68 / 236
幸せの部屋
8
しおりを挟む
メゾン城田の前に、数人の人影があった。東松さんと、こちらに手を振るのは水野刑事だ。紺のユニフォームを着た男性も二人いる。
私は駆け足で彼らに近付いた。
「すみません、お待たせしました」
「いやいや、我々も今来たところですよ」
水野さんの言葉にほっとして、皆に挨拶する。ユニフォーム姿の男性は鑑識係だと紹介された。
「東松さん。先ほどは、お電話をありがとうございました」
「こちらこそ、仕事中に失礼しました」
ちょっと無愛想に返されるが、彼が私のことを『茶飲み友達』と表現したのを思い出し、つい微笑んでしまった。
早速作業に取り掛かるとのことで、部屋に上がってもらう。
鑑識係がベランダで指紋を採取する間、刑事二人に椅子をすすめて、鳥宮さんについて話をした。
「でもまさか、鳥宮さんがベランダに侵入していたなんてことは……」
調査の結果を見なければ分からないと彼らは言うが、鳥宮さんのストーカー行為を考えれば、じゅうぶんあり得る話だろう。
苦情の紙をポストに入れたり、私の部屋を覗こうとしたり、鳥宮という人間は不気味この上ない。今思えば、アパートに引っ越した日、ドアを開けてすぐに閉める音が気になったが、あれは鳥宮さんだったのだ。
彼は既に死んでいるが、ますます早く、このアパートを出たくなった。
「あ、ちょっと失礼」
水野さんの電話が鳴った。彼が外に出たので、東松さんと二人きりになる。
しばし沈黙が漂うが、どうしてか、まったく気まずさを感じない。つい昨日まで彼の強面が怖かったのに、親しみすら湧くのが不思議だった。
そういえば、今日はくたびれたジャンパーを着ていない。
「もうジャンパーは、いりませんね」
「……?」
不意を突かれたように、きょとんとする。
なんでそんな反応?
私は噴き出しそうになるが、こらえた。彼は大真面目である。
「今日はよく晴れて、暑いくらい。このまま夏になっちゃいそうですね」
「あ……ああ、確かに。今日は暖かいので脱いできたんです」
「ふふっ……こうして見ると、スーツもお似合いですよ」
「はあ、どうも」
東松さんは素朴な人だ。飾らない人柄というのか、とても話しやすい。
年はいくつだろう。智哉さんと同じくらいだろうか。ときめきとか、異性に対する意識とは別の意味で好感が持てる。
東松さんは、少し困ったように目をそらし、窓のほうを向いた。じっと見すぎたかなと、私は慌てるが……
「そういえば、洗濯物が干してないですね」
「……えっ?」
唐突な質問に、今度は私がきょとんとする。
いや、天気の話題が出た流れなので唐突ではないが、自然と頬が熱くなる自分の過剰反応に戸惑ってしまった。
「いや、よけいな干渉でした。すみません」
「いいえ、そんなこと……えっと、実は私……」
刑事さんには、言っても良いだろう。
「私、昨夜から知人の家に泊まってるんです」
東松さんは、まぶしいものでも見たように瞬きした。
「ああ、そうだったんですか……」
「近々、アパートを退去します。新しい物件を探すつもりでしたが、知人が同居してもいいと言ってくれるので、頼ることにしました。今日は仕事を早めに上がって、引越しの準備に取り掛かろうと思ってたんです」
「なるほど」
ただ、入居したばかりなのに大家さんに悪い気がする。私がそれを言うと、東松さんは励ましてくれた。
「今回、嫌な思いをされましたが、一条さんに落ち度はない。運が悪かっただけです。早く引越して、すっぱり忘れてください」
「……東松さん」
なんだか、泣きそうになった。
こんなにも優しい人を、見た目で判断し、コワモテコワモテと悪態をついた自分をバカだと思う。
「幸せを祈ってますよ」
「えっ?」
