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軽やかなヒール
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「今日は夕方から雨が降るらしいよ」
玄関でレザーパンプスを履こうとする私に、智哉さんが声をかけた。
「そうなの? じゃあ、別の靴にしようかな」
昨日に続き、智哉さんが磨いてくれたレザーソールに勇気をもらいたかったのだが、残念だ。
「合皮のパンプスか……色もデザインも今の服装に合うけれど、通勤にはもう少しフラットな靴がいいな。アパートから持ってきたのはこれだけ?」
「うん。職場に仕事用のスニーカーを置いてあるし、とりあえず二足あればいいかなと思って」
今夜、アパートに荷物を取りに行くつもりだった。引越し会社にも電話して、早く見積もりを済ませようと考えている。
「その時に、ローファーを持ち帰るわ」
私が言うと智哉さんは、「いや、それよりも」と、別の提案をした。
「どうせなら新調しよう。仕事が終わったら、僕の店に来てくれ。君にぴったりの靴を選んであげるよ」
「ええっ?」
もしや、プレゼントしてくれるの?
目で問う私に、彼が当然のように頷く。
「それと、アパートにも付き合う。タクシーで乗りつけて、できるだけたくさんの荷物を運んでしまおう」
「ありがとう、智哉さん」
何から何まで、素早く段取りしてくれる。なぜこんなにも親切なのだろうと、彼の優しさにあらためて感謝の念を抱いた。
「よし。そろそろ行こうか」
「あっ、帰りに雨が降るなら、傘がいるよね」
「うん……あれっ?」
私が玄関の収納ボックスから傘を取り出すのを見て、智哉さんが目を瞬かせる。手にしたのはコンビニのビニール傘だ。
「前に言ってた、お気に入りの傘はどうしたんだ」
「あの傘、コンビニで買い物する間に、盗まれてしまったの」
「盗まれた?」
智哉さんも傘を持ち、二人で玄関を出た。駅ビルへの道すがら、傘を失ったいきさつを話す。
「それはひどいな。ずいぶん気に入ってたんだろ?」
「うん。デザインが可愛くて、お店で一目惚れして買ったのに」
「ふうん。どんなデザインなんだ」
「ええとね、ピンク地に黒のストライプで、柄がほっそりしてる。あと、ブランド名の刺繍があって……」
智哉さんは興味深けに耳を寄せてきた。
傘は実用品であると同時に、靴やバッグと同じファッション小物である。
「でも、透明なビニール傘って便利ね。周りがよく見えるから、人にぶつかる心配がないし」
「ハルは前向きだな」
楽しく会話するうちに、ビルに到着。
通用口のほうに進むと、前を歩く土屋さんの後ろ姿が見えた。急に現実に引き戻された気がして、歩調が遅くなる。
「ハル……?」
「大丈夫。あと少しの辛抱だもの」
智哉さんが歩調を合わせてくれた。無理に元気付けようとしないのは、彼流の思いやりだ。
「仕事が終わったら、まっすぐ『ドゥマン』においで。待ってるよ」
「うん」
私達がエレベーターに近付くと、扉が閉まるところだった。土屋さんが乗っていたけれど、横を向いているので、こちらに気付かない。
どこか疲れた様子で、顔色も悪いように見えた。
「昨夜話したこと、彼女に確かめたほうがいいな」
「そうよね」
妊娠疑惑についてだ。
土屋さんの個人的な問題だが、相手が店長なら放ってはおけない。
女性として、上司として、彼女と向き合いたい。
「一条さん、おはようございます!」
九階の廊下を歩いていると、背後からパタパタと足音が追いかけてきた。
「あれっ、山賀さん。同じエレベーターに乗ってたんだ」
「ええ、まあ。それより、昨夜は遅い時間に失礼しました」
電話のことである。
「こちらこそ。最後は愚痴になってしまって、ごめんなさい」
「いいえ。私も店長には頭にきてますから」
山賀さんは立ち止まり、こっそりと囁く。二人とも気持ちは同じだった。
「今日は日曜日だから学校は休みね」
「ええ、夕方まで働きますよ!」
とても張り切っている。頑張りすぎてガス欠にならなければいいが。
「さっき、彼氏さんと一緒でしたね。仲良く出勤できていいなあ」
「ええ?」
冷かすように言うので、思わず照れてしまう。
「水樹智哉さん……素敵な男性だなあ。エレベーターの中でも、一条さんを守るみたいに、寄り添ってましたもん」
「そ、そうだった?」
「土屋さんにちょっかいをかけられても、見向きもしませんよ。本当に、一条さんを愛してるって感じで」
「……あはは」
急にどうしたのだろう。
私は面映ゆくなり、羨ましそうに見つめてくる山賀さんから目を逸らし、パンプスを前に進めた。
玄関でレザーパンプスを履こうとする私に、智哉さんが声をかけた。
「そうなの? じゃあ、別の靴にしようかな」
昨日に続き、智哉さんが磨いてくれたレザーソールに勇気をもらいたかったのだが、残念だ。
「合皮のパンプスか……色もデザインも今の服装に合うけれど、通勤にはもう少しフラットな靴がいいな。アパートから持ってきたのはこれだけ?」
「うん。職場に仕事用のスニーカーを置いてあるし、とりあえず二足あればいいかなと思って」
今夜、アパートに荷物を取りに行くつもりだった。引越し会社にも電話して、早く見積もりを済ませようと考えている。
「その時に、ローファーを持ち帰るわ」
私が言うと智哉さんは、「いや、それよりも」と、別の提案をした。
「どうせなら新調しよう。仕事が終わったら、僕の店に来てくれ。君にぴったりの靴を選んであげるよ」
「ええっ?」
もしや、プレゼントしてくれるの?
目で問う私に、彼が当然のように頷く。
「それと、アパートにも付き合う。タクシーで乗りつけて、できるだけたくさんの荷物を運んでしまおう」
「ありがとう、智哉さん」
何から何まで、素早く段取りしてくれる。なぜこんなにも親切なのだろうと、彼の優しさにあらためて感謝の念を抱いた。
「よし。そろそろ行こうか」
「あっ、帰りに雨が降るなら、傘がいるよね」
「うん……あれっ?」
私が玄関の収納ボックスから傘を取り出すのを見て、智哉さんが目を瞬かせる。手にしたのはコンビニのビニール傘だ。
「前に言ってた、お気に入りの傘はどうしたんだ」
「あの傘、コンビニで買い物する間に、盗まれてしまったの」
「盗まれた?」
智哉さんも傘を持ち、二人で玄関を出た。駅ビルへの道すがら、傘を失ったいきさつを話す。
「それはひどいな。ずいぶん気に入ってたんだろ?」
「うん。デザインが可愛くて、お店で一目惚れして買ったのに」
「ふうん。どんなデザインなんだ」
「ええとね、ピンク地に黒のストライプで、柄がほっそりしてる。あと、ブランド名の刺繍があって……」
智哉さんは興味深けに耳を寄せてきた。
傘は実用品であると同時に、靴やバッグと同じファッション小物である。
「でも、透明なビニール傘って便利ね。周りがよく見えるから、人にぶつかる心配がないし」
「ハルは前向きだな」
楽しく会話するうちに、ビルに到着。
通用口のほうに進むと、前を歩く土屋さんの後ろ姿が見えた。急に現実に引き戻された気がして、歩調が遅くなる。
「ハル……?」
「大丈夫。あと少しの辛抱だもの」
智哉さんが歩調を合わせてくれた。無理に元気付けようとしないのは、彼流の思いやりだ。
「仕事が終わったら、まっすぐ『ドゥマン』においで。待ってるよ」
「うん」
私達がエレベーターに近付くと、扉が閉まるところだった。土屋さんが乗っていたけれど、横を向いているので、こちらに気付かない。
どこか疲れた様子で、顔色も悪いように見えた。
「昨夜話したこと、彼女に確かめたほうがいいな」
「そうよね」
妊娠疑惑についてだ。
土屋さんの個人的な問題だが、相手が店長なら放ってはおけない。
女性として、上司として、彼女と向き合いたい。
「一条さん、おはようございます!」
九階の廊下を歩いていると、背後からパタパタと足音が追いかけてきた。
「あれっ、山賀さん。同じエレベーターに乗ってたんだ」
「ええ、まあ。それより、昨夜は遅い時間に失礼しました」
電話のことである。
「こちらこそ。最後は愚痴になってしまって、ごめんなさい」
「いいえ。私も店長には頭にきてますから」
山賀さんは立ち止まり、こっそりと囁く。二人とも気持ちは同じだった。
「今日は日曜日だから学校は休みね」
「ええ、夕方まで働きますよ!」
とても張り切っている。頑張りすぎてガス欠にならなければいいが。
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「ええ?」
冷かすように言うので、思わず照れてしまう。
「水樹智哉さん……素敵な男性だなあ。エレベーターの中でも、一条さんを守るみたいに、寄り添ってましたもん」
「そ、そうだった?」
「土屋さんにちょっかいをかけられても、見向きもしませんよ。本当に、一条さんを愛してるって感じで」
「……あはは」
急にどうしたのだろう。
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