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幸せの部屋
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思わぬ問いかけだった。店長と個人的な話をするだなんて、そんなことあるわけがない。私は、即座に否定しようとするが――
「あ……」
ふと、思い出した。あれは苦情の紙をもらった時だ。父親が大家だという店長に、アパートの隣人について相談したことがある。
「ハル?」
智哉さんから目を逸らし、唇を噛む。
――家族、女友達、あるいは職場の上司。頼る相手は他にもいるだろうに、君はまっ先に僕に相談してくれた。とても嬉しいよ。
私は苦情の件について、他の誰にも相談していない。まっ先に智哉さんを頼ったことにしてある。なぜなら、彼がそれを強く望んでいたから、本当のことを言えなかったのだ。
「深く考えなくていい。参考にしたいだけだ」
「ええ。でも……」
「ハル、僕を見るんだ」
そっと顔を戻すと、智哉さんは優しく見守っていた。私は罪悪感を持った。
「ごめんなさい。実は、店長のお父さんがアパートの経営者だと聞いて、相談したことがあるの。例の、苦情の紙について」
智哉さんは頷き、私の言葉を待つ。
「隣人トラブルの解決法とか、アドバイスをもらえると思って。だから、つい話してしまった。あの頃はまだ、店長がまともな人に見えたから……ごめんなさい」
「ハル、謝らなくていい。君は間違っていない」
智哉さんが私の手を取り、指を絡めた。とても温かで、力強い手のひらが私を包み込む。
「君が隣人のことで悩み、最初に頼ろうとしたのは僕だ。わかってるから、何も言わなくていいし、負い目を感じることもない。君が僕を裏切ることは決してないと、よくわかっている」
どうしてこんなに優しいのだろう。私は、彼に惹かれるのがなぜか、理解できた気がする。まるごと包むように愛してくれるからだ。
いつどんな時も、私を大切にしてくれる。深い愛情が心を捉えていた。
智哉さんは手を繋いだまま、グラスを呷った。私は胸の高ぶりを感じながら、冷たいジン・トニックが彼の喉を潤すのを見つめた。
「古池店長は、君に相談されたことで自信を得たのだろう。女性の部下に頼られて勘違いする……ありがちなことだ」
グラスを置き、智哉さんは遠くに目をやる。何かを決意した横顔だった。
私は黙って、彼の肩にもたれた。
タクシーで帰宅した後、智哉さんは私に、早目に寝るようにと促した。忙しい一日を過ごした私を気遣ってくれるのだ。
「おやすみ、ハル」
智哉さんはベッドに腰掛けて、眠ろうとする私の髪を撫でる。
「智哉さんは?」
甘えた声を出す私に彼は微笑み、
「僕はもう少し起きてる。でもすぐに戻るよ」
「うん」
一つ屋根の下で暮らす幸せを噛みしめる。いや、一つベッドの中というべきか。変な意味ではなく、毎日好きな人と温もりを分かち合えるのは純粋に嬉しい。
智哉さんは私のにやけ顔を可笑しそうに見下ろすが、ふと真顔になった。
「店長の件は、なるべく早く報告したほうがいい。専門の窓口はある?」
「ええと……本部に窓口があるけど、まずはエリアマネージャーに連絡します。私が直接言うより、通報後の対応がスムーズになるので」
「それがいい。ただ、店長に悟られないよう、いつも通りに振る舞うんだよ。ああいった人間は、勘が鋭い上に逃げ足が速い。気付かれて、先手を打たれては台無しになるからね」
智哉さんは憎々しげに言う。古池店長は彼にとって、もはや敵なのだ。
「わかった。でも、店長も土屋さんも逃げられないと思う。確たる証拠があるし」
山賀さんが撮影した不倫現場の写真だ。そして、彼女が保存する土屋さんとのメールも不倫を暴く有力な証拠になる。
「そうだったな。山賀さんか……彼女はいつバイトを辞めるんだ?」
「明日、退職届を出すと言ってました」
「そうか。せっかく真面目に働いてきた人が、残念なことだ」
「ええ。私も、本当は辞めないでほしいんだけど」
「彼女自身が決めたことではあるが……」
智哉さんは顎に手をあて考えていたが、「お喋りしてたら眠れないな」と笑い、立ち上がった。
「そうだ。僕もハルと同じ時間に起きるから、アラームをセットしてくれないか」
「あ、そうですよね」
起床時間が同じなら、二台鳴らす必要はない。
サイドテールに置いたスマートフォンを取り上げ、指紋認証でロック解除する。アラームの時刻を確かめてから、セットした。
「ありがとう」
屈み込む智哉さんに、軽くキスされる。私は再び、一緒に暮らす幸せを感じた。
「それじゃ、おやすみ」
「おやすみなさい」
