89 / 236
軽やかなヒール
3
しおりを挟む
「いいえ。これはライトノベルの担当者に渡します。私の仕事ではありませんから」
店長の顔から笑みが消えた。
でも私は動じなかった。不思議なくらい、落ち着いている。
事務所には他に誰もおらず、静かだ。また圧力をかけてくるかもしれない。私は肚に力を入れ、本題を切り出す。
「土屋さんのことですが、先ほど体調不良で帰ってしまったそうですね。店長と揉めていたと聞きましたが」
「ああ、あの人ですか」
相変わらず、他人事のような態度だ。妊娠のことで揉めたんじゃないですかと、問い詰めたくなる。
「困ったものですね。ヒステリックに叫べば、わがままが通ると思っているのでしょうか。早く配置換えしたいのですが、本部からなかなか返事が来ないんですよ。あんな風だから、私は一条さんに期待をかけて……」
「仕事をきちんとさせてください。ラノベの担当者が困ってるんです」
強気に訴える私を、店長は意外そうに眺める。
「なるほどねえ。靴屋の店長さんにアドバイスでもされましたか。パワハラ対策とか?」
「……」
本当に嫌な男だ。
土屋さんは、この男のどこが良くて不倫なんかしたのだろう。物好きにもほどがある。
「土屋さんに対してもっと誠実に、きちんと話し合ってください」
いろんな意味をこめて、真剣に言った。
店長はマウスから手を離し、作業を中断した。私が釣られないので面白くないのだろう。しばらくムッとしていたが、
「時に一条さん。その、靴屋の店長……水樹智哉さんですがね、前は高崎店にいたそうじゃないですか。あちらでも、ずいぶん優秀な販売員だったそうで」
はっとして、店長を見返す。私の感情が動いたのを見て取り、彼は愉快そうに眉を上げた。
「おやおや。恋人のくせに、そんなこともご存じなかった?」
「……土屋さんの件、よろしくお願いします。私には私の仕事がありますので、失礼します」
踵を返し、ドアへと歩き出す。
智哉さんの情報を誰に聞いたのだろう。いやみったらしい言い方といい、不愉快だった。
「恋人がいたそうですよ。高崎に!」
迂闊にも、足を止めてしまった。
(……恋人?)
店長が椅子を立ち、私の前にゆっくりと回り込む。ぎとぎとした顔面が気味悪く歪み、まさに妖怪である。
「なぜ、そんなことを知っているのか? ふふ……調べる方法なんて、いくらでもあります」
「プライバシーの侵害です!」
さすがにカッとなった。唇を震わせる私を、店長が楽しそうに見下ろす。
「大げさですねえ。ちょっと調べれば、いくらでも出てくる情報ですよ」
「いい加減にしてください。なんのために、あの人のことを……」
「敵を知るのは、戦いの基本ですから」
「ラ、ライバル!?」
全身に鳥肌が立った。
この男、本気で智哉さんを恋敵と思っているのだ。私にとって一つの魅力もない、ただの中年男だというのに。
あ然とする私を無視して、彼は得意げに、お喋りを続けた。
「高崎で、いろいろあったそうですよ。水樹さんは過去の話を、あなたには絶対にしない……いや、できないでしょうねえ」
「は……?」
「詳しく聞きたいですか?」
店長は、智哉さんを使って私を思いどおりにするつもりだ。智哉さんは私の弱点だから、でまかせを言って関心を引こうとしている。
この人は平気で嘘をつく。
分かっているのに、自ら罠に向かって行きそうだった。
そういえば、智哉さんから転勤前の話を聞いたことがない。どうして――
「失礼します!」
その時突然、事務所のドアが開いた。
私は我に返り、絶妙なタイミングで現れた彼女に目をみはる。
「や、山賀さん」
「店長。来週のシフト希望表を持ってきました」
山賀さんが用紙を手に、こちらに近付いてくる。店長は慌てて椅子に座り、その場を取り繕った。
「ああ、どうも山賀さん、お疲れ様です。一条さんと、ライトノベルの棚について相談していたところです。今日はチーフが不在ですが、よろしくお願いしますね」
「はい。頑張ります」
ぼうっと突っ立っている私に、山賀さんが目配せする。彼女は、私を助けに来てくれたのだ。
「そっ、それでは、私は売り場に行きます」
事務所を出て、胸を押さえた。どきどきしている。
店長の罠に引っ掛かるところだった。
「あんな人の言うこと、信じない。全部でたらめよ」
転勤前の話なんて、どうでもいい。智哉さんに恋人がいたとしても、もう別れたのなら関係ない。
大切なのは今の彼なのだと、自分に言い聞かせた。
店長の顔から笑みが消えた。
でも私は動じなかった。不思議なくらい、落ち着いている。
事務所には他に誰もおらず、静かだ。また圧力をかけてくるかもしれない。私は肚に力を入れ、本題を切り出す。
「土屋さんのことですが、先ほど体調不良で帰ってしまったそうですね。店長と揉めていたと聞きましたが」
「ああ、あの人ですか」
相変わらず、他人事のような態度だ。妊娠のことで揉めたんじゃないですかと、問い詰めたくなる。
「困ったものですね。ヒステリックに叫べば、わがままが通ると思っているのでしょうか。早く配置換えしたいのですが、本部からなかなか返事が来ないんですよ。あんな風だから、私は一条さんに期待をかけて……」
「仕事をきちんとさせてください。ラノベの担当者が困ってるんです」
強気に訴える私を、店長は意外そうに眺める。
「なるほどねえ。靴屋の店長さんにアドバイスでもされましたか。パワハラ対策とか?」
「……」
本当に嫌な男だ。
土屋さんは、この男のどこが良くて不倫なんかしたのだろう。物好きにもほどがある。
「土屋さんに対してもっと誠実に、きちんと話し合ってください」
いろんな意味をこめて、真剣に言った。
店長はマウスから手を離し、作業を中断した。私が釣られないので面白くないのだろう。しばらくムッとしていたが、
「時に一条さん。その、靴屋の店長……水樹智哉さんですがね、前は高崎店にいたそうじゃないですか。あちらでも、ずいぶん優秀な販売員だったそうで」
はっとして、店長を見返す。私の感情が動いたのを見て取り、彼は愉快そうに眉を上げた。
「おやおや。恋人のくせに、そんなこともご存じなかった?」
「……土屋さんの件、よろしくお願いします。私には私の仕事がありますので、失礼します」
踵を返し、ドアへと歩き出す。
智哉さんの情報を誰に聞いたのだろう。いやみったらしい言い方といい、不愉快だった。
「恋人がいたそうですよ。高崎に!」
迂闊にも、足を止めてしまった。
(……恋人?)
店長が椅子を立ち、私の前にゆっくりと回り込む。ぎとぎとした顔面が気味悪く歪み、まさに妖怪である。
「なぜ、そんなことを知っているのか? ふふ……調べる方法なんて、いくらでもあります」
「プライバシーの侵害です!」
さすがにカッとなった。唇を震わせる私を、店長が楽しそうに見下ろす。
「大げさですねえ。ちょっと調べれば、いくらでも出てくる情報ですよ」
「いい加減にしてください。なんのために、あの人のことを……」
「敵を知るのは、戦いの基本ですから」
「ラ、ライバル!?」
全身に鳥肌が立った。
この男、本気で智哉さんを恋敵と思っているのだ。私にとって一つの魅力もない、ただの中年男だというのに。
あ然とする私を無視して、彼は得意げに、お喋りを続けた。
「高崎で、いろいろあったそうですよ。水樹さんは過去の話を、あなたには絶対にしない……いや、できないでしょうねえ」
「は……?」
「詳しく聞きたいですか?」
店長は、智哉さんを使って私を思いどおりにするつもりだ。智哉さんは私の弱点だから、でまかせを言って関心を引こうとしている。
この人は平気で嘘をつく。
分かっているのに、自ら罠に向かって行きそうだった。
そういえば、智哉さんから転勤前の話を聞いたことがない。どうして――
「失礼します!」
その時突然、事務所のドアが開いた。
私は我に返り、絶妙なタイミングで現れた彼女に目をみはる。
「や、山賀さん」
「店長。来週のシフト希望表を持ってきました」
山賀さんが用紙を手に、こちらに近付いてくる。店長は慌てて椅子に座り、その場を取り繕った。
「ああ、どうも山賀さん、お疲れ様です。一条さんと、ライトノベルの棚について相談していたところです。今日はチーフが不在ですが、よろしくお願いしますね」
「はい。頑張ります」
ぼうっと突っ立っている私に、山賀さんが目配せする。彼女は、私を助けに来てくれたのだ。
「そっ、それでは、私は売り場に行きます」
事務所を出て、胸を押さえた。どきどきしている。
店長の罠に引っ掛かるところだった。
「あんな人の言うこと、信じない。全部でたらめよ」
転勤前の話なんて、どうでもいい。智哉さんに恋人がいたとしても、もう別れたのなら関係ない。
大切なのは今の彼なのだと、自分に言い聞かせた。
0
お気に入りに追加
132
あなたにおすすめの小説
夫の色のドレスを着るのをやめた結果、夫が我慢をやめてしまいました
氷雨そら
恋愛
夫の色のドレスは私には似合わない。
ある夜会、夫と一緒にいたのは夫の愛人だという噂が流れている令嬢だった。彼女は夫の瞳の色のドレスを私とは違い完璧に着こなしていた。噂が事実なのだと確信した私は、もう夫の色のドレスは着ないことに決めた。
小説家になろう様にも掲載中です
失った記憶が戻り、失ってからの記憶を失った私の話
本見りん
ミステリー
交通事故に遭った沙良が目を覚ますと、そこには婚約者の拓人が居た。
一年前の交通事故で沙良は記憶を失い、今は彼と結婚しているという。
しかし今の沙良にはこの一年の記憶がない。
そして、彼女が記憶を失う交通事故の前に見たものは……。
『○曜○イド劇場』風、ミステリーとサスペンスです。
最後のやり取りはお約束の断崖絶壁の海に行きたかったのですが、海の公園辺りになっています。
夫の不貞現場を目撃してしまいました
秋月乃衣
恋愛
伯爵夫人ミレーユは、夫との間に子供が授からないまま、閨を共にしなくなって一年。
何故か夫から閨を拒否されてしまっているが、理由が分からない。
そんな時に夜会中の庭園で、夫と未亡人のマデリーンが、情事に耽っている場面を目撃してしまう。
なろう様でも掲載しております。
あなたの子ですが、内緒で育てます
椿蛍
恋愛
「本当にあなたの子ですか?」
突然現れた浮気相手、私の夫である国王陛下の子を身籠っているという。
夫、王妃の座、全て奪われ冷遇される日々――王宮から、追われた私のお腹には陛下の子が宿っていた。
私は強くなることを決意する。
「この子は私が育てます!」
お腹にいる子供は王の子。
王の子だけが不思議な力を持つ。
私は育った子供を連れて王宮へ戻る。
――そして、私を追い出したことを後悔してください。
※夫の後悔、浮気相手と虐げられからのざまあ
※他サイト様でも掲載しております。
※hotランキング1位&エールありがとうございます!
〖完結〗私はあなたのせいで死ぬのです。
藍川みいな
恋愛
「シュリル嬢、俺と結婚してくれませんか?」
憧れのレナード・ドリスト侯爵からのプロポーズ。
彼は美しいだけでなく、とても紳士的で頼りがいがあって、何より私を愛してくれていました。
すごく幸せでした……あの日までは。
結婚して1年が過ぎた頃、旦那様は愛人を連れて来ました。次々に愛人を連れて来て、愛人に子供まで出来た。
それでも愛しているのは君だけだと、離婚さえしてくれません。
そして、妹のダリアが旦那様の子を授かった……
もう耐える事は出来ません。
旦那様、私はあなたのせいで死にます。
だから、後悔しながら生きてください。
設定ゆるゆるの、架空の世界のお話です。
全15話で完結になります。
この物語は、主人公が8話で登場しなくなります。
感想の返信が出来なくて、申し訳ありません。
たくさんの感想ありがとうございます。
次作の『もう二度とあなたの妻にはなりません!』は、このお話の続編になっております。
このお話はバッドエンドでしたが、次作はただただシュリルが幸せになるお話です。
良かったら読んでください。
ピエロの嘲笑が消えない
葉羽
ミステリー
天才高校生・神藤葉羽は、幼馴染の望月彩由美から奇妙な相談を受ける。彼女の叔母が入院している精神科診療所「クロウ・ハウス」で、不可解な現象が続いているというのだ。患者たちは一様に「ピエロを見た」と怯え、精神を病んでいく。葉羽は、彩由美と共に診療所を訪れ、調査を開始する。だが、そこは常識では計り知れない恐怖が支配する場所だった。患者たちの証言、院長の怪しい行動、そして診療所に隠された秘密。葉羽は持ち前の推理力で謎に挑むが、見えない敵は彼の想像を遥かに超える狡猾さで迫ってくる。ピエロの正体は何なのか? 診療所で何が行われているのか? そして、葉羽は愛する彩由美を守り抜き、この悪夢を終わらせることができるのか? 深層心理に潜む恐怖を暴き出す、戦慄の本格推理ホラー。
【完結】「心に決めた人がいる」と旦那様は言った
ゴールデンフィッシュメダル
恋愛
「俺にはずっと心に決めた人がいる。俺が貴方を愛することはない。貴女はその人を迎え入れることさえ許してくれればそれで良いのです。」
そう言われて愛のない結婚をしたスーザン。
彼女にはかつて愛した人との思い出があった・・・
産業革命後のイギリスをモデルにした架空の国が舞台です。貴族制度など独自の設定があります。
----
初めて書いた小説で初めての投稿で沢山の方に読んでいただき驚いています。
終わり方が納得できない!という方が多かったのでエピローグを追加します。
お読みいただきありがとうございます。
パパー!紳士服売り場にいた家族の男性は夫だった…子供を抱きかかえて幸せそう…なら、こちらも幸せになりましょう
白崎アイド
大衆娯楽
夫のシャツを買いに紳士服売り場で買い物をしていた私。
ネクタイも揃えてあげようと売り場へと向かえば、仲良く買い物をする男女の姿があった。
微笑ましく思うその姿を見ていると、振り向いた男性は夫だった…
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる