恋の記録

藤谷 郁

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軽やかなヒール

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二時間後――


「一条さん、さっきは大丈夫でしたか?」


倉庫で在庫を調べていると、山賀さんが声をかけてきた。心配そうに眉を寄せている。


「ありがとう、私は大丈夫。いいタイミングで来てくれて助かったわ」


微笑む私に、彼女はホッとした様子になった。


「私が事務所に入ったのは、たまたまですよ。でも、一条さんが店長に迫られてるのを見て、びっくりしました。変なことされませんでした?」

「あ、ううん……土屋さんのことで、ちょっと言い合いになって……」


智哉さんの名前を出すのはためらわれて、言葉を濁す。


「もしかして、妊娠疑惑を確かめたんですか?」

「ううん、それはさすがに訊けなかった。ただ、土屋さんが店長と揉めて帰ったらしくて、その件で苦言を呈したというか」

「ああ、私も聞きました。やっぱり、妊娠が原因で揉めたって感じですね」


山賀さんの中で、妊娠疑惑は確信に変わりつつある。深刻な表情から、それが見て取れた。


「だけど、いまいちスッキリしません……私、土屋さんに訊いてみようかな。赤ちゃんができたの? って」

「彼女に直接?」


山賀さんはこくりと頷く。


「土屋さんは、私が縁を切ろうとしているのを、まだ知りません。相変わらず、仲の良い友達だと思っています。心配して見せれば、あっさり吐いてくれるかも」


私は少し、驚いた。土屋さんに嫌気が差したとはいえ、今の言い方はかなり冷淡である。一度は友達だったのに。

なんだか、山賀さんの雰囲気が変わった気がする。


「ところで、これなんですけど」

「えっ?」


山賀さんは急に話を変えて、手に持っている封筒を見せた。


「あ、それはガッツノベルの……」


新作ゲラが入った封筒だ。事務所から急いで出る時、うっかり置き忘れたのだ。


「私が読ませていただきますね。店長にもOKもらってます」

「そうなの?」

「店長は渋々だったけど。私もライトノベル担当なんで、断る理由を思い付かなかったんでしょう。とりあえず、このゲラを使って一条さんに圧力をかけることは、もうできません。予防として、ラノベの版元さんに新作ゲラは店長ではなくスタッフに渡してくださいと、お願いするつもりです」


にっこりと笑うのを見て、あらためて思った。今までの山賀さんと、やはり何かが違う。彼女らしい、ほわっとした雰囲気ではない。


「ありがとう、本当に。でも山賀さん、私のために無理しないで。あなたまで店長に敵視されたら……」

「大丈夫ですって。あの人も土屋さんも、すぐに消えちゃいますよ」


軽やかなステップで、彼女は立ち去った。

私は作業に戻るが、嬉しいような不思議なような、謎の感情をしばし持て余した。





(高崎って、群馬県の高崎市だよね)


仕事を終えて更衣室で着替えている時、今日何度目かの思考にとらわれた。悔しいけれど、店長の発言が頭にこびりつき、どうしても離れないのだ。

私は腹を立てながらも、スマートフォンを取り出して『ドゥマン』のホームページを検索した。智哉さんのことを知りたいという気持ちを、抑えきれない。

店舗一覧から高崎店を見つけた。住所と電話番号が記載されている。


「『ドゥマン』高崎店。駅ビルの中に店舗があるんだ」


高崎店のサイトに、スタッフ紹介ページがあるかもしれない。もしかしたら、その中に元カノがいたりして……

画面をタップしようとして、思いとどまる。こんなの、彼のプライバシーを覗き見る行為だ。良くない。

スマートフォンをバッグに仕舞い、ロッカーにもたれた。危うく、店長と同じレベルに堕ちるところだった。


「智哉さん、ごめんなさい」


あんなに素敵な人だもの。過去に恋人がいたって不思議じゃないし、むしろ当然のこと。


「いろいろあったとしても、終わったことだろうし。店長が思わせぶりな言い方で、私に嫌がらせしてるだけよ」


そんなことより、早く『ドゥマン』に行かなければ。智哉さんが私を待っている。

気を取り直し、更衣室を出ようとした。


「一条さん、お疲れ様です」

「あっ、お疲れ様。今まで残ってたの?」


ドアを開けたのは山賀さん。もう退勤したと思っていたので、少し驚く。


「帰る間際にお客様の問い合わせがあって、応対していたら遅くなってしまいました」

「そうなんだ。言ってくれたら交代したのに」

「ありがとうございます。でも、平気です。これからはいっぱい働きたいし、それに、来週から週5日で勤務することになりました」

「本当に?」

「はい、平日は夕方からラストまでやります。店長が喜んでシフトに入れてくれましたよ。土屋さんの穴埋め要員でしょうね」


チーフが抜けたライトノベル班は人手不足だ。山賀さんに不倫がバレているとも知らず、いそいそとシフトを組む店長を想像して可笑しくなる。


「頼もしいけど、無理しないでね。学生の本文は勉強なんだから」

「はーい」


山賀さんの返事は明るい。無理をしている感じではなく、とりあえずホッとする。
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