「嫌な思いをしたぶん、幸せになれるといいですねってことです」
「あ、はい。ふふっ……ありがとうございます」
本当に良い人。
私は、ストーカーされていたという衝撃や怖さを忘れ、朗らかに笑うことができた。
鑑識係の二人は作業を終えると、刑事より先にアパートを出た。水野さんと東松さんも、忙しげに後に続く。
私は彼らを玄関先まで見送った。
「それでは一条さん、我々も失礼いたします。このたびは捜査にご協力をありがとうございました」
「こちらこそ、いろいろと調べてくださり助かりました。気になっていたことがはっきりして、良かったです」
苦情の紙など、アパートを退去するのだから、もはやどうでもいいと思っていた。けれど、やはり真実を知ることができて良かった。警察の丁寧な仕事に感謝しつつ、二人に礼を言う。
そして、心を明るくさせてくれた東松さんを見上げた。
「引越し先は本町です。またどこかで、お会いするかもしれませんね」
「ええ」
「書店にいらっしゃることがあれば、声をかけてください」
「はい」
ずいぶんと、ぶっきらぼうな返事だ。でも、この人らしくて安心する。
「じゃあ東松くん、行こうか」
水野さんと一緒にエレベーターに歩き出した東松さんが、何かを思い出したように立ち止まり、こちらを振り返る。
そして、のしのしと戻ってきた。
「東松さん?」
「これ、あげます」
内ポケットからビニールケースを取り出し、私に差し出す。
「何ですか?」
あっと思った。
これは、うさぎ柄の絆創膏。昨夜、膝をすりむいた私に東松さんがくれたのと、同じである。
「コワモテには似合わないだろ?」
薬局の試供品だと言いわけしていた。なるほど、確かに東松さんには、可愛すぎる絵柄だ。
でも、どうして急に? わからないけれど、これも一つの思いやりであり、メッセージかもしれない。
早く傷を治せよ――と。
「うふふっ……ありがとうございます」
私が笑うと、彼も微笑んだ。
「さよなら、一条さん。お元気で」
「東松さんも」
彼は今度こそ立ち去った。
不思議な人。
大きな背中を見ながら、私はなぜか、またすぐに会える気がしていた。
私は駆け足で彼らに近付いた。
「すみません、お待たせしました」
「いやいや、我々も今来たところですよ」
水野さんの言葉にほっとして、皆に挨拶する。ユニフォーム姿の男性は鑑識係だと紹介された。
「東松さん。先ほどは、お電話をありがとうございました」
「こちらこそ、仕事中に失礼しました」
ちょっと無愛想に返されるが、彼が私のことを『茶飲み友達』と表現したのを思い出し、つい微笑んでしまった。
早速作業に取り掛かるとのことで、部屋に上がってもらう。
鑑識係がベランダで指紋を採取する間、刑事二人に椅子をすすめて、鳥宮さんについて話をした。
「でもまさか、鳥宮さんがベランダに侵入していたなんてことは……」
調査の結果を見なければ分からないと彼らは言うが、鳥宮さんのストーカー行為を考えれば、じゅうぶんあり得る話だろう。
苦情の紙をポストに入れたり、私の部屋を覗こうとしたり、鳥宮という人間は不気味この上ない。今思えば、アパートに引っ越した日、ドアを開けてすぐに閉める音が気になったが、あれは鳥宮さんだったのだ。
彼は既に死んでいるが、ますます早く、このアパートを出たくなった。
「あ、ちょっと失礼」
水野さんの電話が鳴った。彼が外に出たので、東松さんと二人きりになる。
しばし沈黙が漂うが、どうしてか、まったく気まずさを感じない。つい昨日まで彼の強面が怖かったのに、親しみすら湧くのが不思議だった。
そういえば、今日はくたびれたジャンパーを着ていない。
「もうジャンパーは、いりませんね」
「……?」
不意を突かれたように、きょとんとする。
なんでそんな反応?
