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身代わり
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今日も事務仕事を中心に、たくさんの仕事をこなした。気が付けば午後7時半を回っている。
「一条さん。夕飯にしましょう」
デスクで伸びをしていると、山賀さんがコンビニ袋を差し出した。私のぶんの夕飯も買ってきてくれたのだ。
「ありがとう。いつもごめんね」
「どういたしまして。一条さんのリクエストは、たらこマヨネーズと鮭のおにぎり、あと……チキンサラダでしたね」
私たちはお茶を入れてから、事務所の隅にある会議用テーブルに移動した。
他のスタッフも何人か食事している。売り場の忙しい時間帯を抜けて、束の間の休憩タイムである。
「そうだ、一条さん。薬丸さんから聞いたんですけど、最近、不審な客がいるそうですね」
食事を終えて仕事に戻ろうとしたとき、山賀さんが思い付いたように言った。
薬丸というのは、不審な客について私に報告した社員だ。
「ああ、監視カメラに写っていた怪しい人物ね」
「今日はまだ現れていないようです。本当に一条さんの動画を撮るつもりなら、捕まえてやらなくちゃ!」
いつの間にか、不審な客の狙いは私というのが定説になっている。今の時点ではそれ以外、思い当たることがないからだ。
「でも確証がないし、もし見かけても穏やかに接してね。挙動不審だけど、ただのお客様である可能性もなくはないのだから」
私は慌てて、鼻息を荒くする山賀さんをなだめた。
「分かりました。でも油断は禁物ですよ。動画なんて撮られたら大変だし……」
山賀さんはしばし考えてから、私に確かめた。
「この件について、水樹さんに報告しましたか?」
「えっ」
彼女の指摘に、私はハッとする。そういえば、彼には何も話していない。
「報告すべきですよ。もしかしたら、客のふりをした週刊誌の記者かもしれません」
「そ、そうよね」
智哉さんはマスコミを警戒している。不審な客については、確かに報告案件だ。
私はさっそくスマートフォンを取り出すが、そのタイミングでラノベ担当のスタッフが事務所に入ってきて来客を告げた。
「副店長。ガッツノベルの営業さんがフェアの打ち合わせに来られました」
「えっ、もう?」
約束の時間より10分早い。焦る私を見て、山賀さんがスマートフォンを取り出してみせる。
「一条さん、仕事に戻ってください。水樹さんには私が電話しておきますので」
「え……」
山賀さんの瞳が輝いて見えるのは気のせいだろうか。私はほんの少しためらいながらも、こくりとうなずいた。
「ありがとう。じゃあ、お願いするね」
「お任せください」
山賀さんは智哉さんに特別な感情を持っている。でも、それは一方通行の感情だ。気にすることはない。
私は自分に言い聞かせると、スマートフォンを操作する山賀さんに背を向けて仕事に戻った。
ガッツノベルとの打ち合わせが終わったのは30分後。それから事務仕事の続きを片付け、クローズ作業を手伝うなどするうちに時間が経ってしまい、結局、今夜も大幅な残業である。
「ふう、疲れた……」
私と山賀さん以外のスタッフは既に帰宅し、事務所はとても静かだ。
土屋さんが殺され、その加害者である古池店長が行方不明になって以来、こんな日が続いている。売り場は真っ暗だし、最初は不気味に感じたものだが、最近は慣れてしまった。
「あの……一条さん、ちょっといいですか」
ガッツノベルの部数データをパソコンでチェックする私に、山賀さんが声をかけた。作業を止めて振り向くと、彼女が済まなそうに頭を下げる。
「どうしたの?」
「申しわけありません。たった今、母からメールがきて、用事があるのですぐに帰るよう言われました。お先に失礼してもいいでしょうか」
遠慮がちな彼女の要望を、私は逆に申しわけない気持ちになって承諾する。
「もちろんだよ。じきに仕事が終わるし、帰りは智哉さんも一緒だから心配しないで」
「すみません、ほんとに」
「大丈夫。それより、謝るのは私のほうだわ。あなたの帰りがいつも遅いから、お母様も心配でしょうがないのよ」
私は心から詫びるが、山賀さんは「とんでもない」と恐縮する。
「そんなの気にしないでください。私が好きでやってることですから」
もじもじする彼女を見て、あっと思った。
好きでやってること…… 山賀さんにとって智哉さんは憧れの男性であり、彼に尽くすのは彼女の喜びなのだ。
それに、私の残業に付き合えば智哉さんに会える。
「……とにかく、今夜はもう帰りなさい。私もあと少しで終わるから」
「分かりました。では、お先に失礼します」
山賀さんはぺこりとお辞儀をして、事務所を出ていった。
一人残された私は、すぐさま仕事に集中する。余計なことを考えたくない。考えてはいけない。
パソコンの画面と睨めっこしながら、申しわけないようなほっとしたような、複雑な感情を持て余した。
30分後、仕事が終わった。
智哉さんに連絡すると、彼も帰るところだと言うので私は急いで事務所の戸締りをし、更衣室で着替えてから一階に下りた。
「あれっ、山賀さんは?」
通用口で待っていた智哉さんが、一人で現れた私を見て不思議そうに訊いた。
「今夜は先に帰ったの。お母さんからメールがきて、早く帰るように言われたって」
「ふうん」
