじ    田代香苗の目の前で、彼女の元恋人で無職のチンピラ、入谷健吾が無残に殺されるという事件が起きる。犯人からの通報によって田代は保護され、警察病院に入院した。  県警本部の北川警部が率いるチームが、その事件を担当するが、圧力がかかって捜査本部は解散。そんな時、川島という医師が、田代香苗の元同級生である三枝京子を連れて、面会にやってくる。  事件に進展がないまま、時が過ぎていくが、ある暴力団組長からホワイト興産という、謎の団体の噂を聞く。犯人は誰なのか? ホワイト興産とははたして何者なのか?  まあ、なんというか古典的な復讐ミステリーです…… よかったら読んでみてください。  

〖完結〗私はあなたのせいで死ぬのです。

藍川みいな
恋愛
「シュリル嬢、俺と結婚してくれませんか?」 憧れのレナード・ドリスト侯爵からのプロポーズ。 彼は美しいだけでなく、とても紳士的で頼りがいがあって、何より私を愛してくれていました。 すごく幸せでした……あの日までは。 結婚して1年が過ぎた頃、旦那様は愛人を連れて来ました。次々に愛人を連れて来て、愛人に子供まで出来た。 それでも愛しているのは君だけだと、離婚さえしてくれません。 そして、妹のダリアが旦那様の子を授かった…… もう耐える事は出来ません。 旦那様、私はあなたのせいで死にます。 だから、後悔しながら生きてください。 設定ゆるゆるの、架空の世界のお話です。 全15話で完結になります。 この物語は、主人公が8話で登場しなくなります。 感想の返信が出来なくて、申し訳ありません。 たくさんの感想ありがとうございます。 次作の『もう二度とあなたの妻にはなりません!』は、このお話の続編になっております。 このお話はバッドエンドでしたが、次作はただただシュリルが幸せになるお話です。 良かったら読んでください。

校長室のソファの染みを知っていますか?

フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。 しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。 座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る

処理中です...