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妖怪と女
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微かに膝が震えている。
ついに私は、古池店長と土屋さんを告発した。
これでもう、後には引けない。何か、とてつもなく大それたことをしたような怖さを感じる。たとえ彼らに非があるとしても、私が告発することで、彼らの今後の人生を変えてしまうのだから。
会社の不正を内部告発する人は、皆、こんな気持ちなのだろうか。すごく勇気のいる行為だと実感する。
でも私は後に引くつもりはない。特に店長は、相応の罰を受けるべきだ。どんな処分が下されても自業自得である。
「そうだ。山賀さんに電話しておこう」
告発したことを他者に漏らさないよう念を押すためだ。山賀さんはしっかり者だから、心配ないと思うが。
個人のスマートフォンに持ち替えて、彼女の番号をタップすると、
「あれっ?」
山賀さんの電話は話し中だった。
仕方ないので、《例の件無事に完了。他言無用でお願いします》と、メールを送る。詳しい話は、あらためて電話すればいい。
「これでよし」
スマートフォンをポケットに仕舞ってから、更衣室を出た。
今日の昼食はビルの六階にあるカフェ『フローライト』でとることにした。お弁当を持って来なかったし、休憩室を利用するであろう土屋さんと顔を合わせたくないから。
事務所にバッグを取りに行くと、古池店長がデスクのパソコンで作業していた。他に誰もおらず、カタカタとキーを打つ音だけがオフィスに響く。
「お疲れ様です。お先に休憩入ります」
「はい、お疲れ様」
いつもどおりの穏やかな口調。智哉さんのことを、まだ土屋さんから聞いていないらしい。もし知っていたら絡んでくるはずだ。
とぼけているのかもしれないが、いずれにしろ店長とは話をしたくない。私はバッグを持ち、さっさと事務所を出ようとした。
「一条さん、昨日はどうでしたか」
突然話しかけられて、ビクッとする。振り向くと、店長がパソコンの脇から顔を覗かせていた。
細い目が狡猾に光るのを見て、ぞっとする。
「どうでしたか」という質問の意味をわかりかね、黙っていると……
「お母さんの具合ですよ。昨日、お母さんが倒れて、入院されたんですよね」
「あ、ええ……はい」
我ながら迂闊だと思った。通常どおり振舞うよう横井さんに忠告されたのに、店長を前にすると、いろんな警戒心が働いて不自然になってしまう。
表情を変えないよう注意しながら、返事をした。
「母は、軽い脳梗塞でした。処置が早かったので後遺症もなく、数日で退院できそうです」
いつだったか、伯母が入院した時の状況を説明に使った。
「それは良かったですねえ。昨日はずいぶん深刻な様子だったので、心配しましたよ」
「ご心配をおかけして、申しわけありません」
よどみなく答える私を、店長が探るように見てくる。
私はもう、一刻も早く外に出たくて仕方なかった。店長への嫌悪感がすごくて、表情を保つのも辛い。
「では、休憩に入りますので、失礼します」
「ちょっと待ってください。今朝ほど、気になる噂を耳にしたのですが」
「……え?」
私の顔が強張るのを店長は見逃さず、にやりと笑った。世にもおぞましい不倫男が、デスクを離れ、ゆっくりと近付いてくる。
気になる噂――智哉さんのことだ。
店長のいやらしい顔つきから、それは明白である。
しかし私は、何を訊かれても絶対に余計なことは喋らないと決めている。土屋さんがどこまで伝えたのか知らないが、詮索はすべてシャットアウトだ。
平常心を保ち、プライバシーに干渉しようとする店長と対峙した。
「お付き合いされている男性がいらっしゃるとか。やはり、ただの『友人』ではなかったんですねえ。しかも、『ドゥマン』の店長さんと聞いてビックリしましたよ」
土屋さんは知り得た情報を、すべて喋ったらしい。本当に下世話な人達だ。
「『ドゥマン』の店長……水樹さんと言いましたっけ。彼と同居してるわけですよね。しかし不思議だなあ。一条さんは転勤して間もないのに、そんな深い関係に持ち込むなんて。一体、どんなご縁で知り合ったんです?」
まるでゴシップ誌のインタビューだ。
私はバッグを強く握りしめ、早く本部が不倫男を処分してくれることを願った。
「個人的なことなので、お答えできません」
自分でも驚くほどの、冷ややかな声が出た。店長はちょっと怯んだ様子だが、めげずに喋り続ける。
「水樹さんかあ。ビルのイベント説明会で、お見かけしたことがあります。すらっと背が高くて、いかにも女性にモテそうな美男子ですよねえ。うーん、大丈夫かなあ」
智哉さんを貶すつもりだろうか。私は、何を言われても無視するために身構える。
しかし……
「悪い男でなければ、いいのですが」
「はい?」
つい反応してしまった。でも今のは聞き捨てならない。
「どういう意味でしょうか」
「いえね、水樹さんほどの男性が、あの歳になるまで独身というのも妙ですし。あと、出会って間もない女性に手を出す速さというか、危ない人のような気がするんですよねえ」
身体中の血が沸騰した。
危ないのはあなたでしょうと、大声で叫びそうになる。
部下と不倫して、邪魔になったら追い払う。悪人の見本みたいな最低男のくせに!
「失礼なことを言わないでください。不愉快ですっ」
「ああ、すみません。悪気はないのですよ。ただ、上司として一条さんが心配なのです。変な男に騙されやしないかと」
「なっ」
騙される?
