恋の記録

藤谷 郁

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軽やかなヒール

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「そうだ、一条さん。私、今夜にでも土屋さんに電話してみますね」

「あ、うん」


妊娠の有無を確かめるのだ。


「お腹に赤ちゃんがいるなら、あの子のことだからあっさり打ち明けると思う。他に相談できる相手はいないだろうし、私から手を差し伸べれば……」

「そうだね」


まだ土屋さんは、山賀さんの変化に気付いていない。味方だと思って、本当のことを話すだろう。


「結果によっては本部に告げましょう。店長を他店に飛ばすどころか、辞めさせる理由になりますから」


山賀さんの口調は静かだが攻撃的だ。彼女は完全に、店長と土屋さんを敵視している。


「結果はすぐに連絡しますね」

「ん、分かった」


山賀さんは覚悟ができている。中途半端な同情は無用なのだ。やはり彼女は、私以外の、誰かしっかりした人にアドバイスをもらったのだろう。


「さてと、では行きましょうか」


朝と同じように、山賀さんの帰り支度はすぐに終わる。私達は連れ立って更衣室を出た。




「あれっ、一条さん。傘、どうしたんですか?」


廊下を歩きながら、山賀さんが私のビニール傘を見下ろした。


「ああ、うん。この前、盗まれてしまったの」

「ええ~?」


残念そうに声を漏らす。あのブランド傘を、彼女も気に入っていたのだ。


「もったいない。すごく可愛かったのに」

「私もがっかりしたけど、仕方ないわ。でも、このビニール傘も使ってみると案外便利なのよ。周りがよく見えるし」

「一条さんってば、ポジティブすぎ……あっ」


彼女が急に立ち止まり、大きな目を見開く。


「傘、どこで盗まれました?」

「どこって……」

「もしかして、更衣室とか」

「ううん、駅前のコンビニだけど」


山賀さんは気の抜けた様子になる。

なぜ更衣室で盗られたと思うのだろう。私が訊くと、彼女は声を潜めて説明した。


「前に土屋さんが、更衣室に置いてある一条さんの傘を、じっと見てたんです。可愛いブランド傘だから、欲しくなったのではと……」


土屋さんが盗んだと思ったらしい。いくら何でも、それは考えすぎだ。


「でも彼女はそういった性質です。それに、一条さんに嫌がらせすることも考えられるし」

「山賀さん」


土屋さんを嫌悪するあまりの猜疑心だ。気持ちは分かるが、何でもかんでも悪いほうに考えるのは良くない。


「落ち着いて。私達は、事実のみを見つめなければ」

「そう、ですよね。すみません」


山賀さんは思い込みを反省してか、首をすくめた。ばつが悪そうに歩き出す姿を見て、私はフォローを入れる。


「ありがとう。あなたは全面的に私の味方なのね」

「……もちろんです」


私をチラリと見て、素直に頷く。

どうしてこんなに、私のために動いたり考えたりしてくれるのだろう。山賀さんの横顔は、頑ななくらい一生懸命だ。


エレベーターの呼び出しボタンを押してしばらくすると、ドアが開いた。

中に数人乗っており、一階のランプが点灯している。私が六階のボタンを押すと、山賀さんが「あれっ」と声を上げた。


「ひょっとしてデートですか?」

「う、うん。まあ……」


智哉さんに靴を選んでもらい、その後アパートに荷物を取りに行く予定だ。途中で食事をするだろうし、デートといえなくもない。


「羨ましいなあ。私もイケメンな彼氏がほしいです!」

「や、山賀さん。声が大きいって……」


そんなやり取りをする間に六階に着く。エレベーターを降りる私に、山賀さんが早口で伝えた。


「土屋さんの件、夜に連絡しますね。彼氏さんによろしくです」


ドアが閉まり、籠が下降するのを見送る。なんだか変な汗をかいてしまった。


「イケメンか……そうよね、智哉さんのような素敵な男性と付き合えるんだもの。私は、すごく幸せなんだ」


店長の発言など、忘れてしまっても構わない。智哉さんの過去を詮索するのは、愚かでつまらないことだと気付いた。




私は妖怪のまやかしを打ち払い、正気を取り戻した。

バックヤードの通路から表の店側に出ると、『ドゥマン』へとまっすぐに向かう。

店内は日曜日のため、普段より込み合っている。買い物客の間を縫うように進むと、目的地が見えてきた。


「……ん?」


『ドゥマン』の店先に、見覚えのある姿があった。いつものスーツではなく、Tシャツにデニムというカジュアルな服装だが、あのがっちりとした体格は間違いない。

私は思わず笑顔になり、大きな背中に声をかけた。


「こんばんは、東松さん」


彼はくるっと振り向き、目をぱちくりとさせる。相変わらずのコワモテだけど、今の私は全然怖くない。それどころか、驚いた様子が楽しくさえあった。


「ああ、一条さん。どうも」


素朴な挨拶が、この人らしい。クスクス笑う私に釣られたのか、彼も柔らかな表情になる。


「ご機嫌ですね。臨時ボーナスでも出ましたか」

「だったら、いいんですけど」


東松さんは手にしていたサンダルを棚に戻し、私と向き合う。ちょっとぎこちない感じがするのは気のせいだろうか。


「今日はスーツじゃないんですね」

「ええ。休日なんで」


それにしても、若々しいファッションだ。でも、案外似合っているので、私は首を傾げる。


「失礼ですが……東松さんって、おいくつでしたっけ」

「年ですか? 二十八です」

「え……」


まだ二十代? てっきり三十代だと思っていた。


「意外そうですね」

「すっ、すみません。東松さんは、しっかりしてるというか、落ち着いた雰囲気なので」

「もっとオッサンだと?」

「いえ、その……」


口ごもる私が可笑しいのか、東松さんは肩を揺らす。なるほど、よく見ると髪にも肌にも二十代の艶があった。


「いいっすよ。四捨五入すれば三十のオッサンです」

「う……ごめんなさい」


私の失礼な反応を、東松さんは気にも留めずにさらりと流す。こんなところが、気安さの理由かもしれない。


「一条さんは仕事帰りですか」

「ええ、今終わったところです」

「ふうん。元気そうで安心しましたよ」


鳥宮さんの事件でショックを受けた私を、ずっと心配してくれたのだろうか。刑事さんというのは親切なのだなあと、感心する。


「どうかしましたか」

「いっ、いえ、なんでも。ところで東松さん、サンダルを選んでましたね」

「ああ、まあ。もうサンダルの季節かと思って、見てただけで……本当は、仕事用の靴がダメになったんで、買いに来たんですよ」

「そうなんですか。刑事さんって、たくさん歩くんでしょう?」

「歩きますね。靴底の減りが半端ないです」


私は話しながら、『ドゥマン』の売り場へと目をやる。智哉さんの姿が見当たらない。修理スペースにいるのだろうか。

いつだったか、東松さんの話をする私に智哉さんは嫉妬の感情を見せた。コワモテ男を見かけても声なんかかけなくていい――そう言われたことを思い出す。


(でも、東松さんにはお世話になったし、避けるのは失礼よね)


もう少しだけ、話すことにした。
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