恋の記録

藤谷 郁

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悪夢

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翌朝、土屋さんは出勤時間になっても現れなかった。遅刻、あるいは欠勤の連絡もない。

事情を知ってしまった私は、こちらから連絡を取るのも気が重く、しかし上司として放っておくわけにもいかず、仕方なく電話してみた。


『……土屋です』


七回目のコールで彼女は応答した。ひどく不機嫌な声で。


「おはようございます。私、一条です」

『……』


話したくもないだろうが、無断で仕事を休むのは社会人として許されない。しかも土屋さんは、チーフという責任ある立場なのだ。


「連絡がないので、電話しました。今日は、どうしたんですか」


ふうっというため息が聞こえる。ため息をつきたいのはこちらのほうだが、彼女の抱える悩みの大きさを思い、何も言えずにいると、


『すみません。ものすごくだるくて、起きられないんです。あの、しばらく休ませてもらってもいいですか』

「えっ? しばらくって……」

『とりあえず、今週いっぱい。有給が溜まってるし、いいですよね?』


まったく悪びれない口調に、同情心が薄れる。山賀さんの電話には泣いて縋りついたそうだが、本当だろうか。

今の土屋さんには、ふてぶてしさしか感じない。


「急に有給って言われても……どうしても無理なんですか」

『はい。めちゃくちゃ体調が悪くて、仕事なんかできません。そうだ、明後日の企画会議も無理だから、一条さんに任せるので好きにやってください』

「明後日の会議って、ライトノベルフェアの?」


あんなにも主導権を握りたがっていたフェアの会議を、私に任せる――これまでの土屋さんからは考えられない言葉だ。

やはり、相当弱っているのだろうか。


「そんなわけにはいきません。ライトノベルの責任者は土屋さんです。だいいち、あなた抜きでフェアを進行するなんて、スタッフが承知しないわ。会議は延期しましょう」

『はあ……もう、めんどくさいなあ……』

「えっ、何て?」

『いいえ、別に。とにかく、しばらく休みますので。失礼します』

「あ、ちょっと待っ……」


通話が切れたスマートフォンを見下ろし、唇を噛む。イライラしながら、かけ直そうとした指を引っ込めた。

どうせ無視されるに決まっている。


「あのう。どうでしたか、チーフの様子は」

「わっ」


いきなり横から顔を出したのは、ライトノベル担当のスタッフ。電話を聞いていたのだろうか、不安そうな顔をしている。


「ああ、うん。体調が悪いみたいで、今週いっぱいお休みするって」

「今週いっぱい?」


さすがに脱力した。土屋さんが抜けたぶんをスタッフがカバーするのだから、無理もない。


「一体、どうしちゃったんですかね。あんなに仕事熱心だったチーフが」

「さあ……」


店長と不倫して妊娠したから……なんて、スタッフが知ればパニックになる。職場の平穏を保つためにも、できるだけ伏せておきたい。


「私も手伝うから、何とか乗りきろう。山賀さんも夕方来てくれるし」

「あ、そうか。山賀さん、今日からラストまでいてくれるんですね」


スタッフは気を取り直したようで、すぐに売り場に戻った。




「やれやれ」


私は一人残った事務所で、朝のデスクワークを始める。今日は古池店長が休みなので、かなり気楽だ。


「そういえば、智哉さんもお休みなのよね」


昼寝したり、読書したり、のんびり過ごすと言っていた。夕飯を作ってくれるそうなので、家に帰るのが楽しみである。


「智哉さんの作るごはん、美味しいのよねえ。今夜のメニューは何かしら」


などと考えていると、手元のスマートフォンが震えた。

通知を見てハッとする。エリアマネージャーの横井さんからだ。


「は、はいっ。一条です」


朝イチで電話がくるとは思わず、声が上ずってしまった。横井さんは冷静な口調で、『今、よろしいですか』と、こちらの状況を確認する。


「大丈夫です。事務所にいますが、私一人です。今日は店長が休みですし」

『分かりました。では、手短にお伝えしますね。先日、報告を受けた件ですが、本部から返事がありました。本日午後八時三十分より、一条さんに聞き取り調査を行います。担当は本社コンプライアンス部の星崎ほしざきさんですが、ご存じですか』

「本部の、人事課の方ですか」

『そうです。昨年から相談窓口を担当されています」


新入社員の頃、お世話になった人だ。横井さんと同じくらいの年齢の、女性社員である。コンプライアンス部門の相談窓口には、ベテランの人事課員が配置されると聞いたことがある。


『私も星崎さんに同行しますが、そちらに出向くのではなく、少し離れた場所で待ち合わせます。お店の名前と場所を言いますね』

「あ、はい」


本人はもちろん、他の社員にも情報が漏れないよう『密会』するのだ。何だか、緊張してきた。


「では、この場所に八時三十分ですね」

『はい。少し遅い時間ですが、どうぞよろしくお願いします』

「こちらこそ、よろしくお願いします」


通話を切り、メモを読み返す。


PM 8:30  浜中駅西口 和風喫茶まほろば 
 

アプリで確認すると、浜中駅には急行に乗れば十五分で着く。


「退勤が午後六時だから……一度マンションに戻って、ご飯を食べてから出かけようかな」


それにしても、本部の対応が早い。古池店長のコンプライアンス違反を、会社も問題視しているのだ。

私はメモを大切に仕舞うと、きっちり定時に帰宅できるよう、仕事に励んだ。

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