自分の行いを棚に上げて智哉さんを貶める店長に、カッとなった。
ついに私は、古池店長と土屋さんを告発した。
これでもう、後には引けない。何か、とてつもなく大それたことをしたような怖さを感じる。たとえ彼らに非があるとしても、私が告発することで、彼らの今後の人生を変えてしまうのだから。
会社の不正を内部告発する人は、皆、こんな気持ちなのだろうか。すごく勇気のいる行為だと実感する。
でも私は後に引くつもりはない。特に店長は、相応の罰を受けるべきだ。どんな処分が下されても自業自得である。
「そうだ。山賀さんに電話しておこう」
告発したことを他者に漏らさないよう念を押すためだ。山賀さんはしっかり者だから、心配ないと思うが。
個人のスマートフォンに持ち替えて、彼女の番号をタップすると、
「あれっ?」
山賀さんの電話は話し中だった。
仕方ないので、《例の件無事に完了。他言無用でお願いします》と、メールを送る。詳しい話は、あらためて電話すればいい。
「これでよし」
スマートフォンをポケットに仕舞ってから、更衣室を出た。
今日の昼食はビルの六階にあるカフェ『フローライト』でとることにした。お弁当を持って来なかったし、休憩室を利用するであろう土屋さんと顔を合わせたくないから。
事務所にバッグを取りに行くと、古池店長がデスクのパソコンで作業していた。他に誰もおらず、カタカタとキーを打つ音だけがオフィスに響く。
「お疲れ様です。お先に休憩入ります」
「はい、お疲れ様」
いつもどおりの穏やかな口調。智哉さんのことを、まだ土屋さんから聞いていないらしい。もし知っていたら絡んでくるはずだ。
とぼけているのかもしれないが、いずれにしろ店長とは話をしたくない。私はバッグを持ち、さっさと事務所を出ようとした。
「一条さん、昨日はどうでしたか」
突然話しかけられて、ビクッとする。振り向くと、店長がパソコンの脇から顔を覗かせていた。
細い目が狡猾に光るのを見て、ぞっとする。
「どうでしたか」という質問の意味をわかりかね、黙っていると……
「お母さんの具合ですよ。昨日、お母さんが倒れて、入院されたんですよね」
「あ、ええ……はい」
我ながら迂闊だと思った。通常どおり振舞うよう横井さんに忠告されたのに、店長を前にすると、いろんな警戒心が働いて不自然になってしまう。
表情を変えないよう注意しながら、返事をした。
「母は、軽い脳梗塞でした。処置が早かったので後遺症もなく、数日で退院できそうです」
いつだったか、伯母が入院した時の状況を説明に使った。
「それは良かったですねえ。昨日はずいぶん深刻な様子だったので、心配しましたよ」
「ご心配をおかけして、申しわけありません」
よどみなく答える私を、店長が探るように見てくる。
私はもう、一刻も早く外に出たくて仕方なかった。店長への嫌悪感がすごくて、表情を保つのも辛い。
「では、休憩に入りますので、失礼します」
「ちょっと待ってください。今朝ほど、気になる噂を耳にしたのですが」
「……え?」
私の顔が強張るのを店長は見逃さず、にやりと笑った。世にもおぞましい不倫男が、デスクを離れ、ゆっくりと近付いてくる。
気になる噂――智哉さんのことだ。
店長のいやらしい顔つきから、それは明白である。
しかし私は、何を訊かれても絶対に余計なことは喋らないと決めている。土屋さんがどこまで伝えたのか知らないが、詮索はすべてシャットアウトだ。
平常心を保ち、プライバシーに干渉しようとする店長と対峙した。
「お付き合いされている男性がいらっしゃるとか。やはり、ただの『友人』ではなかったんですねえ。しかも、『ドゥマン』の店長さんと聞いてビックリしましたよ」
土屋さんは知り得た情報を、すべて喋ったらしい。本当に下世話な人達だ。
「『ドゥマン』の店長……水樹さんと言いましたっけ。彼と同居してるわけですよね。しかし不思議だなあ。一条さんは転勤して間もないのに、そんな深い関係に持ち込むなんて。一体、どんなご縁で知り合ったんです?」
まるでゴシップ誌のインタビューだ。
私はバッグを強く握りしめ、早く本部が不倫男を処分してくれることを願った。
「個人的なことなので、お答えできません」
自分でも驚くほどの、冷ややかな声が出た。店長はちょっと怯んだ様子だが、めげずに喋り続ける。
「水樹さんかあ。ビルのイベント説明会で、お見かけしたことがあります。すらっと背が高くて、いかにも女性にモテそうな美男子ですよねえ。うーん、大丈夫かなあ」
智哉さんを貶すつもりだろうか。私は、何を言われても無視するために身構える。
しかし……
「悪い男でなければ、いいのですが」
「はい?」
つい反応してしまった。でも今のは聞き捨てならない。
「どういう意味でしょうか」
「いえね、水樹さんほどの男性が、あの歳になるまで独身というのも妙ですし。あと、出会って間もない女性に手を出す速さというか、危ない人のような気がするんですよねえ」
身体中の血が沸騰した。
危ないのはあなたでしょうと、大声で叫びそうになる。
部下と不倫して、邪魔になったら追い払う。悪人の見本みたいな最低男のくせに!
「失礼なことを言わないでください。不愉快ですっ」
「ああ、すみません。悪気はないのですよ。ただ、上司として一条さんが心配なのです。変な男に騙されやしないかと」
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騙される?
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