恋の記録

藤谷 郁

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幸せの部屋

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「よくわかったよ、山賀さん。これまで、頑張って耐えてきたのね」


私が労うと、山賀さんは泣いた。でも泣き続けることはなく、ハンカチで涙を拭い、まっすぐに顔を上げる。


「一条さん、気を付けてください」

「えっ?」

「古池店長の次のターゲットは、一条さんです」


きっぱりと言い切られて、私は驚く。なぜ、そんなことが彼女に分かるのか。


「私?」

「はい」


静けさが二人を包む。夕暮れの部屋に、時計の音が際立って聞こえた。


「つまり……店長が、私を不倫の標的にしてるってこと? どうして、そう思うの?」

「土屋さんが言ってました。一条さんが異動してくると知った時、店長が嬉しそうな顔をしたって。店長は仕事のできる、しっかりした女性がタイプなんです。だから、浮気するかもしれないと」


要するに、女の勘である。

土屋さんが最初から私を敵視し、何かと張り合ってきた理由がこれではっきりした。やはり私は、望まぬ三角関係に巻き込まれていたのだ。

不愉快極まりない。まったくもって、迷惑千万な話だ。


「あ……あの、もしかして一条さん。店長の本性に、気付いてましたか?」


私の表情から、山賀さんはいろいろ読み取ったようだ。 


「ええ。確信は持てなかったけど、なんとなくね。最近やたらと距離が近いし、プライベートに干渉してくるし。土屋さんのことも……あっ」


店長は配置転換という名目で土屋さんを追い出すつもりだと、言いそうになった。異動はまだ決定事項ではなく、店長にも口止めされている。


「土屋さんのことって、店長が何か言ってるんですか」 

「う……」


人事に関する情報は、一部の人間のみが知り得る社内秘だ。でも、私はずっともやもやしている。店長のやり方は、とうてい認められない。不倫相手が邪魔になったから追い出すなんて。

黙って見過ごせば、それこそコンプライアンス違反の片棒を担ぐことになる。


(これから、どうするべきか)


山賀さんは私を信用して、あの二人について相談してくれた。バイトを辞める決意までして。


(考えるまでもない)


私は迷いを振り切った。副店長としての責務を果たすべきだ。山賀さんの勇気に報いるためにも。

何もかも本部に報告しよう。


「これから話すことを、誰にも漏らさないと約束してほしいの」

「は、はいっ」


山賀さんは姿勢を正し、神妙な態度で私の話を聞いた。そして、だんだんと怒りの形相になる。


「あの人、もう一条さんにアプローチしてるんですか? ベタベタ触るなんてセクハラもいいとこですよ、気持ち悪い。それに、土屋さんを転勤させるって……前の不倫相手と同じじゃないですか。そんなことを土屋さんが聞いたら、ただではすみません」

「そうよね。でも、かつて土屋さんも店長の不倫相手を追いやったのだから、強くは出られないでしょう。いずれにしろ、その辺りは本部が聞き取りして、処分を下すわ。土屋さんがどれだけ怒ろうと、関係なく」

「まあ、確かに。でも、大丈夫かな……」

「何が?」

「厳しい処分が下ったら、あの二人、一条さんを逆恨みするんじゃ……仕返しされないか心配です」


山賀さんらしい心遣いに、私は微笑んだ。


「私は平気。こう見えて、案外図太いのよ」

「ず、図太い?」

「ええ。特に、仕事に関してはね。それより、喋りすぎて喉が渇いちゃった」

「えっ?」 


ぽかんとする彼女の前から、空のカップを取り上げる。


「もう一杯どう?」

「あ、はい。いただきます」



コーヒーを淹れ直してテーブルに運ぶと、山賀さんはほっとした様子になり、美味しそうに飲んだ。

私も、心が落ち着いてくる。図太いと言ったのは、半分は虚勢だ。強かな二人を相手取って本部に訴えるのは、正直、覚悟が要る。


「でも、良かったですね」

「ん?」


山賀さんは、部屋をぐるりと見回してから、


「大変な状況だけど、支えてくれる男性ひとがいて」

「あ、ああ……」


話の流れで、智哉さんという恋人の存在を知られてしまった。いたずらっぽく笑う山賀さんに、素直に返事をする。


「そうね。独りじゃないって思えるわ。彼がいてくれて良かった」


私のことを懸命に守ろうとしてくれる。智哉さんがいるから、嫌なことばかりでも前に進めるのだ。


「そうだ、一条さん。恋人がいるってこと、店長もですが、土屋さんには絶対に知られないよう、注意してくださいね」

「もちろん。あえて話すつもりもないし、『友人』で押し通すつもりよ」

「ぜひ、そうしてください。さっきも言いましたけど、土屋さんは人のものを欲しがる性質ですから。彼氏さんに、ちょっかいをかけるかもしれません」

「ええっ?」


土屋さんが、私から智哉さんを奪うってこと? 

一応、その可能性を考えてみるが――いや、あり得ない。智哉さんはたぶん、土屋さんみたいなタイプは苦手だと思う。


「わかった。うっかり話さないように気を付けるわ」

「私も口を滑らせないよう、気を付けます」


そんなに用心しなくても大丈夫だと思うが、大真面目な山賀さんに何も言えなかった。


「明日、店長に退職届を出します。理由は、勉強に専念したいからとか言って。一条さんに相談したことも、店長と土屋さんには内緒にしておきます」 


どこか寂しそうに見えた。全部は理解できなくても、山賀さんにとって土屋さんは仕事仲間であり、友達だったのだ。複雑な気持ちだろう。


「でも、不倫の件を本部に報告する時は、私が証言しますので、連絡をください。二人の関係を示す具体的な証拠もありますので」

「具体的な証拠?」
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