恋の記録

藤谷 郁

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妖怪と女

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「よっ、余計なお世話です。そんなことより……」


ご自身の心配でもなさってください。と、うっかり言いそうになり、慌てて引っ込めた。


「えっ、何ですか?」

「い、いえ、その……」


平常心、平常心。

心の中で繰り返した。ここで感情を爆発させれば、告発が無駄になってしまう。

悔しいけれど、今が我慢のしどころだ。


「別に、何でもありません。休憩時間が終わってしまうので、失礼します」

「ああ、これはどうも。お引き止めして、すみませんでしたね」


私の反応に満足したのだろう。

店長はすっかり余裕を取り戻し、にこやかに笑っている。


(やっぱり、二人の関係は内緒にしておくべきだったよ、智哉さん)


ようやく事務所を脱出した私は、痛む頭を押さえながら、『フローライト』に向かった。



「はあ、疲れた……」


窓際の席に座ると、店員がすぐに注文を取りにきた。今日の『フローライト』は、わりと空いている。

お目当てのランチプレートではなく、簡単に食べられるサンドイッチとカフェオレを頼んだ。店長に絡まれたおかげで、貴重な休憩時間をロスしたからだ。

私はまた、いらいらしてきた。

店長の言うことなすこと腹が立つ。あんなにも強気なのは、これまで誰にもばれずに不倫できたからだ。今後も上手くいくと思っているのだろう。私が次のターゲットだなんて、考えただけでゾッとする。

そして、智哉さんを貶める発言が許せなかった。彼のことを何一つ知らないくせに、勝手なことばかり。

ミックスサンドとカフェオレが運ばれてきた。私は気を取り直して、ランチを始める。


「騙されるってなによ。智哉さんの愛情は本物よ」


最初は夢のように感じていたけれど、今は現実として受け止められる。智哉さんの温もり。優しく髪を撫でる仕草。私を守ろうとする強い意思。

そして彼は、私を家族として考えてくれている。

確かに、あんなにも素敵な人が三十過ぎて独身というのは不思議かもしれない。だけど、誰にだって事情がある。常識の型にはめようとするのは愚かだ。

智哉さんは、私を愛している。

私だから、愛してくれるのだ。

カフェオレを飲みながら、初めての出会いを思い出す。あの時、私が足を滑らせなかったら、智哉さんと知り合うこともなかった。

今となっては、そんな残酷な運命など考えられない。


「レザーソールのおかげだわ」


椅子を後ろに引き、二人の縁を結んだパンプスを見下ろす。

智哉さんが心をこめて磨いてくれた靴は、とても美しく、私の足にフィットしている。


――君と出会って、恋をして、一緒に暮らすことは理想であると同時に、当たり前のことなんだ。


誰が何と言おうと、智哉さんは運命の人。私は信じている。

椅子に座り直し、食事を続けた。カフェオレを飲みきるとカップを置いて、窓の明るい景色を見渡す。

私はいつしか落ち着いた気持ちになり、大切な彼の愛情に満たされていた。



事務所に戻ると、店長は休憩に出たらしく不在だった。私はほっと息をつき、バッグをデスクに仕舞ってから午後の仕事に取りかかる。


「まずは新刊チェックと、棚補充の手伝いと……」

「あのっ、すみません。ちょっといいですか」


売り場を歩きながら段取りを確認する私に、誰かが遠慮がちに声をかけた。振り向くと、ライトノベル担当のバイトさんが立っている。


「どうしました?」

「それが、その……チーフが」


明らかに困った様子を見て、嫌な予感を覚える。そういえば、休憩から戻っているはずの土屋さんが見当たらない。


「どうしたの。まさか、土屋さんがまた早退したとか……」

「いえ、違うんです」


バイトさんは首を横に振る。


「今、土屋さんは倉庫にいます。さっきまで私が返本作業をしていたのですが、交代するからレジに入ってと言われて」


本当は土屋さんが午後イチでレジに入る予定だったらしい。


「何かあったの?」

「それが……」


バイトさんは声を落とし、不安そうに告げた。


「土屋さん、具合が悪いみたいなんです。顔色が真っ青なので大丈夫ですかって訊いたら、お昼を食べすぎちゃったなんて、笑ってましたけど」

「そうなの?」



バイトさんの心配を受け、私が様子を見に行くことになった。

あまり気がすすまないが、誰もいない倉庫で倒れられても困る。


「腹痛かしら。手間のかかる人だなあ」


ブツブツ言いながら倉庫を覗いてみるが、土屋さんの姿はなかった。返本作業を途中で放り出してある。


「トイレかな?」


少し迷ったが、一応声をかけることにする。土屋さんではなく、心配するバイトさんのためだ。


トイレに行くと、個室のドアが一つだけ閉じていた。多分、土屋さんだと思い、ノックしようとしたが……


「ウウッ……ウエエッ……!」


突然うめき声が聞こえて、びっくりする。低く、苦しげな咆哮が続くドアの前で、私は立ち尽くした。


(これって、土屋さんよね。もしかして吐いてるの?)
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