恋の記録

藤谷 郁

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妖怪と女

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私は智哉さんの意思を尊重する。堂々と付き合いたいという気持ちも、よく分かる。

だけど、店長の威圧的な態度を思うと、やはり落ち着かない。

店長はいずれ、コンプライアンス違反で処分されるだろう。本町駅店を去るのは間違いないが、それまでは上司として私の近くにいるのだ。

同じ職場ゆえ、会うのは避けられない。今度また、あんな風に圧力をかけられたら……どうすればいい?

すがるように見つめる私を、智哉さんが抱き寄せた。


「心配するな。ハルはいつもどおり仕事すればいい。本部がきっちりと始末をつけてくれる。そのために、勇気を出して告発したんだろ?」

「そ、そうよね。でも……」

「大丈夫だよ」


智哉さんの腕に力がこもる。体が熱い。懸命に私を守ろうとする、必死さが伝わってきた。


「全部、分かってる」

「え……?」


よく聞こえなくて、顔を見た。前髪の垂れた額に汗が光っている。


「僕が危ない人間だって? あの男、面白いことを言うじゃないか」


私は微かに震えた。

好きな男性ひとに守ってもらうのは喜びのはずなのに、なぜか緊張も覚える。

彼のつぶやきには、殺気を感じさせる鋭さがあった。


「古池は、じきにいなくなる。あの女ともどもハルの前から消える」


あの女――土屋さんのことだ。

彼女も店長と同じように処分されると、智哉さんは確信している。


「だから怖がらないで。ゆったりと構えて、僕との生活を楽しめばいい。ようやく一緒に暮らし始めたのだから」

「うん……」


本当にそうだ。私は智哉さんのおかげで、前のアパートでの事件を忘れ、新しい生活に踏み出すことができた。

よく考えると、あの事件に比べたら、店長のパワハラなどどうってことない。攻撃を上手くかわして、彼らがいなくなるのを待つだけではないか。

不思議なくらい、気分が軽くなってきた。


「ありがとう。私、智哉さんとの毎日を楽しむ」

「やっと笑った」


智哉さんも笑う。いつもどおりの穏やかな眼差しが、私の前にあった。


「君は神経質なところがある。僕が傍にいないとダメなんだ」


神経質で怖がり。智哉さんの目に、私はずいぶん頼りない女に映っているようだ。自分ではよく分からないけれど、確かに彼に甘えている。甘やかしてくれる彼に、甘えてしまう。


「それでは早速、二人暮らしを楽しもうか。ハル、一緒に夕飯を作ろう」

「はいっ、智哉さん」


ここは、世界で一番安心できる場所。料理上手な智哉さんの隣で、私は再び実感したのだった。





山賀さんから電話がかかってきたのは、夜遅く。自分の部屋に、パジャマを取りに来た時だった。


「いけない、すっかり忘れてた」


昼間、メールを送ったきりだ。あとで電話するつもりだったのに。

私は慌てて応答した。


「山賀さん、こんばんは。ごめんね、こちらから連絡しようと思ってたの」

『こんばんは。私こそ、昼間は電話に出られなくてすみませんでした』


律義に詫びるところが、彼女らしい。私はほっとしながら、床に腰を下ろした。


『店長と土屋さんのこと、エリアマネージャーに報告したんですよね。どうでしたか?』

「うん、きちんと対処してくれそうよ」


ひととおり話すと、山賀さんは明るい声になった。


『良かった! 聞き取り調査の時、私の証言が必要なら呼んでくださいね。あっ、その前に例の写真を一条さんに送っておきます』


不倫の現場写真だ。口の上手い店長も言い逃れできない、絶対的な証拠である。


「分かった。それと、メールでも伝えたけど、通報したことは誰にも言わないで。本部でも調査するみたいだから」

『了解です』


報告を終えると、私は気になっていることを訊ねた。


「山賀さん。今日、事務所に来なかったよね。何か用事ができたの?」

『ああ、はい。そのことなんですが』


山賀さんは、生き生きとした口調で答えた。


『私、アルバイトを続けることにしました。なので、退職届を出すのはナシにしたんです』

「えっ、そうなの?」


意外な返事を聞き、びっくりする。昨日は『土屋さんと仕事するのは無理』と、あんなにも強く決意を語っていたのに。


「どうして、また。あっ、もちろん私としては、山賀さんが仕事を続けてくれるのは嬉しいんだけど」

『すみません。ちょっと、心境の変化があって。うふふ……』


なぜ含み笑いを?

私はスマートフォンを持ち直し、本気で言っているのかどうか確認した。


「じゃあ、今までと同じように働いてくれるのね」

『いいえ。シフトを増やそうと思ってます。今は週三日ですが、週五日は入りたいですね』

「ええっ」


バイトをやめるどころかシフトを増やす? 状況が変わりすぎて、山賀さんの言うことに理解が追いつかない。

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