恋の記録

藤谷 郁

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身代わり

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山賀さんが救急搬送されたR病院に向かうことになった。

私は素早く身支度を整え、東松さんたちが待つ玄関先へと急いだ。動揺のためか、足がもつれそうになる。


「智哉さん、行ってくるね」

「ハル、ちょっと待って」


玄関ドアを開けようとしたとき、智哉さんに呼び止められた。手にジャケットを持っている。山賀さんとお揃いの白いジャケットだ。


「夜は冷える。これを着ていきなよ」

「あ、ありがとう」


ジャケットを広げて肩に着せかけてくれた。動揺する私を気遣うような、優しい仕草だった。


「早く帰っておいで。眠らずに待っているから」

「そんな、智哉さんは寝なきゃダメだよ。明日も仕事があるし」

「いいんだ。君のことが心配で、どうせ眠れない」


彼の顔が少し青ざめて見えた。


「智哉さん?」


じっと見つめると、ふっと睫毛を伏せて斜めを向く。どこか頼りなげで、いつもの彼らしくない気がして、思わず手を取った。


「私は大丈夫。ちょっと怖いけど、逃げるつもりはないの。なるべく早く帰ってくるから、安心して待っていて」


何だか子どもに言い聞かせるみたいだ。でも智哉さんは手を握り返し、素直にうなずく。


「分かった。でも無理はしないで。必ず、何があっても戻って来てくれ、僕のもとに」

「もちろんよ」


どうしてそんなに心配するのだろう。智哉さん以外に戻る場所なんて、私にはないのに。


「じゃあ、行ってきます」

「あ、ちょっと待ってくれ。もう一つ」


智哉さんが二つ折りのメモを差し出した。開いてみると、名前と電話番号が記されている。


若月わかつき千尋ちひろ……」


若月――どこかで聞いたことのある名前だ。市外局番が052ということは名古屋である。


「この人は?」

「僕の古い知り合いだ。困ったことがあれば彼に相談するといい」

「困ったこと?」


一体、何の話だろう。

名古屋の古い知り合い。彼の故郷は岐阜県なので同じ東海地方だ。その辺りの関係だろうか。

首を傾げる私に彼は微笑み、


他人ひとに見られないよう、大切にしまっておくように。お守りだから」

「う、うん」


とりあえず財布のポケットにメモをしまう。それを見届けると智哉さんは先に立ち、黙って玄関ドアを開けてくれた。

私はメモについて質問できないまま、外で待機している刑事たちに預けられた。


「すみません、お待たせしました」

「いいえ、こちらこそ無理を言って申しわけ……」


刑事二人はこちらを向くと同時にハッとした様子になる。意外なものを見たという反応だった。


「あの、どうかされましたか?」


どこか変だったかなと、自分の格好を検める私に瀬戸さんがにこりと笑った。


「ごめんなさい、何でもないの。一条さん、そのジャケット……素敵ですね!」

「えっ?」


瀬戸さんも東松さんも、吸い込まれるように私のジャケットを見つめている。彼らが目をみはった理由は、この服にあるようだ。

でもどうしてだろう。確かに素敵なジャケットだが、彼らの反応は少し大げさである。


「ねえ、東松。一条さんによく似合ってると思わない?」

「そうすね」


東松さんも笑うが、何だか怖い。

謎の注目に戸惑う私の横から、智哉さんが口を挟んだ。


「彼女にぴったりでしょう。僕の見立てですよ」


一瞬、刑事の顔から笑みが消えた。頬が引きつったようにも見えた。


「……まあ、そうなんですか。水樹さんのセンスで、この白いジャケットを?」

「はい。穢れのない純白がハルに似合うと直感して、プレゼントしたんです」


照れもなく答える智哉さんを前に、瀬戸さんは黙ってしまった。東松さんも絶句している。

智哉さんらしくもない、あからさまなノロケだった。

私はさすがに恥ずかしくなり、エレベーターへと刑事を促す。


「そんなことより早く行きましょう。どんどん遅くなってしまいますよ」

「あっ、ええ……そうですね。では水樹さん、失礼いたします」


瀬戸さんは歩きかけるが、東松さんはなぜか突っ立ったまま。智哉さんと向き合っている。

静かな廊下に、二人のやりとりが響いた。


「どうしました、東松刑事。何か言いたいことでも?」

「いえ。帰りもきちんと送り届けますので、安心してお待ちください」

「ええ、待ってますよ。いたしません」

「……」


智哉さんは東松さんに対して良い感情を持っていない。それを言葉にするなら「敵対心」だ。

不穏な空気が伝わってくる。


「東松、早く来なさい。急ぐよ」


瀬戸さんが声をかけると、東松さんは智哉さんに会釈をしてからこちらに歩いて来た。


「さあ、行きましょうか」


私は瀬戸さんにうなずき、後ろをチラッと窺う。

エレベーターに私たちが乗り込むまで、智哉さんは見送っていた。

廊下の向こうに一人佇むその姿が、なぜかひどく寂しそうに見えて、私の胸は微かに痛んだ。








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