恋の記録

藤谷 郁

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妖怪と女

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古池店長の、これまで見たことのない恐ろしい形相。そして威圧的な態度と言葉に、私は驚きすぎて反応できない。

蛇に睨まれた蛙のように身動きがとれず、口もきけない状態になった。

居合わせた社員二人も、固唾をのんで見守っている。いつも穏やかな店長の豹変ぶりを、彼らも理解できないのだ。


「なあんてね。こんな感じで言わなきゃ、引き受けてくれないのかなあ」

「え……」


店長はにこりと笑い、愕然とする私の手に封筒を押し付けた。

体が硬直して、拒否することができない。


「何だもう、店長。ビックリさせないでくださいよお」

「ほんとですよ。心臓に悪いじゃないですか。僕ら、マジでビビっちゃいましたよ」


社員達が安堵した表情で、店長に抗議する。一瞬凍りついた事務所は、店長の「ごめんごめん。冗談ですよ」のひと言で、元の空気に戻った。


「いきなりキャラが変わったら怖いですって。ねえ、副店長もびっくりしましたよね」

「えっ、ええ。ちょっと……」


彼らの手前、笑みを作るけれど、動揺が激しくて顔がひきつりそうだ。

今のは本当に、冗談だったのか。

いや、違う。

本気で脅しをかけたのだ。

私だけが、それを感じ取れた。他の社員と違い、この人の本性を知っているから。

店長は口角を上げるが、目が笑っていない。不気味極まりない妖怪を、私だけが目の当たりにしている。


「私はね、一条さんに期待しているのです。私と一緒に店を盛り上げてください。そんなに堅苦しく考えないで」


社員達は各々の仕事を再開し、もうこちらを見ていない。店長が間を詰めてくる。


「信頼を裏切らないでほしいですねえ。あなたは私の部下なのだから」

「う……」


悔しいけれど、膝が震えた。

妖怪に免疫がなく、攻撃をかわす術も知らない。逃げる他なかった。


「お先に失礼します」


狡猾な眼差しから目を逸らし、事務所を飛び出した。



ゲラの入った封筒を抱え、屈辱感に苛まれながら家路を急ぐ。


「智哉さんっ」


心の拠りどころである男性の名をつぶやき、かろうじて進むことができた。

恐ろしい悪意に追いかけられる、不安な夢を見ているようだった。





「ハル!」


マンションのエントランスに入ろうとした時、背後から呼ばれた。私は反射的にぱっと振り返る。


「お帰り。僕もさっき買い物して、帰って来たところだよ」

「智哉さん……」


柔らかな笑みを見て、泣きそうになった。振り向いたまま動けないでいる私に、彼が早足で近付いてくる。


「どうかしたのか」


むやみに心配させてはいけない。顔を横に振り、ちゃんと目を合わせて答えた。


「違うの……ただ、ちょっと、気分が悪くて」


智哉さんは何も言わず、私の肩を抱いてくれた。そして、どうしても不安を隠しきれない私を労わるように、ゆっくりと歩き出す。

エントランスに入って自動ドアが閉まると、結界が張られたような、心理的な安心感が得られた。

もう大丈夫。私は今、世界中で一番安全な場所にいる。

智哉さんの温もりを感じながら、心からそう思えた。



部屋に入ると智哉さんは私をソファに座らせた。買い物袋を床に放り出し、着替えも後回しにして。


「通報できなかったのか」

「ううん、そうじゃないの」

「なら、どうしてそんな顔してるんだ」


黙っていると余計に心配させてしまう。私は、今日あったことを、すべて話すことにした。

まずは告発の報告。エリアマネージャーとのやり取りを、できるだけ丁寧に説明した。

それから、古池店長について。

プライベートへの干渉、突然の威圧的な態度。智哉さんを侮辱する発言をしたことも、正直に、余すことなく伝えた。

智哉さんは口を挟まず、静かに耳を傾けた。私の仕事や人間関係について、真面目に考えてくれているのだ。


「パワーハラスメントだな。君が思いどおりにならないから、圧力をかけてコントロールするつもりだ」


古池店長の言動をパワハラと断じる智哉さんの瞳に、憎しみが宿るのが分かった。もしかしたら、私より怒っているのではないか。それほどまでに、怖い顔をしている。


「たぶん、土屋さんが店長に話したんです、智哉さんのことを……だから」

「僕の存在が刺激になったというわけか。身の程知らずなやつめ」


智哉さんの言い方は辛らつだが、事実である。

古池店長など、外見も中身も智哉さんの足もとにも及ばない。男性としての魅力に天と地ほどの差がある。まったく勝負にならないのに、パワハラのきっかけが智哉さんへの対抗意識だとすれば、ずいぶんな思い上がりだ。


「でも僕は、こそこそ隠れて付き合うなんてごめんだよ。店長を刺激することになったが、恋人関係を明かしたのは正解だと思ってる」

「う、うん……」
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