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春菜の願い
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智哉さんが事件を起こした翌日の夕方。私は事情聴取のために緑署を訪れた。
係員に案内されて取調室に入ると、東松さんと瀬戸さんが待っていた。
事件後、東松さんに聴取されるのは初めてである。何か進展があったのではと期待したが、智哉さんの行方は不明のまま。
落胆した。
しかし、智哉さんを追跡するための重要な聴取だと告げられ、気を引き締める。
私はその時点まで、自分が被疑者の恋人であり、彼が古池保を殺したのは私を守るためだと信じていたから。
東松さんは資料を手もとに置き、智哉さんが古池を殺害するまでの経緯について、現時点での推測を説明した。それはまた、私の知らない(智哉さんが話そうとしなかった)高崎時代の暴露でもあった。
「あの、待ってください。よく分からないのですが、つまり、私がその斎藤陽向さん……智哉さんの『元恋人』の、身代わりだと言うのですか?」
「そうです」
「……」
私だけでなく、転落死した鳥宮さんも、智哉さんが人生をやり直すための計画に使われたという。斎藤陽向さんを殺害した犯人「田村剛士」の役をあてがわれて。
「嘘です。そんなの、バカげてる……」
まるで現実味のない話だ。と言うより、信じたくない気持ちが理解を妨げていた。
「証拠を精査した上での答えです。信じてもらうしかありません」
「証拠……」
二年前に高崎市で起きた殺人事件。若い女性がアパートの隣人に殺害されるという痛ましい事件を、私は初めて知った。そして、当時女性の恋人だった智哉さんが、現場の第一発見者であったことも。
恐ろしく、衝撃的な事実だった。
東松さんは証拠書類の一部を見せてくれた。犯人の田村が斎藤陽向さんのポストに入れたとされる苦情の紙がその一つである。
赤いペンでレポート用紙に殴り書きされた「うるさいぞ」の文字を見て、息が止まりそうになった。筆跡こそ違うが、私が鳥宮さんからもらった苦情の紙とそっくり同じだ。智哉さんが鳥宮さんに指示して、同じものを作らせたからだと警察は判断している。
つまり智哉さんが鳥宮さんを買収し、隣人トラブルを再現したと言うのだ。二人の接触場面も映像で証拠が挙がっている。金銭取引したのは間違いないらしい。
「智哉さんが、鳥宮さんを転落死させたってことですか……まさか、本当に?」
「うまくそのように仕向けたと推測されます」
東松さんは真剣だ。この人だけでなく、警察は事件解決のために必死である。参考人を嘘で揺さぶる余裕など1ミリもないはず。
「水樹は鳥宮を転落死させることで過去を上書きした。ストーカーから恋人を守るという筋書きを完成し、人生をやり直すためです。しかし上手くことが運んだのはそこまでで、再出発の矢先に誤算が生じた。引っ越しの日に古池に遭遇するという誤算です。あの時の、たった数秒の睨み合いで水樹は破綻し、計画のすべてをぶち壊すことになった」
どうしても信じられない。だけど、もしも本当なら知るべきだ。たとえ理解できなくても。
「水樹がなぜ破綻し、凶行に及んだのか。それはおそらく、トラウマが原因です」
「トラウマ?」
唐突な発言に思えた。でもやはり東松さんは真剣そのもの。まっすぐな目で私と向き合っている。
「その辺りについては調査中なので具体的には言えませんが…… 水樹の行動原理はおそらくトラウマの克服。『古池を排除しなければならない』という強迫観念に囚われた可能性がある」
「トラウマというのは……」
「心の傷です。それもかなり深刻な」
思いも寄らない告知だった。あの智哉さんにトラウマがあったなんて……
「水樹が逃走したのは、まだ挽回できると思ってのことです。人生をもう一度やり直すために、一条さんに必ずコンタクトを取り、連れて行こうとする。あなたには酷でしょうが、水樹の逮捕にどうか協力してください」
警察の推測は筋が通っている。いや、私に話すくらいだから、きっともう推測ではなく事実なのだろう。東松さんが言ったように、さまざまな証拠を精査した結果なのだ。
それでも、私はまだ信じたかった。智哉さんが愛してくれたのは私自身だと。
「一条さん」
聴取を見守っていた瀬戸さんが、私に話しかけた。ふいに名前を呼ばれてドキッとする。
「は、はい」
「実は、あなたに見てほしいものがあります」
瀬戸さんはやわらかな口調で言うと、東松さんの肩を突いて交代を促した。
係員に案内されて取調室に入ると、東松さんと瀬戸さんが待っていた。
事件後、東松さんに聴取されるのは初めてである。何か進展があったのではと期待したが、智哉さんの行方は不明のまま。
落胆した。
しかし、智哉さんを追跡するための重要な聴取だと告げられ、気を引き締める。
私はその時点まで、自分が被疑者の恋人であり、彼が古池保を殺したのは私を守るためだと信じていたから。
東松さんは資料を手もとに置き、智哉さんが古池を殺害するまでの経緯について、現時点での推測を説明した。それはまた、私の知らない(智哉さんが話そうとしなかった)高崎時代の暴露でもあった。
「あの、待ってください。よく分からないのですが、つまり、私がその斎藤陽向さん……智哉さんの『元恋人』の、身代わりだと言うのですか?」
「そうです」
「……」
私だけでなく、転落死した鳥宮さんも、智哉さんが人生をやり直すための計画に使われたという。斎藤陽向さんを殺害した犯人「田村剛士」の役をあてがわれて。
「嘘です。そんなの、バカげてる……」
まるで現実味のない話だ。と言うより、信じたくない気持ちが理解を妨げていた。
「証拠を精査した上での答えです。信じてもらうしかありません」
「証拠……」
二年前に高崎市で起きた殺人事件。若い女性がアパートの隣人に殺害されるという痛ましい事件を、私は初めて知った。そして、当時女性の恋人だった智哉さんが、現場の第一発見者であったことも。
恐ろしく、衝撃的な事実だった。
東松さんは証拠書類の一部を見せてくれた。犯人の田村が斎藤陽向さんのポストに入れたとされる苦情の紙がその一つである。
赤いペンでレポート用紙に殴り書きされた「うるさいぞ」の文字を見て、息が止まりそうになった。筆跡こそ違うが、私が鳥宮さんからもらった苦情の紙とそっくり同じだ。智哉さんが鳥宮さんに指示して、同じものを作らせたからだと警察は判断している。
つまり智哉さんが鳥宮さんを買収し、隣人トラブルを再現したと言うのだ。二人の接触場面も映像で証拠が挙がっている。金銭取引したのは間違いないらしい。
「智哉さんが、鳥宮さんを転落死させたってことですか……まさか、本当に?」
「うまくそのように仕向けたと推測されます」
東松さんは真剣だ。この人だけでなく、警察は事件解決のために必死である。参考人を嘘で揺さぶる余裕など1ミリもないはず。
「水樹は鳥宮を転落死させることで過去を上書きした。ストーカーから恋人を守るという筋書きを完成し、人生をやり直すためです。しかし上手くことが運んだのはそこまでで、再出発の矢先に誤算が生じた。引っ越しの日に古池に遭遇するという誤算です。あの時の、たった数秒の睨み合いで水樹は破綻し、計画のすべてをぶち壊すことになった」
どうしても信じられない。だけど、もしも本当なら知るべきだ。たとえ理解できなくても。
「水樹がなぜ破綻し、凶行に及んだのか。それはおそらく、トラウマが原因です」
「トラウマ?」
唐突な発言に思えた。でもやはり東松さんは真剣そのもの。まっすぐな目で私と向き合っている。
「その辺りについては調査中なので具体的には言えませんが…… 水樹の行動原理はおそらくトラウマの克服。『古池を排除しなければならない』という強迫観念に囚われた可能性がある」
「トラウマというのは……」
「心の傷です。それもかなり深刻な」
思いも寄らない告知だった。あの智哉さんにトラウマがあったなんて……
「水樹が逃走したのは、まだ挽回できると思ってのことです。人生をもう一度やり直すために、一条さんに必ずコンタクトを取り、連れて行こうとする。あなたには酷でしょうが、水樹の逮捕にどうか協力してください」
警察の推測は筋が通っている。いや、私に話すくらいだから、きっともう推測ではなく事実なのだろう。東松さんが言ったように、さまざまな証拠を精査した結果なのだ。
それでも、私はまだ信じたかった。智哉さんが愛してくれたのは私自身だと。
「一条さん」
聴取を見守っていた瀬戸さんが、私に話しかけた。ふいに名前を呼ばれてドキッとする。
「は、はい」
「実は、あなたに見てほしいものがあります」
瀬戸さんはやわらかな口調で言うと、東松さんの肩を突いて交代を促した。
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