恋の記録

藤谷 郁

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幸せの部屋

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彼らの関係に違和感を覚えつつ、私はふと、山賀さんの言葉を思い出した。


「あの、店長。一つお聞きしたいのですが」

「何でしょう」


店長は引き出しからエプロンを出して、身に着けながら応える。土屋さんの話題はもう、ほとんど関心がないといった様子だ。


「土屋さんが仕事を放り出して帰るなんてこと、今までに何度もあったのですか?」

「……いいえ。おそらく、初めてでしょうね」


やっぱり、と思った。

私は土屋さんとの付き合いは短いが、彼女が負けん気の強い人であるのは、ライバル視されたので、よく知っている。

彼女は、ライバルと戦わずして逃げるキャラではないはずだ。


「バイトさんから聞いたのですが、土屋さんは最近、プライベートで悩んでいたそうです。仕事の不調など、いろいろ重なって、精神的に不安定な状態なのかも知れません」

「 それがどうかしましたか?」

「……えっ」


こちらを向いて、にこりと笑う。いつも売り場で見る、店長の営業用スマイルだ。


「誰にだって悩みはあります。それを仕事に持ち込んで、どうしますか」

「そ、それは……」

「一条さんだって、アパートの住人から苦情をもらって、悩んでたでしょ? でも仕事に影響しないよう、感情をコントロールした。それが社会人の、あるべき姿じゃないですか」

「は、はあ」


正論に次ぐ正論。私はもう、わけがわからなかった。

土屋さんを何とかしてほしいのに、店長は彼女を見捨てようとしている。いや、既に見捨てている。


「店長は、どうするおつもりですか。土屋さんを」

「そんなの決まっています。配置換えですよ」

「配置換え?」


店長はデスクの上に置いた鞄の中から、封筒を取り出した。どこかの出版社の封筒だ。

彼は中身を確認しながら、私に告げた。


「土屋さんには、現場を離れてもらいます」

「ええっ」


売り場のチーフを解くということだ。まさか、そこまで考えているとは。だけど、あの土屋さんが納得するだろうか。


「ということは、サービスカウンターに配置換えですか」

「いいえ。ネット販売のスタッフとして、本部に推薦するつもりです」

「なっ……」


ネットサービス部門は、冬月書店の本部内にある。つまり転勤だ。


「この店から追い出すのですか?」

「人聞きが悪いなあ。本部に推薦ですよ。栄転じゃないですか」

「いやいや、そう言う問題ではなく。第一、彼女は現場主義です。承知しませんよ」

「それならそれで、仕方ありません。会社の辞令に従えないのなら、退職ですね」


残念そうな顔をするが、それも一瞬だった。

やはり店長は、土屋さんを見捨てたのだ。この人は部下の面倒見が良いと評判だが、それは部下に問題がなければの話。

思い通りにならない部下は、無用とばかりに切り捨てる。勝手な上司である。


「まあ、そんなわけですので。土屋さんが抜けたあと、ライトノベルのチーフは一条さんに兼任していただくので、お願いしますよ」

「は?」


こともなげに、とんでもないことを言った。私を土屋さんの後釜に据えると?


「ちょっと待ってください。そんなことを彼女が知れば、どう思うか」

「大丈夫です。一条さんが心配することは何もありません。それより、お願いしたいことが」


店長は、私に封筒を差し出した。


「ガッツノベルの営業さんから、新作のゲラを預かっています。土屋さんは、やる気がないようなので、一条さんが読んでくれますか」

「……ライトノベルの担当は土屋さんです」


受け取れるわけがない。もし受け取れば、仕事の横取りだ。

店長は笑みを浮かべたまま、封筒を引っ込めた。


「まあ、いいでしょう。配置換えは、本部の返事がきてからなので。それまでは土屋さんにも、他のスタッフにも秘密にしておいてください」

「もちろんです」


本部に転勤と知れば、土屋さんがブチキレる。フェアの準備どころではなくなり、通常業務にも支障が出るだろう。

廊下から足音が聞こえてきた。早番のスタッフが出勤する時間だ。


「ところで、今朝はずいぶん早い出勤でしたね。何かあったのですか?」


社員やバイトさんが、次々に入室してくる。彼らに挨拶しながら、店長が一歩近付いてきた。


「別に、何でもありません」

「ふうん。そういえば、駅の方向ではなく、通りから歩いて来られましたねえ」

「どうして、それを……」


口元だけの笑みが、ホラー映画の殺人鬼を連想させる。

さっきまで事務所に二人きりだったことに今さら気付き、ぞっとした。


「ひょっとして、彼氏の家に泊まったとか。だから、そんなにお洒落して……」

「店長」


鋭い声が出て、自分でもびっくりする。だけど、この人を強く拒絶したかった。


「事情があって、友人の家に身を寄せています。プライベートなので、これ以上の詮索はおやめください」

「せ、詮索って、私はそんなつもりでは……しかし、友人というのは?」

「失礼します」


個人の情報を、あれこれ聞き出そうとする。それが詮索なのよ!

心で悪態をつき、急いで事務所を出る。更衣室に入るとほっとして、智哉さんを頭に思い浮かべた。

次から次へと問題が起きる。一体、私が何をしたというの。

智哉さんだけが希望の光だと思った。
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