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軽やかなヒール
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智哉さんが選んだのは、ラウンドトゥのローヒールパンプス。
ナチュラルベージュの爽やかな色合いと、滑らかなラインが美しい。素材は人工皮革だが、高度な加工技術がレザーパンプスの持つ自然な風合いを再現していた。それでいて撥水効果に優れ、手入れが簡単というメリットがある。
智哉さんは、私の足のサイズをきちんと計測し、ぴたりとフィットするようインソールも調整してくれた。
最高の通勤靴だ。
「すごく軽くて歩きやすい。ありがとう、智哉さん」
「気に入ってくれて良かったよ。少しシンプルすぎる気がしたけど、こうして見ると、品があってきれいだ」
私と智哉さんは肩を並べて、メゾン城田への道を歩いている。時刻は午後八時を回ったばかり。新しい靴のヒールが、静かな住宅街に軽やかな音を鳴らした。
「帰りは荷物があるし、タクシーを呼ぼうな」
「うん」
私達は靴を選んだあと、駅ビル内のレストランで軽く食事してから、電車に乗った。タクシーを使わなかったのは、ちょうど発車時刻だったのと、早くこの靴を履いて歩きたかったから。
智哉さんの腕にそっとつかまり、寄り添った。
アパートの部屋に入ると、当然ながら真っ暗であり、シンとしている。ついこの間まで住んでいたのに、私にとってメゾン城田の507号室は、もはや過去の部屋という感じがした。
隣人のことも、ほとんど思い出さない。ここから連れ出してくれた智哉さんのおかげだ。そして、もう一人……
東松さんのコワモテを思い浮かべる。
『ドゥマン』の店先で偶然再会したことを、まだ智哉さんに話していない。食事中も、なんとなく話題に出しづらくて、時間が経ってしまった。
「ハル、どうかした?」
「あ、ごめんなさい」
明かりを点けて、部屋に上がった。ぼんやりしている場合ではない。
「とりあえず、洋服を全部持って行くね。あとは、できるだけ鞄に詰めてみる」
「家具と家電は、引越し会社に任せたほうがいいな」
私が荷物を作る間に、智哉さんが引越し会社に見積もりの予約を入れてくれた。とにかく早く引越しを進めようと、彼は張り切っている。
荷物を詰めた大小の鞄を玄関まで運んでから、コーヒーを淹れた。三十分後にアパート前に付けてくれるよう、タクシーを呼んである。それまでしばしの休憩タイムだ。
「ところで、アパートを出たこと、ご両親にはもう報告した?」
「ううん、まだ。ここのところ、向こうから電話もないし、後回しにしてる」
智哉さんは少し驚いた顔になる。
「もしかして鳥宮の件も、言ってないのか」
「うん。落ち着いてから、ゆっくり話すつもり。特に母が心配性でうるさいし、大騒ぎしてマンションに押しかけられたら困るもの」
私を子ども扱いする母親を思い出し、つい口を尖らせると、智哉さんが笑った。
「いいお母さんだな。羨ましいよ」
「えっ?」
カップを置いて、智哉さんを見つめた。
「僕の母親とは、大違いだ」
「智哉さん……」
幼い頃に亡くなったという、彼のお母さん。
――昔、災難に巻き込まれて……両親も家も、もう存在しない。
私に無用な心配をさせたくなくて、彼は過去を語らずにいた。それほど辛い思いをしたのだ。だけど勝手に同情するのはよくないと私は思った。
だから詳しく訊かなかったのだが、智哉さんは今、自ら母親について漏らした。でも、どうしてだろう。
これまでになく、寂しい表情をしている。
「ハル」
「は、はい」
まっすぐに見つめ返されて、緊張する。いつもと雰囲気が違う。私の知らない智哉さんの、初めての姿が表れた気がした。
「落ち着いたら、家族に連絡しなよ。それで、会わせてくれないか」
(会わせる……?)