智哉さんは彼女がいない理由をそれ以上追及せず、コメントもしなかった。あっさりとした態度を意外に感じながら、私も調子を合わせる。山賀さんのことを、彼の前で意識したくなかった。
「一条さん。夕飯にしましょう」
デスクで伸びをしていると、山賀さんがコンビニ袋を差し出した。私のぶんの夕飯も買ってきてくれたのだ。
「ありがとう。いつもごめんね」
「どういたしまして。一条さんのリクエストは、たらこマヨネーズと鮭のおにぎり、あと……チキンサラダでしたね」
私たちはお茶を入れてから、事務所の隅にある会議用テーブルに移動した。
他のスタッフも何人か食事している。売り場の忙しい時間帯を抜けて、束の間の休憩タイムである。
「そうだ、一条さん。薬丸さんから聞いたんですけど、最近、不審な客がいるそうですね」
食事を終えて仕事に戻ろうとしたとき、山賀さんが思い付いたように言った。
薬丸というのは、不審な客について私に報告した社員だ。
「ああ、監視カメラに写っていた怪しい人物ね」
「今日はまだ現れていないようです。本当に一条さんの動画を撮るつもりなら、捕まえてやらなくちゃ!」
いつの間にか、不審な客の狙いは私というのが定説になっている。今の時点ではそれ以外、思い当たることがないからだ。
「でも確証がないし、もし見かけても穏やかに接してね。挙動不審だけど、ただのお客様である可能性もなくはないのだから」
私は慌てて、鼻息を荒くする山賀さんをなだめた。
「分かりました。でも油断は禁物ですよ。動画なんて撮られたら大変だし……」
山賀さんはしばし考えてから、私に確かめた。
「この件について、水樹さんに報告しましたか?」
「えっ」
彼女の指摘に、私はハッとする。そういえば、彼には何も話していない。
「報告すべきですよ。もしかしたら、客のふりをした週刊誌の記者かもしれません」
「そ、そうよね」
智哉さんはマスコミを警戒している。不審な客については、確かに報告案件だ。
私はさっそくスマートフォンを取り出すが、そのタイミングでラノベ担当のスタッフが事務所に入ってきて来客を告げた。
「副店長。ガッツノベルの営業さんがフェアの打ち合わせに来られました」
「えっ、もう?」
約束の時間より10分早い。焦る私を見て、山賀さんがスマートフォンを取り出してみせる。
「一条さん、仕事に戻ってください。水樹さんには私が電話しておきますので」
「え……」
山賀さんの瞳が輝いて見えるのは気のせいだろうか。私はほんの少しためらいながらも、こくりとうなずいた。
「ありがとう。じゃあ、お願いするね」
「お任せください」
山賀さんは智哉さんに特別な感情を持っている。でも、それは一方通行の感情だ。気にすることはない。
私は自分に言い聞かせると、スマートフォンを操作する山賀さんに背を向けて仕事に戻った。
ガッツノベルとの打ち合わせが終わったのは30分後。それから事務仕事の続きを片付け、クローズ作業を手伝うなどするうちに時間が経ってしまい、結局、今夜も大幅な残業である。
「ふう、疲れた……」
私と山賀さん以外のスタッフは既に帰宅し、事務所はとても静かだ。
土屋さんが殺され、その加害者である古池店長が行方不明になって以来、こんな日が続いている。売り場は真っ暗だし、最初は不気味に感じたものだが、最近は慣れてしまった。
「あの……一条さん、ちょっといいですか」
ガッツノベルの部数データをパソコンでチェックする私に、山賀さんが声をかけた。作業を止めて振り向くと、彼女が済まなそうに頭を下げる。
「どうしたの?」
「申しわけありません。たった今、母からメールがきて、用事があるのですぐに帰るよう言われました。お先に失礼してもいいでしょうか」
遠慮がちな彼女の要望を、私は逆に申しわけない気持ちになって承諾する。
「もちろんだよ。じきに仕事が終わるし、帰りは智哉さんも一緒だから心配しないで」
「すみません、ほんとに」
「大丈夫。それより、謝るのは私のほうだわ。あなたの帰りがいつも遅いから、お母様も心配でしょうがないのよ」
私は心から詫びるが、山賀さんは「とんでもない」と恐縮する。
「そんなの気にしないでください。私が好きでやってることですから」
もじもじする彼女を見て、あっと思った。
好きでやってること…… 山賀さんにとって智哉さんは憧れの男性であり、彼に尽くすのは彼女の喜びなのだ。
それに、私の残業に付き合えば智哉さんに会える。
「……とにかく、今夜はもう帰りなさい。私もあと少しで終わるから」
「分かりました。では、お先に失礼します」
山賀さんはぺこりとお辞儀をして、事務所を出ていった。
一人残された私は、すぐさま仕事に集中する。余計なことを考えたくない。考えてはいけない。
パソコンの画面と睨めっこしながら、申しわけないようなほっとしたような、複雑な感情を持て余した。
30分後、仕事が終わった。
智哉さんに連絡すると、彼も帰るところだと言うので私は急いで事務所の戸締りをし、更衣室で着替えてから一階に下りた。
「あれっ、山賀さんは?」
通用口で待っていた智哉さんが、一人で現れた私を見て不思議そうに訊いた。
「今夜は先に帰ったの。お母さんからメールがきて、早く帰るように言われたって」
「ふうん」
智哉さんは彼女がいない理由をそれ以上追及せず、コメントもしなかった。あっさりとした態度を意外に感じながら、私も調子を合わせる。山賀さんのことを、彼の前で意識したくなかった。
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