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軽やかなヒール
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「いいえ。これはライトノベルの担当者に渡します。私の仕事ではありませんから」
店長の顔から笑みが消えた。
でも私は動じなかった。不思議なくらい、落ち着いている。
事務所には他に誰もおらず、静かだ。また圧力をかけてくるかもしれない。私は肚に力を入れ、本題を切り出す。
「土屋さんのことですが、先ほど体調不良で帰ってしまったそうですね。店長と揉めていたと聞きましたが」
「ああ、あの人ですか」
相変わらず、他人事のような態度だ。妊娠のことで揉めたんじゃないですかと、問い詰めたくなる。
「困ったものですね。ヒステリックに叫べば、わがままが通ると思っているのでしょうか。早く配置換えしたいのですが、本部からなかなか返事が来ないんですよ。あんな風だから、私は一条さんに期待をかけて……」
「仕事をきちんとさせてください。ラノベの担当者が困ってるんです」
強気に訴える私を、店長は意外そうに眺める。
「なるほどねえ。靴屋の店長さんにアドバイスでもされましたか。パワハラ対策とか?」
「……」
本当に嫌な男だ。
土屋さんは、この男のどこが良くて不倫なんかしたのだろう。物好きにもほどがある。
「土屋さんに対してもっと誠実に、きちんと話し合ってください」
いろんな意味をこめて、真剣に言った。
店長はマウスから手を離し、作業を中断した。私が釣られないので面白くないのだろう。しばらくムッとしていたが、
「時に一条さん。その、靴屋の店長……水樹智哉さんですがね、前は高崎店にいたそうじゃないですか。あちらでも、ずいぶん優秀な販売員だったそうで」
はっとして、店長を見返す。私の感情が動いたのを見て取り、彼は愉快そうに眉を上げた。
「おやおや。恋人のくせに、そんなこともご存じなかった?」
「……土屋さんの件、よろしくお願いします。私には私の仕事がありますので、失礼します」
踵を返し、ドアへと歩き出す。
智哉さんの情報を誰に聞いたのだろう。いやみったらしい言い方といい、不愉快だった。
「恋人がいたそうですよ。高崎に!」
迂闊にも、足を止めてしまった。
(……恋人?)
店長が椅子を立ち、私の前にゆっくりと回り込む。ぎとぎとした顔面が気味悪く歪み、まさに妖怪である。
「なぜ、そんなことを知っているのか? ふふ……調べる方法なんて、いくらでもあります」
「プライバシーの侵害です!」
さすがにカッとなった。唇を震わせる私を、店長が楽しそうに見下ろす。
「大げさですねえ。ちょっと調べれば、いくらでも出てくる情報ですよ」
「いい加減にしてください。なんのために、あの人のことを……」
「敵を知るのは、戦いの基本ですから」
「ラ、ライバル!?」
全身に鳥肌が立った。
この男、本気で智哉さんを恋敵と思っているのだ。私にとって一つの魅力もない、ただの中年男だというのに。
あ然とする私を無視して、彼は得意げに、お喋りを続けた。
「高崎で、いろいろあったそうですよ。水樹さんは過去の話を、あなたには絶対にしない……いや、できないでしょうねえ」
「は……?」
「詳しく聞きたいですか?」
店長は、智哉さんを使って私を思いどおりにするつもりだ。智哉さんは私の弱点だから、でまかせを言って関心を引こうとしている。
この人は平気で嘘をつく。
分かっているのに、自ら罠に向かって行きそうだった。
そういえば、智哉さんから転勤前の話を聞いたことがない。どうして――
「失礼します!」
その時突然、事務所のドアが開いた。
私は我に返り、絶妙なタイミングで現れた彼女に目をみはる。
「や、山賀さん」
「店長。来週のシフト希望表を持ってきました」
山賀さんが用紙を手に、こちらに近付いてくる。店長は慌てて椅子に座り、その場を取り繕った。
「ああ、どうも山賀さん、お疲れ様です。一条さんと、ライトノベルの棚について相談していたところです。今日はチーフが不在ですが、よろしくお願いしますね」
「はい。頑張ります」
ぼうっと突っ立っている私に、山賀さんが目配せする。彼女は、私を助けに来てくれたのだ。
「そっ、それでは、私は売り場に行きます」
事務所を出て、胸を押さえた。どきどきしている。
店長の罠に引っ掛かるところだった。
「あんな人の言うこと、信じない。全部でたらめよ」
転勤前の話なんて、どうでもいい。智哉さんに恋人がいたとしても、もう別れたのなら関係ない。
大切なのは今の彼なのだと、自分に言い聞かせた。
店長の顔から笑みが消えた。
でも私は動じなかった。不思議なくらい、落ち着いている。
事務所には他に誰もおらず、静かだ。また圧力をかけてくるかもしれない。私は肚に力を入れ、本題を切り出す。
「土屋さんのことですが、先ほど体調不良で帰ってしまったそうですね。店長と揉めていたと聞きましたが」
「ああ、あの人ですか」
相変わらず、他人事のような態度だ。妊娠のことで揉めたんじゃないですかと、問い詰めたくなる。
「困ったものですね。ヒステリックに叫べば、わがままが通ると思っているのでしょうか。早く配置換えしたいのですが、本部からなかなか返事が来ないんですよ。あんな風だから、私は一条さんに期待をかけて……」
「仕事をきちんとさせてください。ラノベの担当者が困ってるんです」
強気に訴える私を、店長は意外そうに眺める。
「なるほどねえ。靴屋の店長さんにアドバイスでもされましたか。パワハラ対策とか?」
「……」
本当に嫌な男だ。
土屋さんは、この男のどこが良くて不倫なんかしたのだろう。物好きにもほどがある。
「土屋さんに対してもっと誠実に、きちんと話し合ってください」
いろんな意味をこめて、真剣に言った。
店長はマウスから手を離し、作業を中断した。私が釣られないので面白くないのだろう。しばらくムッとしていたが、
「時に一条さん。その、靴屋の店長……水樹智哉さんですがね、前は高崎店にいたそうじゃないですか。あちらでも、ずいぶん優秀な販売員だったそうで」
はっとして、店長を見返す。私の感情が動いたのを見て取り、彼は愉快そうに眉を上げた。
「おやおや。恋人のくせに、そんなこともご存じなかった?」
「……土屋さんの件、よろしくお願いします。私には私の仕事がありますので、失礼します」
踵を返し、ドアへと歩き出す。
智哉さんの情報を誰に聞いたのだろう。いやみったらしい言い方といい、不愉快だった。
「恋人がいたそうですよ。高崎に!」
迂闊にも、足を止めてしまった。
(……恋人?)
店長が椅子を立ち、私の前にゆっくりと回り込む。ぎとぎとした顔面が気味悪く歪み、まさに妖怪である。
「なぜ、そんなことを知っているのか? ふふ……調べる方法なんて、いくらでもあります」
「プライバシーの侵害です!」
さすがにカッとなった。唇を震わせる私を、店長が楽しそうに見下ろす。
「大げさですねえ。ちょっと調べれば、いくらでも出てくる情報ですよ」
「いい加減にしてください。なんのために、あの人のことを……」
「敵を知るのは、戦いの基本ですから」
「ラ、ライバル!?」
全身に鳥肌が立った。
この男、本気で智哉さんを恋敵と思っているのだ。私にとって一つの魅力もない、ただの中年男だというのに。
あ然とする私を無視して、彼は得意げに、お喋りを続けた。
「高崎で、いろいろあったそうですよ。水樹さんは過去の話を、あなたには絶対にしない……いや、できないでしょうねえ」
「は……?」
「詳しく聞きたいですか?」
店長は、智哉さんを使って私を思いどおりにするつもりだ。智哉さんは私の弱点だから、でまかせを言って関心を引こうとしている。
この人は平気で嘘をつく。
分かっているのに、自ら罠に向かって行きそうだった。
そういえば、智哉さんから転勤前の話を聞いたことがない。どうして――
「失礼します!」
その時突然、事務所のドアが開いた。
私は我に返り、絶妙なタイミングで現れた彼女に目をみはる。
「や、山賀さん」
「店長。来週のシフト希望表を持ってきました」
山賀さんが用紙を手に、こちらに近付いてくる。店長は慌てて椅子に座り、その場を取り繕った。
「ああ、どうも山賀さん、お疲れ様です。一条さんと、ライトノベルの棚について相談していたところです。今日はチーフが不在ですが、よろしくお願いしますね」
「はい。頑張ります」
ぼうっと突っ立っている私に、山賀さんが目配せする。彼女は、私を助けに来てくれたのだ。
「そっ、それでは、私は売り場に行きます」
事務所を出て、胸を押さえた。どきどきしている。
店長の罠に引っ掛かるところだった。
「あんな人の言うこと、信じない。全部でたらめよ」
転勤前の話なんて、どうでもいい。智哉さんに恋人がいたとしても、もう別れたのなら関係ない。
大切なのは今の彼なのだと、自分に言い聞かせた。
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