71 / 236
幸せの部屋
11
しおりを挟む
「よくわかったよ、山賀さん。これまで、頑張って耐えてきたのね」
私が労うと、山賀さんは泣いた。でも泣き続けることはなく、ハンカチで涙を拭い、まっすぐに顔を上げる。
「一条さん、気を付けてください」
「えっ?」
「古池店長の次のターゲットは、一条さんです」
きっぱりと言い切られて、私は驚く。なぜ、そんなことが彼女に分かるのか。
「私?」
「はい」
静けさが二人を包む。夕暮れの部屋に、時計の音が際立って聞こえた。
「つまり……店長が、私を不倫の標的にしてるってこと? どうして、そう思うの?」
「土屋さんが言ってました。一条さんが異動してくると知った時、店長が嬉しそうな顔をしたって。店長は仕事のできる、しっかりした女性がタイプなんです。だから、浮気するかもしれないと」
要するに、女の勘である。
土屋さんが最初から私を敵視し、何かと張り合ってきた理由がこれではっきりした。やはり私は、望まぬ三角関係に巻き込まれていたのだ。
不愉快極まりない。まったくもって、迷惑千万な話だ。
「あ……あの、もしかして一条さん。店長の本性に、気付いてましたか?」
私の表情から、山賀さんはいろいろ読み取ったようだ。
「ええ。確信は持てなかったけど、なんとなくね。最近やたらと距離が近いし、プライベートに干渉してくるし。土屋さんのことも……あっ」
店長は配置転換という名目で土屋さんを追い出すつもりだと、言いそうになった。異動はまだ決定事項ではなく、店長にも口止めされている。
「土屋さんのことって、店長が何か言ってるんですか」
「う……」
人事に関する情報は、一部の人間のみが知り得る社内秘だ。でも、私はずっともやもやしている。店長のやり方は、とうてい認められない。不倫相手が邪魔になったから追い出すなんて。
黙って見過ごせば、それこそコンプライアンス違反の片棒を担ぐことになる。
(これから、どうするべきか)
山賀さんは私を信用して、あの二人について相談してくれた。バイトを辞める決意までして。
(考えるまでもない)
私は迷いを振り切った。副店長としての責務を果たすべきだ。山賀さんの勇気に報いるためにも。
何もかも本部に報告しよう。
「これから話すことを、誰にも漏らさないと約束してほしいの」
「は、はいっ」
山賀さんは姿勢を正し、神妙な態度で私の話を聞いた。そして、だんだんと怒りの形相になる。
「あの人、もう一条さんにアプローチしてるんですか? ベタベタ触るなんてセクハラもいいとこですよ、気持ち悪い。それに、土屋さんを転勤させるって……前の不倫相手と同じじゃないですか。そんなことを土屋さんが聞いたら、ただではすみません」
「そうよね。でも、かつて土屋さんも店長の不倫相手を追いやったのだから、強くは出られないでしょう。いずれにしろ、その辺りは本部が聞き取りして、処分を下すわ。土屋さんがどれだけ怒ろうと、関係なく」
「まあ、確かに。でも、大丈夫かな……」
「何が?」
「厳しい処分が下ったら、あの二人、一条さんを逆恨みするんじゃ……仕返しされないか心配です」
山賀さんらしい心遣いに、私は微笑んだ。
「私は平気。こう見えて、案外図太いのよ」
「ず、図太い?」
「ええ。特に、仕事に関してはね。それより、喋りすぎて喉が渇いちゃった」
「えっ?」
ぽかんとする彼女の前から、空のカップを取り上げる。
「もう一杯どう?」
「あ、はい。いただきます」
コーヒーを淹れ直してテーブルに運ぶと、山賀さんはほっとした様子になり、美味しそうに飲んだ。
私も、心が落ち着いてくる。図太いと言ったのは、半分は虚勢だ。強かな二人を相手取って本部に訴えるのは、正直、覚悟が要る。
「でも、良かったですね」
「ん?」
山賀さんは、部屋をぐるりと見回してから、
「大変な状況だけど、支えてくれる男性がいて」
「あ、ああ……」
話の流れで、智哉さんという恋人の存在を知られてしまった。いたずらっぽく笑う山賀さんに、素直に返事をする。
「そうね。独りじゃないって思えるわ。彼がいてくれて良かった」
私のことを懸命に守ろうとしてくれる。智哉さんがいるから、嫌なことばかりでも前に進めるのだ。
「そうだ、一条さん。恋人がいるってこと、店長もですが、土屋さんには絶対に知られないよう、注意してくださいね」
「もちろん。あえて話すつもりもないし、『友人』で押し通すつもりよ」
「ぜひ、そうしてください。さっきも言いましたけど、土屋さんは人のものを欲しがる性質ですから。彼氏さんに、ちょっかいをかけるかもしれません」
「ええっ?」
土屋さんが、私から智哉さんを奪うってこと?