智哉さんがライトを消して寝室を出て行くと、私は間もなく眠りに誘われる。
彼のアドバイスどおりに行動すれば大丈夫。
大きな安堵感が、私を包んでいた。
「あ……」
ふと、思い出した。あれは苦情の紙をもらった時だ。父親が大家だという店長に、アパートの隣人について相談したことがある。
「ハル?」
智哉さんから目を逸らし、唇を噛む。
――家族、女友達、あるいは職場の上司。頼る相手は他にもいるだろうに、君はまっ先に僕に相談してくれた。とても嬉しいよ。
私は苦情の件について、他の誰にも相談していない。まっ先に智哉さんを頼ったことにしてある。なぜなら、彼がそれを強く望んでいたから、本当のことを言えなかったのだ。
「深く考えなくていい。参考にしたいだけだ」
「ええ。でも……」
「ハル、僕を見るんだ」
そっと顔を戻すと、智哉さんは優しく見守っていた。私は罪悪感を持った。
「ごめんなさい。実は、店長のお父さんがアパートの経営者だと聞いて、相談したことがあるの。例の、苦情の紙について」
智哉さんは頷き、私の言葉を待つ。
「隣人トラブルの解決法とか、アドバイスをもらえると思って。だから、つい話してしまった。あの頃はまだ、店長がまともな人に見えたから……ごめんなさい」
「ハル、謝らなくていい。君は間違っていない」
智哉さんが私の手を取り、指を絡めた。とても温かで、力強い手のひらが私を包み込む。
「君が隣人のことで悩み、最初に頼ろうとしたのは僕だ。わかってるから、何も言わなくていいし、負い目を感じることもない。君が僕を裏切ることは決してないと、よくわかっている」
どうしてこんなに優しいのだろう。私は、彼に惹かれるのがなぜか、理解できた気がする。まるごと包むように愛してくれるからだ。
いつどんな時も、私を大切にしてくれる。深い愛情が心を捉えていた。
智哉さんは手を繋いだまま、グラスを呷った。私は胸の高ぶりを感じながら、冷たいジン・トニックが彼の喉を潤すのを見つめた。
「古池店長は、君に相談されたことで自信を得たのだろう。女性の部下に頼られて勘違いする……ありがちなことだ」
グラスを置き、智哉さんは遠くに目をやる。何かを決意した横顔だった。
私は黙って、彼の肩にもたれた。
タクシーで帰宅した後、智哉さんは私に、早目に寝るようにと促した。忙しい一日を過ごした私を気遣ってくれるのだ。
「おやすみ、ハル」
智哉さんはベッドに腰掛けて、眠ろうとする私の髪を撫でる。
「智哉さんは?」
甘えた声を出す私に彼は微笑み、
「僕はもう少し起きてる。でもすぐに戻るよ」
「うん」
一つ屋根の下で暮らす幸せを噛みしめる。いや、一つベッドの中というべきか。変な意味ではなく、毎日好きな人と温もりを分かち合えるのは純粋に嬉しい。
智哉さんは私のにやけ顔を可笑しそうに見下ろすが、ふと真顔になった。
「店長の件は、なるべく早く報告したほうがいい。専門の窓口はある?」
「ええと……本部に窓口があるけど、まずはエリアマネージャーに連絡します。私が直接言うより、通報後の対応がスムーズになるので」
「それがいい。ただ、店長に悟られないよう、いつも通りに振る舞うんだよ。ああいった人間は、勘が鋭い上に逃げ足が速い。気付かれて、先手を打たれては台無しになるからね」
智哉さんは憎々しげに言う。古池店長は彼にとって、もはや敵なのだ。
「わかった。でも、店長も土屋さんも逃げられないと思う。確たる証拠があるし」
山賀さんが撮影した不倫現場の写真だ。そして、彼女が保存する土屋さんとのメールも不倫を暴く有力な証拠になる。
「そうだったな。山賀さんか……彼女はいつバイトを辞めるんだ?」
「明日、退職届を出すと言ってました」
「そうか。せっかく真面目に働いてきた人が、残念なことだ」
「ええ。私も、本当は辞めないでほしいんだけど」
「彼女自身が決めたことではあるが……」
智哉さんは顎に手をあて考えていたが、「お喋りしてたら眠れないな」と笑い、立ち上がった。
「そうだ。僕もハルと同じ時間に起きるから、アラームをセットしてくれないか」
「あ、そうですよね」
起床時間が同じなら、二台鳴らす必要はない。
サイドテールに置いたスマートフォンを取り上げ、指紋認証でロック解除する。アラームの時刻を確かめてから、セットした。
「ありがとう」
屈み込む智哉さんに、軽くキスされる。私は再び、一緒に暮らす幸せを感じた。
「それじゃ、おやすみ」
「おやすみなさい」
智哉さんがライトを消して寝室を出て行くと、私は間もなく眠りに誘われる。
彼のアドバイスどおりに行動すれば大丈夫。
大きな安堵感が、私を包んでいた。
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