ぼうっとする私に、彼は真面目に要望した。
「僕はハルと家庭を持ちたい。そのことを、ご両親にお願いしたいんだ。きちんと挨拶するべきだと、考えている」
「……」
指先が震えはじめた。この人は、大変なことを口にした。
家庭を持つ、ということは、つまり……
「ハル。僕と結婚してくれないか」
ナチュラルベージュの爽やかな色合いと、滑らかなラインが美しい。素材は人工皮革だが、高度な加工技術がレザーパンプスの持つ自然な風合いを再現していた。それでいて撥水効果に優れ、手入れが簡単というメリットがある。
智哉さんは、私の足のサイズをきちんと計測し、ぴたりとフィットするようインソールも調整してくれた。
最高の通勤靴だ。
「すごく軽くて歩きやすい。ありがとう、智哉さん」
「気に入ってくれて良かったよ。少しシンプルすぎる気がしたけど、こうして見ると、品があってきれいだ」
私と智哉さんは肩を並べて、メゾン城田への道を歩いている。時刻は午後八時を回ったばかり。新しい靴のヒールが、静かな住宅街に軽やかな音を鳴らした。
「帰りは荷物があるし、タクシーを呼ぼうな」
「うん」
私達は靴を選んだあと、駅ビル内のレストランで軽く食事してから、電車に乗った。タクシーを使わなかったのは、ちょうど発車時刻だったのと、早くこの靴を履いて歩きたかったから。
智哉さんの腕にそっとつかまり、寄り添った。
アパートの部屋に入ると、当然ながら真っ暗であり、シンとしている。ついこの間まで住んでいたのに、私にとってメゾン城田の507号室は、もはや過去の部屋という感じがした。
隣人のことも、ほとんど思い出さない。ここから連れ出してくれた智哉さんのおかげだ。そして、もう一人……
東松さんのコワモテを思い浮かべる。
『ドゥマン』の店先で偶然再会したことを、まだ智哉さんに話していない。食事中も、なんとなく話題に出しづらくて、時間が経ってしまった。
「ハル、どうかした?」
「あ、ごめんなさい」
明かりを点けて、部屋に上がった。ぼんやりしている場合ではない。
「とりあえず、洋服を全部持って行くね。あとは、できるだけ鞄に詰めてみる」
「家具と家電は、引越し会社に任せたほうがいいな」
私が荷物を作る間に、智哉さんが引越し会社に見積もりの予約を入れてくれた。とにかく早く引越しを進めようと、彼は張り切っている。
荷物を詰めた大小の鞄を玄関まで運んでから、コーヒーを淹れた。三十分後にアパート前に付けてくれるよう、タクシーを呼んである。それまでしばしの休憩タイムだ。
「ところで、アパートを出たこと、ご両親にはもう報告した?」
「ううん、まだ。ここのところ、向こうから電話もないし、後回しにしてる」
智哉さんは少し驚いた顔になる。
「もしかして鳥宮の件も、言ってないのか」
「うん。落ち着いてから、ゆっくり話すつもり。特に母が心配性でうるさいし、大騒ぎしてマンションに押しかけられたら困るもの」
私を子ども扱いする母親を思い出し、つい口を尖らせると、智哉さんが笑った。
「いいお母さんだな。羨ましいよ」
「えっ?」
カップを置いて、智哉さんを見つめた。
「僕の母親とは、大違いだ」
「智哉さん……」
幼い頃に亡くなったという、彼のお母さん。
――昔、災難に巻き込まれて……両親も家も、もう存在しない。
私に無用な心配をさせたくなくて、彼は過去を語らずにいた。それほど辛い思いをしたのだ。だけど勝手に同情するのはよくないと私は思った。
だから詳しく訊かなかったのだが、智哉さんは今、自ら母親について漏らした。でも、どうしてだろう。
これまでになく、寂しい表情をしている。
「ハル」
「は、はい」
まっすぐに見つめ返されて、緊張する。いつもと雰囲気が違う。私の知らない智哉さんの、初めての姿が表れた気がした。
「落ち着いたら、家族に連絡しなよ。それで、会わせてくれないか」
(会わせる……?)
ぼうっとする私に、彼は真面目に要望した。
「僕はハルと家庭を持ちたい。そのことを、ご両親にお願いしたいんだ。きちんと挨拶するべきだと、考えている」
「……」
指先が震えはじめた。この人は、大変なことを口にした。
家庭を持つ、ということは、つまり……
「ハル。僕と結婚してくれないか」
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