一応、その可能性を考えてみるが――いや、あり得ない。智哉さんはたぶん、土屋さんみたいなタイプは苦手だと思う。
「わかった。うっかり話さないように気を付けるわ」
「私も口を滑らせないよう、気を付けます」
そんなに用心しなくても大丈夫だと思うが、大真面目な山賀さんに何も言えなかった。
「明日、店長に退職届を出します。理由は、勉強に専念したいからとか言って。一条さんに相談したことも、店長と土屋さんには内緒にしておきます」
どこか寂しそうに見えた。全部は理解できなくても、山賀さんにとって土屋さんは仕事仲間であり、友達だったのだ。複雑な気持ちだろう。
「でも、不倫の件を本部に報告する時は、私が証言しますので、連絡をください。二人の関係を示す具体的な証拠もありますので」
「具体的な証拠?」
私が労うと、山賀さんは泣いた。でも泣き続けることはなく、ハンカチで涙を拭い、まっすぐに顔を上げる。
「一条さん、気を付けてください」
「えっ?」
「古池店長の次のターゲットは、一条さんです」
きっぱりと言い切られて、私は驚く。なぜ、そんなことが彼女に分かるのか。
「私?」
「はい」
静けさが二人を包む。夕暮れの部屋に、時計の音が際立って聞こえた。
「つまり……店長が、私を不倫の標的にしてるってこと? どうして、そう思うの?」
「土屋さんが言ってました。一条さんが異動してくると知った時、店長が嬉しそうな顔をしたって。店長は仕事のできる、しっかりした女性がタイプなんです。だから、浮気するかもしれないと」
要するに、女の勘である。
土屋さんが最初から私を敵視し、何かと張り合ってきた理由がこれではっきりした。やはり私は、望まぬ三角関係に巻き込まれていたのだ。
不愉快極まりない。まったくもって、迷惑千万な話だ。
「あ……あの、もしかして一条さん。店長の本性に、気付いてましたか?」
私の表情から、山賀さんはいろいろ読み取ったようだ。
「ええ。確信は持てなかったけど、なんとなくね。最近やたらと距離が近いし、プライベートに干渉してくるし。土屋さんのことも……あっ」
店長は配置転換という名目で土屋さんを追い出すつもりだと、言いそうになった。異動はまだ決定事項ではなく、店長にも口止めされている。
「土屋さんのことって、店長が何か言ってるんですか」
「う……」
人事に関する情報は、一部の人間のみが知り得る社内秘だ。でも、私はずっともやもやしている。店長のやり方は、とうてい認められない。不倫相手が邪魔になったから追い出すなんて。
黙って見過ごせば、それこそコンプライアンス違反の片棒を担ぐことになる。
(これから、どうするべきか)
山賀さんは私を信用して、あの二人について相談してくれた。バイトを辞める決意までして。
(考えるまでもない)
私は迷いを振り切った。副店長としての責務を果たすべきだ。山賀さんの勇気に報いるためにも。
何もかも本部に報告しよう。
「これから話すことを、誰にも漏らさないと約束してほしいの」
「は、はいっ」
山賀さんは姿勢を正し、神妙な態度で私の話を聞いた。そして、だんだんと怒りの形相になる。
「あの人、もう一条さんにアプローチしてるんですか? ベタベタ触るなんてセクハラもいいとこですよ、気持ち悪い。それに、土屋さんを転勤させるって……前の不倫相手と同じじゃないですか。そんなことを土屋さんが聞いたら、ただではすみません」
「そうよね。でも、かつて土屋さんも店長の不倫相手を追いやったのだから、強くは出られないでしょう。いずれにしろ、その辺りは本部が聞き取りして、処分を下すわ。土屋さんがどれだけ怒ろうと、関係なく」
「まあ、確かに。でも、大丈夫かな……」
「何が?」
「厳しい処分が下ったら、あの二人、一条さんを逆恨みするんじゃ……仕返しされないか心配です」
山賀さんらしい心遣いに、私は微笑んだ。
「私は平気。こう見えて、案外図太いのよ」
「ず、図太い?」
「ええ。特に、仕事に関してはね。それより、喋りすぎて喉が渇いちゃった」
「えっ?」
ぽかんとする彼女の前から、空のカップを取り上げる。
「もう一杯どう?」
「あ、はい。いただきます」
コーヒーを淹れ直してテーブルに運ぶと、山賀さんはほっとした様子になり、美味しそうに飲んだ。
私も、心が落ち着いてくる。図太いと言ったのは、半分は虚勢だ。強かな二人を相手取って本部に訴えるのは、正直、覚悟が要る。
「でも、良かったですね」
「ん?」
山賀さんは、部屋をぐるりと見回してから、
「大変な状況だけど、支えてくれる男性がいて」
「あ、ああ……」
話の流れで、智哉さんという恋人の存在を知られてしまった。いたずらっぽく笑う山賀さんに、素直に返事をする。
「そうね。独りじゃないって思えるわ。彼がいてくれて良かった」
私のことを懸命に守ろうとしてくれる。智哉さんがいるから、嫌なことばかりでも前に進めるのだ。
「そうだ、一条さん。恋人がいるってこと、店長もですが、土屋さんには絶対に知られないよう、注意してくださいね」
「もちろん。あえて話すつもりもないし、『友人』で押し通すつもりよ」
「ぜひ、そうしてください。さっきも言いましたけど、土屋さんは人のものを欲しがる性質ですから。彼氏さんに、ちょっかいをかけるかもしれません」
「ええっ?」
土屋さんが、私から智哉さんを奪うってこと?
