恋の記録

藤谷 郁

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幸せの部屋

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メゾン城田の前に、数人の人影があった。東松さんと、こちらに手を振るのは水野刑事だ。紺のユニフォームを着た男性も二人いる。

私は駆け足で彼らに近付いた。


「すみません、お待たせしました」

「いやいや、我々も今来たところですよ」


水野さんの言葉にほっとして、皆に挨拶する。ユニフォーム姿の男性は鑑識係だと紹介された。


「東松さん。先ほどは、お電話をありがとうございました」

「こちらこそ、仕事中に失礼しました」


ちょっと無愛想に返されるが、彼が私のことを『茶飲み友達』と表現したのを思い出し、つい微笑んでしまった。


早速作業に取り掛かるとのことで、部屋に上がってもらう。

鑑識係がベランダで指紋を採取する間、刑事二人に椅子をすすめて、鳥宮さんについて話をした。


「でもまさか、鳥宮さんがベランダに侵入していたなんてことは……」


調査の結果を見なければ分からないと彼らは言うが、鳥宮さんのストーカー行為を考えれば、じゅうぶんあり得る話だろう。

苦情の紙をポストに入れたり、私の部屋を覗こうとしたり、鳥宮という人間は不気味この上ない。今思えば、アパートに引っ越した日、ドアを開けてすぐに閉める音が気になったが、あれは鳥宮さんだったのだ。

彼は既に死んでいるが、ますます早く、このアパートを出たくなった。



「あ、ちょっと失礼」 


水野さんの電話が鳴った。彼が外に出たので、東松さんと二人きりになる。

しばし沈黙が漂うが、どうしてか、まったく気まずさを感じない。つい昨日まで彼の強面が怖かったのに、親しみすら湧くのが不思議だった。 

そういえば、今日はくたびれたジャンパーを着ていない。 


「もうジャンパーは、いりませんね」

「……?」


不意を突かれたように、きょとんとする。

なんでそんな反応?

私は噴き出しそうになるが、こらえた。彼は大真面目である。


「今日はよく晴れて、暑いくらい。このまま夏になっちゃいそうですね」

「あ……ああ、確かに。今日は暖かいので脱いできたんです」

「ふふっ……こうして見ると、スーツもお似合いですよ」

「はあ、どうも」


東松さんは素朴な人だ。飾らない人柄というのか、とても話しやすい。

年はいくつだろう。智哉さんと同じくらいだろうか。ときめきとか、異性に対する意識とは別の意味で好感が持てる。

東松さんは、少し困ったように目をそらし、窓のほうを向いた。じっと見すぎたかなと、私は慌てるが…… 


「そういえば、洗濯物が干してないですね」

「……えっ?」


唐突な質問に、今度は私がきょとんとする。

いや、天気の話題が出た流れなので唐突ではないが、自然と頬が熱くなる自分の過剰反応に戸惑ってしまった。


「いや、よけいな干渉でした。すみません」

「いいえ、そんなこと……えっと、実は私……」


刑事さんには、言っても良いだろう。


「私、昨夜から知人の家に泊まってるんです」


東松さんは、まぶしいものでも見たように瞬きした。


「ああ、そうだったんですか……」

「近々、アパートを退去します。新しい物件を探すつもりでしたが、知人が同居してもいいと言ってくれるので、頼ることにしました。今日は仕事を早めに上がって、引越しの準備に取り掛かろうと思ってたんです」

「なるほど」


ただ、入居したばかりなのに大家さんに悪い気がする。私がそれを言うと、東松さんは励ましてくれた。


「今回、嫌な思いをされましたが、一条さんに落ち度はない。運が悪かっただけです。早く引越して、すっぱり忘れてください」

「……東松さん」


なんだか、泣きそうになった。

こんなにも優しい人を、見た目で判断し、コワモテコワモテと悪態をついた自分をバカだと思う。


「幸せを祈ってますよ」

「えっ?」

「嫌な思いをしたぶん、幸せになれるといいですねってことです」

「あ、はい。ふふっ……ありがとうございます」


本当に良い人。

私は、ストーカーされていたという衝撃や怖さを忘れ、朗らかに笑うことができた。 



鑑識係の二人は作業を終えると、刑事より先にアパートを出た。水野さんと東松さんも、忙しげに後に続く。

私は彼らを玄関先まで見送った。


「それでは一条さん、我々も失礼いたします。このたびは捜査にご協力をありがとうございました」

「こちらこそ、いろいろと調べてくださり助かりました。気になっていたことがはっきりして、良かったです」


苦情の紙など、アパートを退去するのだから、もはやどうでもいいと思っていた。けれど、やはり真実を知ることができて良かった。警察の丁寧な仕事に感謝しつつ、二人に礼を言う。

そして、心を明るくさせてくれた東松さんを見上げた。


「引越し先は本町です。またどこかで、お会いするかもしれませんね」

「ええ」

「書店にいらっしゃることがあれば、声をかけてください」

「はい」


ずいぶんと、ぶっきらぼうな返事だ。でも、この人らしくて安心する。


「じゃあ東松くん、行こうか」


水野さんと一緒にエレベーターに歩き出した東松さんが、何かを思い出したように立ち止まり、こちらを振り返る。

そして、のしのしと戻ってきた。


「東松さん?」

「これ、あげます」


内ポケットからビニールケースを取り出し、私に差し出す。


「何ですか?」


あっと思った。

これは、うさぎ柄の絆創膏。昨夜、膝をすりむいた私に東松さんがくれたのと、同じである。


「コワモテには似合わないだろ?」


薬局の試供品だと言いわけしていた。なるほど、確かに東松さんには、可愛すぎる絵柄だ。

でも、どうして急に? わからないけれど、これも一つの思いやりであり、メッセージかもしれない。

早く傷を治せよ――と。


「うふふっ……ありがとうございます」


私が笑うと、彼も微笑んだ。


「さよなら、一条さん。お元気で」

「東松さんも」


彼は今度こそ立ち去った。

不思議な人。

大きな背中を見ながら、私はなぜか、またすぐに会える気がしていた。
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