私は噴き出しそうになるが、こらえた。彼は大真面目である。
「今日はよく晴れて、暑いくらい。このまま夏になっちゃいそうですね」
「あ……ああ、確かに。今日は暖かいので脱いできたんです」
「ふふっ……こうして見ると、スーツもお似合いですよ」
「はあ、どうも」
東松さんは素朴な人だ。飾らない人柄というのか、とても話しやすい。
年はいくつだろう。智哉さんと同じくらいだろうか。ときめきとか、異性に対する意識とは別の意味で好感が持てる。
東松さんは、少し困ったように目をそらし、窓のほうを向いた。じっと見すぎたかなと、私は慌てるが……
「そういえば、洗濯物が干してないですね」
「……えっ?」
唐突な質問に、今度は私がきょとんとする。
いや、天気の話題が出た流れなので唐突ではないが、自然と頬が熱くなる自分の過剰反応に戸惑ってしまった。
「いや、よけいな干渉でした。すみません」
「いいえ、そんなこと……えっと、実は私……」
刑事さんには、言っても良いだろう。
「私、昨夜から知人の家に泊まってるんです」
東松さんは、まぶしいものでも見たように瞬きした。
「ああ、そうだったんですか……」
「近々、アパートを退去します。新しい物件を探すつもりでしたが、知人が同居してもいいと言ってくれるので、頼ることにしました。今日は仕事を早めに上がって、引越しの準備に取り掛かろうと思ってたんです」
「なるほど」
ただ、入居したばかりなのに大家さんに悪い気がする。私がそれを言うと、東松さんは励ましてくれた。
「今回、嫌な思いをされましたが、一条さんに落ち度はない。運が悪かっただけです。早く引越して、すっぱり忘れてください」
「……東松さん」
なんだか、泣きそうになった。
こんなにも優しい人を、見た目で判断し、コワモテコワモテと悪態をついた自分をバカだと思う。
「幸せを祈ってますよ」
「えっ?」
「嫌な思いをしたぶん、幸せになれるといいですねってことです」
「あ、はい。ふふっ……ありがとうございます」
本当に良い人。
私は、ストーカーされていたという衝撃や怖さを忘れ、朗らかに笑うことができた。
鑑識係の二人は作業を終えると、刑事より先にアパートを出た。水野さんと東松さんも、忙しげに後に続く。
私は彼らを玄関先まで見送った。
「それでは一条さん、我々も失礼いたします。このたびは捜査にご協力をありがとうございました」
「こちらこそ、いろいろと調べてくださり助かりました。気になっていたことがはっきりして、良かったです」
苦情の紙など、アパートを退去するのだから、もはやどうでもいいと思っていた。けれど、やはり真実を知ることができて良かった。警察の丁寧な仕事に感謝しつつ、二人に礼を言う。
そして、心を明るくさせてくれた東松さんを見上げた。
「引越し先は本町です。またどこかで、お会いするかもしれませんね」
「ええ」
「書店にいらっしゃることがあれば、声をかけてください」
「はい」
ずいぶんと、ぶっきらぼうな返事だ。でも、この人らしくて安心する。
「じゃあ東松くん、行こうか」
水野さんと一緒にエレベーターに歩き出した東松さんが、何かを思い出したように立ち止まり、こちらを振り返る。
そして、のしのしと戻ってきた。
「東松さん?」
「これ、あげます」
内ポケットからビニールケースを取り出し、私に差し出す。
「何ですか?」
あっと思った。
これは、うさぎ柄の絆創膏。昨夜、膝をすりむいた私に東松さんがくれたのと、同じである。
「コワモテには似合わないだろ?」
薬局の試供品だと言いわけしていた。なるほど、確かに東松さんには、可愛すぎる絵柄だ。
でも、どうして急に? わからないけれど、これも一つの思いやりであり、メッセージかもしれない。
早く傷を治せよ――と。
「うふふっ……ありがとうございます」
私が笑うと、彼も微笑んだ。
「さよなら、一条さん。お元気で」
「東松さんも」
彼は今度こそ立ち去った。
不思議な人。
大きな背中を見ながら、私はなぜか、またすぐに会える気がしていた。
0
お気に入りに追加
131
あなたにおすすめの小説
【取り下げ予定】愛されない妃ですので。
ごろごろみかん。
恋愛
王妃になんて、望んでなったわけではない。
国王夫妻のリュシアンとミレーゼの関係は冷えきっていた。
「僕はきみを愛していない」
はっきりそう告げた彼は、ミレーゼ以外の女性を抱き、愛を囁いた。
『お飾り王妃』の名を戴くミレーゼだが、ある日彼女は側妃たちの諍いに巻き込まれ、命を落としてしまう。
(ああ、私の人生ってなんだったんだろう──?)