一応、その可能性を考えてみるが――いや、あり得ない。智哉さんはたぶん、土屋さんみたいなタイプは苦手だと思う。
「わかった。うっかり話さないように気を付けるわ」
「私も口を滑らせないよう、気を付けます」
そんなに用心しなくても大丈夫だと思うが、大真面目な山賀さんに何も言えなかった。
「明日、店長に退職届を出します。理由は、勉強に専念したいからとか言って。一条さんに相談したことも、店長と土屋さんには内緒にしておきます」
どこか寂しそうに見えた。全部は理解できなくても、山賀さんにとって土屋さんは仕事仲間であり、友達だったのだ。複雑な気持ちだろう。
「でも、不倫の件を本部に報告する時は、私が証言しますので、連絡をください。二人の関係を示す具体的な証拠もありますので」
「具体的な証拠?」
0
お気に入りに追加
131
あなたにおすすめの小説
カフェ・シュガーパインの事件簿
山いい奈
ミステリー
大阪長居の住宅街に佇むカフェ・シュガーパイン。
個性豊かな兄姉弟が営むこのカフェには穏やかな時間が流れる。
だが兄姉弟それぞれの持ち前の好奇心やちょっとした特殊能力が、巻き込まれる事件を解決に導くのだった。
かれん
青木ぬかり
ミステリー
「これ……いったい何が目的なの?」
18歳の女の子が大学の危機に立ち向かう物語です。
※とても長いため、本編とは別に前半のあらすじ「忙しい人のためのかれん」を公開してますので、ぜひ。
探偵注文所
八雲 銀次郎
ミステリー
ここは、都内某所にある、ビルの地下二階。
この階に来るには、エレベーターでは来ることはできず、階段で降りる他ない。
ほとんどのスペースはシャッターが閉まり、テナント募集の紙が貼られていた。
しかし、その一角にまだ日の高いうちから、煌々とネオンの看板が光っている場所が存在する。
『ホームズ』看板にはそう書かれていた。
これだけだと、バーなのかスナックなのか、はたまた喫茶店なのかわからない。
もしかしたら、探偵事務所かも…
扉を開けるそのときまで、真実は閉ざされ続ける。
次話公開時間:毎週水・金曜日朝9:00
本職都合のため、急遽予定が変更されたり、休載する場合もあります。
同時期連載中の『レトロな事件簿』と世界観を共有しています。
仮題「難解な推理小説」
葉羽
ミステリー
主人公の神藤葉羽は、鋭い推理力を持つ高校2年生。日常の出来事に対して飽き飽きし、常に何か新しい刺激を求めています。特に推理小説が好きで、複雑な謎解きを楽しみながら、現実世界でも人々の行動を予測し、楽しむことを得意としています。
クラスメートの望月彩由美は、葉羽とは対照的に明るく、恋愛漫画が好きな女の子。葉羽の推理力に感心しつつも、彼の少し変わった一面を心配しています。
ある日、葉羽はいつものように推理を楽しんでいる最中、クラスメートの行動を正確に予測し、彩由美を驚かせます。しかし、葉羽は内心では、この退屈な日常に飽き飽きしており、何か刺激的な出来事が起こることを期待しています。
ここは猫町3番地の1 ~雑木林の骨~
菱沼あゆ
ミステリー
「雨宮……。
俺は静かに本を読みたいんだっ。
此処は職場かっ?
なんで、来るたび、お前の推理を聞かされるっ?」
監察医と黙ってれば美人な店主の謎解きカフェ。
伏線回収の夏
影山姫子
ミステリー
ある年の夏。俺は15年ぶりにT県N市にある古い屋敷を訪れた。某大学の芸術学部でクラスメイトだった岡滝利奈の招きだった。かつての同級生の不審死。消えた犯人。屋敷のアトリエにナイフで刻まれた無数のXの傷。利奈はそのなぞを、ミステリー作家であるこの俺に推理してほしいというのだ。俺、利奈、桐山優也、十文字省吾、新山亜沙美、須藤真利亜の六人は、大学時代にこの屋敷で共に芸術の創作に打ち込んだ仲間だった。グループの中に犯人はいるのか? 脳裏によみがえる青春時代の熱気、裏切り、そして別れ。懐かしくも苦い思い出をたどりながら事件の真相に近づく俺に、衝撃のラストが待ち受けていた。
《あなたはすべての伏線を回収することができますか?》
サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる