恋の記録

藤谷 郁

文字の大きさ
上 下
110 / 236
正義の使者〈2〉

8

しおりを挟む
【A町アパート隣人トラブル・女性会社員殺人事件】

事件が起きたのは二年前の春――4月13日 木曜日 天気は晴れ。

気温は4度。その年の春は寒く、十日ほど前に雪が降っている。


現場は群馬県高崎市A町の5階建アパート【ハイツ松本】505号室。

午前4時45分頃。

被疑者【田村たむら剛士たけし】(21・大学生)はベランダ伝いに隣室へ侵入し、部屋の住人【斎藤さいとう陽向ひなた】(25・会社員)を襲撃した。


被疑者は窓ガラスを拳で割り、クレセント錠を開けて侵入。

夜明け前の時間帯だが、被害者は来客予定があり起床していた。台所に立ち、来客に提供するための朝食を作っていたのだろう。ペティナイフ(小型の包丁)を手にしていたと見られる。

被疑者は被害者の顔を数回殴った上、ナイフを奪い、めった刺しにした。

被害者の手のひら、腕の数カ所に防御損傷あり。抵抗むなしく床に倒れ込んだ彼女を、被疑者はなおも執拗に刺し、台所回りは血の海となった。

犯行後、被疑者はベランダから自室へと戻る途中、手すりの上で立ち止まり、意味不明の言葉を大声で叫んだのち、真下の駐車場へと転落した。

誤って転落したのではないと、目撃者が証言している。明らかに飛び降り自殺だった。

目撃者は五人。三人はアパートに住む大学生とその友人であり、車で釣りに出かけるところだった。

あと二人は、被害者が待っていた来客【水樹智哉】(30・靴販売店店長)と、彼を乗せてきたタクシー運転手である。

水樹智哉は被害者の交際相手。

事件の三十分ほど前に彼女に電話で呼び出され、アパートに着いたところで、被疑者が飛び降りる瞬間を目撃した。

505号室の窓が開いている。

何かあったのだと察した水樹は、すぐに彼女の部屋へと駆けつけた。

合鍵を使ってドアを開け、中に飛び込む。彼が目にしたのは、変わり果てた恋人の姿だった。




事件の内容を思い出し、俺は水樹智哉に同情を覚えた。鳥宮に行ったことは許されないが、彼は過去に残酷な思いをして、苦しんだのだ。


「水樹の立場になれば、誰だっておかしくなる……か。だが望月くんは、その後の水樹の態度に疑問を感じたそうだ」

「疑問?」


望月警部補は事件を担当した高崎署の刑事だ。


「どういうことですか」

「この前、望月くんと電話で話しただろ。そのとき、言ってたんだよ。確かに事件直後はショックを受けた様子だったが、最後に会ったときはずいぶん前向きだったと……」


料理が運ばれてきた。

もっと話を聞きたかったが、水野さんが「まずは食べよう」というので食事に集中した。気が急いたためか早く平らげてしまった俺は、天ぷら定食を美味そうに食べる水野さんを前に、ふと思い付いたことを話す。


「加害者が大学生というと、すみれ荘の事件もそうでしたね」

「ああ。あの事件も隣人トラブルが原因だったな。犯人は大学生。学費稼ぎのアルバイトと卒業研究に忙殺されてノイローゼ気味だったとか」


田村剛士も似たような状態だった。

田村は当時大学四年生。大学では人間関係がうまくいかず、学業にも行き詰まっていたという。

そんなとき、斎藤陽向が隣に引っ越してきた。そして、彼女の生活音が気になりだした彼はレポート用紙に文句を書いてポストに入れたり、あとをつけたりした。

これは田村をよく知るゼミの友人と、斎藤から相談を受けていた水樹の証言による。


「だけど、すみれ荘の事件は本当に隣人がうるさかったわけだし、犯人に同情する者もいました。しかし田村は違う。やつは斎藤陽向という女性に執着しており、生活音についてはほとんど言いがかりだった。それに、親の仕送りがじゅうぶんにある田村には、ブランド靴を集めるほどの余裕があったんですよね」


例えばロバストバーグのサンダルがそうだ。田村はブランド靴を愛用しており、部屋の中でも靴やサンダルを履くほどの靴オタクだった。

だから事件当時も、お気に入りのサンダルを履いていたのだ。


「東松くん」

「はい」


水野さんはゆっくりと箸を置き、湯呑みを手に取る。


「きょうびの人間関係は複雑だろう。学生もいろいろ大変だが、だからといって、そのストレスを他者にぶつけていいわけがない」

「ええ」

「そして我々は警察官だ。大学生だろうが、社会人だろうが、殺しは罪だ。どんな理由があろうと、きっちりと捕まえるのが仕事だぞ」

「もちろん、そのとおりです」


水野さんはお茶を飲み終えるとサッと伝票を取り、立ち上がった。


「あっ、自分で払いますよ」

「私が誘ったんだ。それに、ちょっと付き合ってほしいところがある。さっきの、望月くんの話だが……」

「?」


どういうことか分からずぽかんとする俺に、水野さんが微笑む。


「本人に話が聞けるよ。実は、このあと会う約束をしている」

「えっ、今からですか?」


時計を見ると、午後七時を回っていた。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

小さなことから〜露出〜えみ〜

サイコロ
恋愛
私の露出… 毎日更新していこうと思います よろしくおねがいします 感想等お待ちしております 取り入れて欲しい内容なども 書いてくださいね よりみなさんにお近く 考えやすく

クアドロフォニアは突然に

七星満実
ミステリー
過疎化の進む山奥の小さな集落、忍足(おしたり)村。 廃校寸前の地元中学校に通う有沢祐樹は、卒業を間近に控え、県を出るか、県に留まるか、同級生たちと同じく進路に迷っていた。 そんな時、東京から忍足中学へ転入生がやってくる。 どうしてこの時期に?そんな疑問をよそにやってきた彼は、祐樹達が想像していた東京人とは似ても似つかない、不気味な風貌の少年だった。 時を同じくして、耳を疑うニュースが忍足村に飛び込んでくる。そしてこの事をきっかけにして、かつてない凄惨な事件が次々と巻き起こり、忍足の村民達を恐怖と絶望に陥れるのであった。 自分たちの生まれ育った村で起こる数々の恐ろしく残忍な事件に対し、祐樹達は知恵を絞って懸命に立ち向かおうとするが、禁忌とされていた忍足村の過去を偶然知ってしまったことで、事件は思いもよらぬ展開を見せ始める……。 青春と戦慄が交錯する、プライマリーユースサスペンス。 どうぞ、ご期待ください。

サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由

フルーツパフェ
大衆娯楽
 クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。  トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。  いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。  考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。  赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。  言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。  たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。

ちょっと大人な体験談はこちらです

神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な体験談です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではPixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

量子迷宮の探偵譚

葉羽
ミステリー
天才高校生の神藤葉羽は、ある日突然、量子力学によって生み出された並行世界の迷宮に閉じ込められてしまう。幼馴染の望月彩由美と共に、彼らは迷宮からの脱出を目指すが、そこには恐ろしい謎と危険が待ち受けていた。葉羽の推理力と彩由美の直感が試される中、二人の関係も徐々に変化していく。果たして彼らは迷宮を脱出し、現実世界に戻ることができるのか?そして、この迷宮の真の目的とは?

ママと中学生の僕

キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

処理中です...