恋の記録

藤谷 郁

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妖怪と女

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「お、おはよう。土屋さん」


平静を保とうとするが、どうしても顔が強張ってしまう。

よりによって土屋さんに見つかるなんて。


「あのー。こちらの方は?」


やはり詮索してきた。遠慮がちな口調だが、彼女の全身から好奇心があふれ出ている。

こんな人に智哉さんを紹介したくない。私は焦りながらも、彼女をごまかすための言葉を必死に考えた。


「土屋さん。彼はその……同じビルにお勤めの方です。最近、挨拶するようになったばかりなので、まだ名前も知らなくて……」

「ただの顔見知りってことですか?」

「……そうです」


ビルに勤めていれば、よそのテナントさんと知り合うこともある。しどろもどろだが、何とかごまかせたと思った。


「それはないだろ、ハル。ちゃんと紹介してくれよ」

「えっ!?」


驚きのあまり声を上げた。

土屋さんも大きな目を見開き、智哉さんを見上げている。


「えっ……と。あの、何を言って……」


予想外の発言に対応できず、私はうろたえた。一体どういうつもりなのか理解しかねる。

というか、彼は今ハルと呼んだ。私達の関係を知られたらまずいと、さっき話したばかりなのに。

しかし智哉さんは冷静そのもの。おろおろする私に構わず、土屋さんに向かって自己紹介した。


「初めまして。私は靴専門店『ドゥマン』の店長で、水樹智哉と申します。一条さんとは縁あって、交際しております」

「なっ……」


何ということを。

一番知られたくない相手に、あっさりと情報を漏らした彼を、信じられない思いで見つめた。


「そうなんですかあ。『ドゥマン』って、六階の靴屋さんですよね。うわあ、びっくりです。副店長も隅に置けないなあ。こんなに素敵な彼氏さんがいたなんて、ちっとも知りませんでしたよお」


土屋さんは驚いてみせるが、「やっぱりね」という口振りだ。


「そうならそうと、正直に言ってくださいよ。ていうか、ついこのあいだ転勤してきたばかりなのに、彼氏ができるの早くないですか?」


皮肉も忘れずに添える。

しかし智哉さんは気にも留めず、丁寧な仕草で名刺を彼女に渡した。


「あっ、どうもすみません。私は一条さんの同僚で土屋真帆と申しますう。以後、お見知りおきを」


土屋さんも名刺を取り出し、自己紹介した。媚びた声に聞こえるのは気のせいだろうか。


(まさか本当に、智哉さんにちょっかいをかけるつもり?)


山賀さんの忠告が現実になろうとしている。

そんなことはさせない。私は智哉さんの腕を取り、しなを作る彼女から引き離した。


「智哉さん、早く行きましょう。遅刻するわ」

「ああ、そうだな」


土屋さんの媚びに気付かないのか、落ち着いた返事だ。

私と智哉さんが歩き出すと、土屋さんも付いてくる。隙あらば割って入ろうとする気配を感じて、イライラした。

どうして智哉さんは、私達の関係を彼女に教えてしまったのか。私がせっかく、ごまかそうとしたのに。

密かにため息をつく。

きっと、何か考えがあってのことだ。だけどやっぱり、土屋さんには内緒にしてほしかった。



智哉さんが六階でエレベーターを降りると、土屋さんの表情が変わった。智哉さんへの媚びが消え去り、私に対する負の感情が表れている。


「忙しそうなわりに、男を作る暇はあるんですね」


横を向いたまま、彼女が低い声でつぶやく。

私はカッとなるが、厳然と無視した。

今日の任務を忘れてはいけない。心を乱されることなく、やるべきことをやり通す。これまで何度も自分に言い聞かせてきた。

土屋さんが強気でいられるのも、あと少し。本部の対応が速ければ、数日で処分が下るだろう。

冬月書店のフロアにエレベーターが着くと、土屋さんはさっさと降りて歩いて行く。私は慌てず、床をしっかりと踏みしめて彼女の背中を追った。

副店長としての責任。そして、磨き抜かれたレザーパンプスが私を支えていた。




昼休憩に入る少し前の時間に、私は誰もいない更衣室で、エリアマネージャーの横井よこいさんに電話した。

横井さんは店長経験のあるベテランの女性社員だ。パワハラやセクハラなど従業員のトラブルに詳しく、自身も現場の責任者として、何度か対処したことがあると言う。

私の話す内容をよく理解してくれた。


『分かりました。早速、私から本部に報告します。まず一条さんに聞き取りを行い、書類を作成する段取りになると思うので、少しお待ちくださいね。準備が整いしだい連絡を入れます。あと、この件を報告したことは、当事者はもちろん誰にも口外しないように、お願いします』

「承知いたしました」


口止めするのは、証拠隠滅や口裏合わせを防ぐためだ。


『それから、古池店長の前の不倫相手については、こちらでも調査いたします。人事部も問題にするでしょうね。とにかく一条さんは、通常どおり振舞ってください』

「はい。どうぞよろしくお願いします」


横井さんはきびきびと対応してくれた。

私は壁にもたれると、通話を切ったスマートフォンを胸に抱き、ほうっと息をついた。
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