恋の記録

藤谷 郁

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軽やかなヒール

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「刑事になりたての頃、丈夫な靴が欲しくて靴の専門店に行ったんです。そしたら、対応した店員が高級ブランド靴をえらく薦めてきまして。相手は靴の専門家だし、『いいものだから長持ちしますよ』という言葉を信じて買ったわけです。ところが、ほんの数日歩き回っただけで底が抜けちまった」

「えっ、それはひどいですね」


いくら東松さんの体重を支えるのが大変でも、数日でダメになるなんてあんまりだ。高級ブランド靴なら値段も高かっただろうに。

しかし東松さんは、頑丈そうな顎を撫でながら、安易な買い物を反省したと語る。


「ブランド靴は確かにいいものだけど、用途に合ってなかった。店員に任せっぱなしにした俺も甘かったかな、と」

「でも、専門家に薦められたら、誰だって信じちゃいますよ」


まったくの素人なら、なおさらだ。

おそらくその店員は、用途を理解した上で、高い靴を薦めたのだと思う。買い物に慣れていない客をカモにする販売員は、悲しいけれど存在する。


「まあ、いい勉強になりましたよ。あれ以来、自分でよく吟味して買うようになりましたから」

「東松さんは、前向きなんですね」

「そうすか?」


この健康的な笑顔。コワモテだけど、中身は柔軟。実に大らかな人なのだ。


「そういえば一条さん。この前、傘を失くしたでしょう」


東松さんが急に話を変えて、私のビニール傘を見下ろす。


「ええ、失くしましたが……」


なぜそれを知っているのだろう。不思議に思って訊くと、


「ちょっと小耳に挟みましてね」

「あ、城田町のコンビニで……」


東松さんは鳥宮さんの件で、駅前のコンビニで聞き込みを行っている。監視カメラをチェックした際、私の顔を覚えていた店員が話したのだろう。

客がいるのにペラペラとお喋りしていた、若い店員を思い浮かべた。


「まあ、そんなところです。それで、もし窃盗なら立派な犯罪なんで、警察に相談してください。被害状況を確認の上、被害届を受理しますよ」

「確認というと、監視カメラのデータを調べるとか?」

「そうです」


もちろん、盗んだ犯人がわかるなら捕まえてほしいけれど、傘一本のことで警察沙汰にするのは大げさな気がする。

でも、せっかくのアドバイスである。


「今度、相談してみようかしら」

「ぜひ。小さな犯罪を潰していくことが、町の平和に繋がりますからね」


確かにそのとおりだ。警察官らしい言葉に、私はうんうんと頷く。


「じゃあ、俺はそろそろ帰ります」

「靴は買わないんですか?」


東松さんは「うーん」と唸り、店の中をぐるりと見回す。


「この店は品揃えが洒落てますね。俺には似合わないので、やめときます」

「そ、そうですか?」


きっと似合う靴があると思うが。

しかし、引き留める言葉を選ぶ間もなく、東松さんはもう帰る体勢だ。


「一条さんは、このあと買い物ですか」

「ええ。私も靴を探しにきたんです。このお店に、知り合いがいるので……」

「知り合い?」


なぜか東松さんの目つきが鋭くなる。


「ひょっとして、今一緒に住んでいるという人ですか」


どうして分かるのだろう。私は少しうろたえながらも肯定した。


「はい。このお店……『ドゥマン』の店長なんです」

「店長?」


東松さんは、もう一度店の中へと目を凝らす。どこか緊張した様子に見えた。


「どうかしました?」

「いや、何でもありません。そうですか、靴専門店の店長さん……」

「?」


言おうとしたことを引っ込めた、という感じがする。東松さんらしからぬ、妙な間があった。


「あの、気になることでも?」

「いいえ。それより、デートの邪魔しちゃ悪いですからね、俺は消えます。良い靴を選んでもらってください」

「え、ちょっと、待っ……」


片手を上げて、立ち去ってしまった。歩くのが速くて、あっという間に姿が見えなくなる。


「変な人。ていうか、デートって」


智哉さんのことは親しい知人と言ってあるのに、恋人だと見抜かれていたようだ。


「さすが刑事さん。それとも、私の顔に『恋人』って書いてあったのかしら。なーんて……」

「ハル、来てたのか」


突然、真後ろから声をかけられ、心臓が跳ね上がる。振り向くと、智哉さんがにこやかに笑っていた。


「智哉さん! びっ、びっくりしたあ……」

「ごめんごめん。かなり待たせちゃったかな。今まで、奥で作業してたんだ」

「そんな、全然。私も今来たところだから気にしないで」


私と東松さんが一緒にいたことを、知らないようだ。別にやましいことはないけれど、智哉さんは彼をあまり良く思っていないようなので、焦ってしまう。

でも、黙っているのは不自然だ。


「あのね、智哉さん。今、思わぬ人と再会して……」

「もうこんな時間か。のんびりしてると、アパートに行く時間がなくなるぞ。早く靴を選ぼう」

「ええ、そうなんだけど……えっ?」


智哉さんは私の手を取り、店の奥へと連れて行く。やや強引なリードに気圧され、東松さんのことを話すタイミングを逸してしまった。

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