恋の記録

藤谷 郁

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無償の愛

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それから10分ほど話をしたところで、智哉さんがそろそろ帰ろうと言った。時刻は午後10時半になろうとしている。


「ごめんなさい。私、ちょっとお手洗いに……」


喫茶店内にトイレがある。帰る前に寄っておこうと思った。


「あ、待ってください。私も行きます」


私が歩きかけると、なぜか山賀さんも椅子を立つ。智哉さんと二人きりになるのが恥ずかしいのかな。と、思ったけれど……


「水樹さんが、付き添いを頼むって」

「ええっ?」


智哉さんを見ると、素知らぬ顔で横を向いている。


「トイレくらい一人で行けるのに」

「一条さんが心配なんですよ。ふふっ、過保護ですね」


山賀さんの前で子ども扱いされて、ちょっと体裁が悪い。と言うより、彼はなぜこれほどまでに用心するのだろう。

山賀さんと並んで手を洗いながら、疑問を口にしてみた。


「店長が捕まるまで、一条さんを一人にしたくないんですよ」

「でも、本町駅周辺は防犯カメラがあちこちにあるし、警察官が何人も張り込んでいるはずよ。指名手配されてる店長が、この辺りをうろうろするとは思えないけど」


ましてや喫茶店の女子トイレなど、最も安全な場所に思える。



「私も、さほど心配ないと思いますが……店長は追い詰められた状態なので、何をしでかすか分かりません。地元の学校も警戒して、子どもの登下校に保護者が付き添ってるくらいですし、捕まるまで安心はできませんね」

(保護者……か)


私をガードするのは智哉さんの意思だ。山賀さんにとって、彼の指示は絶対なのである。


「警察がSPとか付けてくれたらいいのに」


山賀さんの言葉に、私は思わず噴き出す。


「SPって……それこそ大げさだよ」

「だって相手は店長ですからね。しかも、いまや殺人犯の。警察からはアドバイスとかないんですか?」

「うーん。まあ、東松さんには気を付けてくださいと言われてるけど」

「東松って、あのコワモテ刑事さん?」


冬月書店で事情聴取を行ったのは東松さんだ。山賀さんは店長と土屋さんの不倫の証拠をいくつか提出したため、彼にしっかり聴取されている。


「いっそのこと、あの刑事さんがボディガードになってくれたらいいのに。そうすれば怖くて誰も近づけません」

「うふっ、確かに」


東松さんと私は、ご縁があるのだろうか。鳥宮さんの件といい、お世話になりっぱなしだ。少しぶっきらぼうだけど、頼りになるし、良い人だと思う。

でも、気になることが一つ。どういうわけか東松さんは、やたらと智哉さんのことを聞きたがるのだ。事件とまったく関係がないのに。


「それと、女性の刑事さんもいましたよね。すっごく美人でスタイルのいい人。一条さん、名刺をもらいませんでしたか」

「ああ……えっと、県警本部の瀬戸さんだったかな。東松さんと一緒に捜査してるみたい」


瀬戸刑事は東松さんに対して、ずいぶん親しげな態度だった。もっとも、東松さんは階級が下らしく部下として接していたが。


「かっこよかったなあ。ドラマに出てくる女刑事みたいだって、みんな噂してましたよ。コワモテ刑事さんと並ぶと、美女と野獣みたいな」

「ぷっ……」


東松さんが聞いたら、どんな顔をするだろう。でも、彼らはバランスの取れた、絵になるコンビだと思う。


「さてと、もう行きましょう。智哉さんが待ってる」

「あっ、そうですよね」


私たちはお喋りをやめて、フロアに戻った。





「あれっ?」


テーブルに戻ると、智哉さんがいなくなっていた。私は店内を見回すが、どこにも見当たらない。


「水樹さんもトイレですか?」

「うーん。伝票がないから、会計を済ませて外で待ってると思う」


それにしても、何も言わずに出て行くのは彼らしくない。私は首を傾げつつ、山賀さんと一緒に店を出た。


「あっ、水樹さんがあそこに」


山賀さんの指差すほうを見ると、智哉さんの背中があった。通路の向こうで、誰かと話している。


「一条さん。もしかして……」

「うん」


カメラを手にした男性と、スーツを着た女性。おそらくあれは、週刊誌のカメラマンと記者だ。

土屋さんが殺された次の日、古池店長が容疑者として指名手配された。警察の発表を受けて、各メディアがこぞって報道した。

地方の事件だが、上司と部下による不倫疑惑を伴う殺人事件は世間の興味を引き、ワイドショーや週刊誌のネタにされている。

事件直後は職場までマスコミが押しかけてきて、大変な騒ぎだった。

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