そう思って人生に終止符を打ったミレーゼだったが、気がつくと結婚前に戻っていた。
しかも、別の人間になっている?
なぜか見知らぬ伯爵令嬢になってしまったミレーゼだが、彼女は決意する。新たな人生、今度はリュシアンに関わることなく、平凡で優しい幸せを掴もう、と。
*年齢制限を18→15に変更しました。
消された過去と消えた宝石
志波 連
ミステリー
大富豪斎藤雅也のコレクション、ピンクダイヤモンドのペンダント『女神の涙』が消えた。
刑事伊藤大吉と藤田建造は、現場検証を行うが手掛かりは出てこなかった。
後妻の小夜子は、心臓病により車椅子生活となった当主をよく支え、二人の仲は良い。
宝石コレクションの隠し場所は使用人たちも知らず、知っているのは当主と妻の小夜子だけ。
しかし夫の体を慮った妻は、この一年一度も外出をしていない事は確認できている。
しかも事件当日の朝、日課だったコレクションの確認を行った雅也によって、宝石はあったと証言されている。
最後の確認から盗難までの間に人の出入りは無く、使用人たちも徹底的に調べられたが何も出てこない。
消えた宝石はどこに?
手掛かりを掴めないまま街を彷徨っていた伊藤刑事は、偶然立ち寄った画廊で衝撃的な事実を発見し、斬新な仮説を立てる。
他サイトにも掲載しています。
R15は保険です。
表紙は写真ACの作品を使用しています。
PetrichoR
鏡 みら
ミステリー
雨が降るたびに、きっとまた思い出す
君の好きなぺトリコール
▼あらすじ▼
しがない会社員の吉本弥一は彼女である花木奏美との幸せな生活を送っていたがプロポーズ当日
奏美は書き置きを置いて失踪してしまう
弥一は事態を受け入れられず探偵を雇い彼女を探すが……
3人の視点により繰り広げられる
恋愛サスペンス群像劇
【完結】もう無理して私に笑いかけなくてもいいですよ?
冬馬亮
恋愛
公爵令嬢のエリーゼは、遅れて出席した夜会で、婚約者のオズワルドがエリーゼへの不満を口にするのを偶然耳にする。
オズワルドを愛していたエリーゼはひどくショックを受けるが、悩んだ末に婚約解消を決意する。だが、喜んで受け入れると思っていたオズワルドが、なぜか婚約解消を拒否。関係の再構築を提案する。その後、プレゼント攻撃や突撃訪問の日々が始まるが、オズワルドは別の令嬢をそばに置くようになり・・・
「彼女は友人の妹で、なんとも思ってない。オレが好きなのはエリーゼだ」
「私みたいな女に無理して笑いかけるのも限界だって夜会で愚痴をこぼしてたじゃないですか。よかったですね、これでもう、無理して私に笑いかけなくてよくなりましたよ」
✖✖✖Sケープゴート
itti(イッチ)
ミステリー
病気を患っていた母が亡くなり、初めて出会った母の弟から手紙を見せられた祐二。
亡くなる前に弟に向けて書かれた手紙には、意味不明な言葉が。祐二の知らない母の秘密とは。
過去の出来事がひとつづつ解き明かされ、祐二は母の生まれた場所に引き寄せられる。
母の過去と、お地蔵さまにまつわる謎を祐二は解き明かせるのでしょうか。
サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる