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正義の使者〈3〉
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ハイツ松本505号室。二年前の春、水樹の元恋人斎藤陽向が殺害された現場だ。事件以来、誰も入居せず空き部屋になっている。犯人が借りていた隣室も同様だった。
大家に借りた鍵でドアを開けて、俺と望月さんは中に入った。家具も家電もない空間はがらんとして、窓に日よけのカーテンがかかっているだけ。
「空気がこもってるな」
望月さんが窓を開けると風が通った。
鉄筋五階建てのアパート。最上階の部屋。狭いベランダにアルミの手すり。色褪せた仕切り板――下を覗くと駐車場がある。あの固い地面に、斎藤陽向を殺害した犯人、田村剛士が飛び降り、死亡した。
周囲を見回せば住宅地が広がっている。民家の屋根。点在するアパート。山が近くに見える以外、メゾン城田とそっくり同じ環境だった。
「そういえば、なぜ斎藤陽向はあんな時間に水樹を呼び出したんでしょう」
事件が起きたのは夜明け前の暗い時間帯だ。水樹は斎藤から電話で呼び出されてアパートに来ている。
望月さんと部屋の中央で向き合い、あぐらをかいた。
「前の晩、斎藤はデートの帰りに水樹に送り届けてもらってる。それを隣人の田村が見ていたらしく、夜中に壁を蹴るなどして嫌がらせしてきた。それで、怖くなった斎藤は夜明けまで我慢できず、水樹に電話したというわけ」
デートの帰りに恋人をアパートまで送る。水樹は鳥宮が転落死した前夜に、まったく同じ行動をしている。
「それは水樹の証言ですね」
「ああ。当時、水樹は事件に関する事柄を素直に話してくれた。警察に協力的、というよりどこかぼんやりして、問われるままなんでも話すといった感じだ。事件と直接関係のない、斎藤との出会いや、デートした場所なんかも教えてくれたっけ。調書に記載済みだから、今頃瀬戸ちゃんがチェックしてるだろう」
水樹の日記と照らし合わせれば、何か分かるかもしれない。どんな小さな情報も捜査の助けになる。望月さんの細やかな聴取がありがたかった。
「プライベートな話題は、こちらから振ったんですか」
「うん、話の掴みにね。なにしろ被疑者が死んでるから、動機や殺意を探るには水樹のような近しい人間を聴取するほかない。だが、あいつは恋人を殺され、血まみれの現場を見ている。ショックを受けてるやつにストレートな質問をぶつけるのもあれだし、世間話みたいな雰囲気で、とにかく時間をかけたよ」
望月さんは視線を窓に向け、その頃の情景を思い出すかのように目を細める。
「例えば、二人が出会ったのは事件の10日前。水樹が昼休みに外出した時のことで、雪の降る寒い日だったという」
「10日前?」
聞き間違いかと思ったが、望月さんはこちらを向いて「そうだよ」と、はっきり答える。
「前にも言っただろ。水樹と斎藤は付き合い始めたばかりだって」
「しかしそこまで日が浅いとは。斎藤は合鍵を渡してましたよね」
俺の疑問を、望月さんが鼻で笑う。
「男女関係の浅い深いは時間と比例しないのだよ、東松くん。フランチェスカとロバートの恋を知らない?」
「はあ」
何を言っているのかよく分からないが、続けてもらった。
「で、雪がうっすらと積もる歩道で斎藤が足を滑らせ、たまたま通りかかった水樹が支えたのが運命の出会い。その時、彼女のパンプスのかかとがすり減っているのに気づき、修理してあげたのが大きなきっかけだな。互いに好意を抱き、職場が近いこともあり連絡先を交換し、付き合うようになったと」
「なるほど」
えらく簡単な成り行きに思える。しかし県警一女性にモテると噂の望月さんには違和感が無さそうだ。
「それから間もなく、水樹は斎藤から苦情の紙について相談を受けた。付き合い始めの彼女にしては重めの相談だが、あいつは真摯に受け止め、優しく守ろうとした。初デートも彼女のリクエストを優先して、ファミリー向けのパスタ屋に行ったそうだ。『ORANGE』とかいったかなあ。彼女、ハチミツとチーズのピザが好きなんだと。可愛いよな」
「オレンジなら知ってます。関東では有名なチェーン店ですよね。水樹のイメージに合いませんが」
「うん、それだけ彼女に惚れてたんだろう。もう少し気取った店に行きたいところだが、惚れた女に合わせたのさ。俺だってそうする」
望月さんは水樹の気持ちがよく分かるという風に、うんうんとうなずく。水樹のすかした態度を思い出すと、俺には違和感しかないが。
「斎藤陽向は水樹がこれまで付き合ってきた女と違い、賢くて優しくて、自分らしさを持つ女性だった。神経質で怖がりなところが、やつの庇護欲を刺激したと俺は想像する。というか水樹はまず、彼女のレザーパンプスが気に入ったらしい。靴の専門家らしいポイントだな」
レザーパンプス。
一条さんも確か、そんなような靴を履いていた。電車の中で彼女がよろけた時、見た記憶がある。
大家に借りた鍵でドアを開けて、俺と望月さんは中に入った。家具も家電もない空間はがらんとして、窓に日よけのカーテンがかかっているだけ。
「空気がこもってるな」
望月さんが窓を開けると風が通った。
鉄筋五階建てのアパート。最上階の部屋。狭いベランダにアルミの手すり。色褪せた仕切り板――下を覗くと駐車場がある。あの固い地面に、斎藤陽向を殺害した犯人、田村剛士が飛び降り、死亡した。
周囲を見回せば住宅地が広がっている。民家の屋根。点在するアパート。山が近くに見える以外、メゾン城田とそっくり同じ環境だった。
「そういえば、なぜ斎藤陽向はあんな時間に水樹を呼び出したんでしょう」
事件が起きたのは夜明け前の暗い時間帯だ。水樹は斎藤から電話で呼び出されてアパートに来ている。
望月さんと部屋の中央で向き合い、あぐらをかいた。
「前の晩、斎藤はデートの帰りに水樹に送り届けてもらってる。それを隣人の田村が見ていたらしく、夜中に壁を蹴るなどして嫌がらせしてきた。それで、怖くなった斎藤は夜明けまで我慢できず、水樹に電話したというわけ」
デートの帰りに恋人をアパートまで送る。水樹は鳥宮が転落死した前夜に、まったく同じ行動をしている。
「それは水樹の証言ですね」
「ああ。当時、水樹は事件に関する事柄を素直に話してくれた。警察に協力的、というよりどこかぼんやりして、問われるままなんでも話すといった感じだ。事件と直接関係のない、斎藤との出会いや、デートした場所なんかも教えてくれたっけ。調書に記載済みだから、今頃瀬戸ちゃんがチェックしてるだろう」
水樹の日記と照らし合わせれば、何か分かるかもしれない。どんな小さな情報も捜査の助けになる。望月さんの細やかな聴取がありがたかった。
「プライベートな話題は、こちらから振ったんですか」
「うん、話の掴みにね。なにしろ被疑者が死んでるから、動機や殺意を探るには水樹のような近しい人間を聴取するほかない。だが、あいつは恋人を殺され、血まみれの現場を見ている。ショックを受けてるやつにストレートな質問をぶつけるのもあれだし、世間話みたいな雰囲気で、とにかく時間をかけたよ」
望月さんは視線を窓に向け、その頃の情景を思い出すかのように目を細める。
「例えば、二人が出会ったのは事件の10日前。水樹が昼休みに外出した時のことで、雪の降る寒い日だったという」
「10日前?」
聞き間違いかと思ったが、望月さんはこちらを向いて「そうだよ」と、はっきり答える。
「前にも言っただろ。水樹と斎藤は付き合い始めたばかりだって」
「しかしそこまで日が浅いとは。斎藤は合鍵を渡してましたよね」
俺の疑問を、望月さんが鼻で笑う。
「男女関係の浅い深いは時間と比例しないのだよ、東松くん。フランチェスカとロバートの恋を知らない?」
「はあ」
何を言っているのかよく分からないが、続けてもらった。
「で、雪がうっすらと積もる歩道で斎藤が足を滑らせ、たまたま通りかかった水樹が支えたのが運命の出会い。その時、彼女のパンプスのかかとがすり減っているのに気づき、修理してあげたのが大きなきっかけだな。互いに好意を抱き、職場が近いこともあり連絡先を交換し、付き合うようになったと」
「なるほど」
えらく簡単な成り行きに思える。しかし県警一女性にモテると噂の望月さんには違和感が無さそうだ。
「それから間もなく、水樹は斎藤から苦情の紙について相談を受けた。付き合い始めの彼女にしては重めの相談だが、あいつは真摯に受け止め、優しく守ろうとした。初デートも彼女のリクエストを優先して、ファミリー向けのパスタ屋に行ったそうだ。『ORANGE』とかいったかなあ。彼女、ハチミツとチーズのピザが好きなんだと。可愛いよな」
「オレンジなら知ってます。関東では有名なチェーン店ですよね。水樹のイメージに合いませんが」
「うん、それだけ彼女に惚れてたんだろう。もう少し気取った店に行きたいところだが、惚れた女に合わせたのさ。俺だってそうする」
望月さんは水樹の気持ちがよく分かるという風に、うんうんとうなずく。水樹のすかした態度を思い出すと、俺には違和感しかないが。
「斎藤陽向は水樹がこれまで付き合ってきた女と違い、賢くて優しくて、自分らしさを持つ女性だった。神経質で怖がりなところが、やつの庇護欲を刺激したと俺は想像する。というか水樹はまず、彼女のレザーパンプスが気に入ったらしい。靴の専門家らしいポイントだな」
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一条さんも確か、そんなような靴を履いていた。電車の中で彼女がよろけた時、見た記憶がある。
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