恋の記録

藤谷 郁

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幸せの部屋

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「一条さん、交代します。小休止してください」


午後二時を過ぎた頃、出勤してきたバイトさんがレジを代わってくれた。いつもは三時に休憩するのだが、スタッフの数により時間はまちまちだ。

今日はあまり忙しくない。店内のムードは、比較的のんびりしている。


(そうだ、早めに上がらせてもらおうかな。アパートを退去する手続きとか、荷物の整理とか、余裕のある時にやってしまいたい)


それに、店長と土屋さんのことでもやもやしたせいか、精神的に疲れてしまった。一旦、気持ちをリセットする必要がある。

副店長という立場ゆえ気軽に早退するわけにいかないが、今日は特別だ。店長が何と言おうと、帰らせてもらおう。

店長は今、事務所にいるはず。小休止のスペースは倉庫の一角にあるが、その前に事務所に立ち寄ることにした。



ドアを開けると、店長は電話中だった。私が入室したのに気付くと驚いた顔になり、なぜか保留ボタンを押した。


「あ、あれっ、一条さん……もう、小休止ですか?」

「ええ……」


店長の様子がおかしい。私は、もしやと思った。


「私に、電話ですか?」

「……」


どういうわけか店長は、あきらめたように頷く。内線ボタンを押して、私のデスクに電話を繋いだ。


「お友達からですよ」

「えっ?」


智哉さんかと思いドキッとするが、店長は思わぬ名前を告げた。


東松とうまつさんという方です」

「あ……」


緑署のコワモテ刑事さんだ。


「例の、一条さんが身を寄せているという、お友達ですか?」 

「はっ? いっ、いいえ……違います」 


東松さんは警察ではなく、友達と名乗ったらしい。戸惑う私を、店長が探るような目で見てくる。


「ふーん、そうですか。この男、あなたのことを茶飲み友達とか言ってますけど」

「茶飲み友達?」 


一体、どうしてそんなことを。よくわからないが、コワモテさんらしいというか、こんな状況なのに噴き出しそうになった。


「ずいぶんと声の太い男ですねえ。本当に、お友達なんですか?」 

「ええ、大丈夫です」 


私は立ったまま受話器を取った。

店長に背を向けるが、聞き耳を立てているのがわかる。東松さんが警察の人だとばれたら、あれこれ詮索されるだろう。

話をする前に事務所を出なければと、焦った。


「もしもし、お電話代わりました。一条です」

『あ、こんにちは。ワタシ、東松です』


東松刑事の、少し緊張した声が聞こえた。


『お忙しいところ、すみません』

「いえ、構いません。ちょうど小休止の時間なので」


静かな事務所に私の声だけが響く。店長が物音を立てないようにして、会話を聞いているのだ。


『昨日は捜査にご協力をありがとうございました。実はですね……』

「あのっ、東松さん」


用件を切り出そうとする東松さんを制止した。


『はい?』

「場所を移動します。携帯から折り返しますので、少し待っててもらえますか」


声を潜める私の頼みを、彼は何も言わず承諾してくれた。



電話を切ると、私は急いで事務所を出て更衣室に移動した。店長がもし追いかけてきても、更衣室にまで入ってくることはできない。

息を整えてからポケットのスマートフォンを取り出し、電源を入れた。

仕事中は、管理職用に支給された携帯電話を使っているため、個人の端末は電源を切っていることが多い。

ようやく起動して電波が届くやいなや、東松さんの携帯電話に折り返した。


「失礼しました。更衣室に移動したので、もう大丈夫ですよ」

『事務所にはまだ、店長さんが?』


私の言い方から、東松さんは事情を察したらしい。さすが、警察官である。


「はい、ちょっと……あの人には聞かれたくなくて。お友達と言ってくださり、助かりました」


目の前に東松さんがいるかのように、お辞儀をした。スマートフォンを握りしめる手に汗が滲んでいる。


「もしかして、昨夜お渡しした苦情の紙についてですか?」

『ええ、実は……』


警察が電話をかけてくる用件といえば、それぐらいだ。しかし、東松さんがもたらした報告は、それだけではなかった。


『507号室のポストに苦情を入れたのは、鳥宮優一朗です。そして、彼がベランダから身を乗り出し、一条さんの部屋を覗こうとしていたとの目撃情報がありました』


話を聞き終えた私は、絶句した。

鳥宮優一朗という男に、知らぬ間にストーカー行為を受けていたという事実に背筋が凍りつく。


『もしもし、一条さん。大丈夫ですか』

「あ、はい。すみません。さすがに、びっくりして……」


動揺する私に、東松さんは一呼吸置いてから要望を告げた。

鳥宮優一朗の転落当時の行動理由を探るため、507号室のベランダを調べたい。それには私の同意が必要であると。

拒否する理由などない。むしろ私のほうこそ、はっきりさせたかった。


「わかりました。残りの仕事を片付けてからなので、アパートに着くのは一時間ほど後になりますが」


前向きな私に東松さんは少し驚くけれど、『それでは、お待ちしています』と、きびきびと返事をくれた。

私は電話を切って事務所に戻り、店長に早退を申し出た。店長は電話の内容を細かく聞きたがったが、「母が倒れて入院しました」と、思い付いた理由を押し通し、残りの仕事を片付けにかかる。

店長と土屋さんに関するもやもやなど、吹き飛んでいた。
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