恋の記録

藤谷 郁

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妖怪と女

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水を流す音がしたところで、ノックした。


「土屋さん、大丈夫?」


返事の代わりに、トイレットペーパーを使う音がした。もう一度水が流されたあと、土屋さんがドアを開けた。

隙間から見える顔が、尋常でないほど青い。


「……一条さん。何ですか?」

「な、何って。バイトさんが、あなたの具合が悪そうだから心配だって、報告してくれたのよ」


土屋さんは唇を噛み、私を押しのけるようにして個室から出てきた。


「だから、お昼を食べすぎただけですって。大げさなんですよ」


片手でお腹を押さえ、頼りない足取りで洗面台まで歩く。手を洗って口をすすぎ、ハンカチで不器用に拭う。辛いのを我慢していると分かる彼女の横顔に声をかけた。


「お腹が痛いなら、無理をせず休んでください」

「余計なお世話です。副店長だからって、偉そうに指図しないで」


感情的な口調に、私への苛立ちが表れている。だがもう、いちいち相手にしない。


「バイトさんが心配してるの。バックヤードで少し休んで、回復しないようなら早退してください」

「……」


土屋さんは何も答えず、廊下に出てしまった。


「やれやれ」


深追いしても捻じくれるだけだ。子どもじゃあるまいし、体調管理は自分でやってもらおう。



売り場に戻ってしばらくすると、先ほどのバイトさんが「チーフが早退しました」と、告げてきた。

またしても土屋さんの穴埋めでライトノベルの棚を手伝わされるが、これまでとは気分が違う。土屋さんのわがままに付き合うのもあと少しだ。彼女はいずれ、店長ともども処分されて、この店からいなくなる。

そう思うと、さほどイライラしなかった。


「すみません、副店長。山賀さんがいれば、何とかなるんですが」


明日発売の新刊にペーパーを挟む作業を手伝う私に、バイトさんが済まなそうに言う。


(そういえば、山賀さんは退職届を出したのかな)


彼女は今日、店長に話をすると言っていた。もう事務所に来たのだろうか。

気にかかったが、とりあえず今は仕事に集中する。告発の報告もあるし、山賀さんには夜にでも電話しようと思った。



夕方のピークを過ぎると、接客に余裕が出てくる。売り場を他のスタッフに任せて、私はバックヤードに引っ込んだ。

事務所には店長のほか、社員が二人、デスクで仕事をしていた。

それとなく店長を窺うが、変わった様子はない。もし山賀さんが退職届を出したとすれば、そのことを私に話すはずだ。


(山賀さん、どうしたんだろ。用事ができたのかな)


やはり、今連絡してみようか。そう思ったが、あいにく仕事が溜まっている。もうすぐ定時だし、とにかくやるべきことをやってしまおう。

メールをチェックしたり、版元に電話したり、あれこれ片付けるうちに一時間が過ぎた。時計を見れば、既に定時を回っている。パソコンの電源を切り、そろそろ帰ろうとした。


「一条さん、お疲れ様です。今日もすみませんでしたね」


いつの間にか、店長がそばに来ていた。私はビクッとするが、他の社員も事務所にいるのを確かめ、密かにほっとする。


「またライトノベルの補助をさせられましたねえ。土屋さんが腹痛で早退したとか……まったく、あの人は体調管理も出来ないのでしょうか。困ったものです」


確かにそうかもしれないが、あまりにも冷たい言い方だ。不倫相手の体調を、少しは心配したらどうなのと思う。

私はしかし何も答えず、椅子を立った。


「でもまあ、良しとしますか。ライトノベルの棚は、いずれ一条さんが担当するのだから、予行演習ということで」


内緒話みたいに声を潜める店長から、顔を背けた。こんな男と秘密の共有など、冗談じゃない。


「私は、承諾した覚えはありません」

「ははは、そう言わずに」


店長は笑いながら、私の前に分厚い封筒を差し出す。ガッツノベルとプリントされたそれを見て、げんなりした。


「ですから、新作のゲラは読みません。土屋さんか、ラノベ担当のスタッフに渡してください」

「私は一条さんに読んでもらいたいのですよ。お願いします」


本当にしつこい人だ。私はバッグを持つと、店長を無視して事務所を出ようとした。


「副店長!」


鋭い声に打たれ、足がすくんだ。

事務仕事をしていた社員も驚き、パソコンから顔を上げてこちらに注目する。


「あなたは私の部下ですよね。しかも異動してきたばかりの、この店では新人の立場でしょう。上司の命令が聞けないのですか!?」

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