恋の記録

藤谷 郁

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幸せの部屋

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「後片付けは僕がやるから、ハルは出勤の準備をしなよ。案内する」

「えっ?」


智哉さんは、食器を流しに運ぼうとする私の手を取り、廊下に連れ出した。

彼は寝室の隣にある部屋のドアを開けて、


「ここがハルの個室だ。自由に使ってくれ」

「個室?」


六帖ほどの広さの、クロゼット付きの部屋だ。

家具は置いていない。東の窓から朝陽が差し込み、きれいに磨かれた床を照らしている。私のために、彼が用意してくれたのだとわかった。


「私が一部屋使ってしまって、いいんですか?」

「もちろん。もともと余ってる部屋だし、遠慮はいらない。それに、一緒に住むといってもプライバシーは必要だろ?」


感激のあまり、言葉を失う。

この人は本気で、私との同棲を考えてくれていた。自分の生活スペースを割いてまで、まるごと受け入れてくれる。


「ありがとう、智哉さん。何から何まで……」

「礼なんていいから。君はとにかく一日も早く、あの忌まわしいアパートを退去してくれ。もう二度と不安な思いをさせたくない」


真剣な表情。メゾン城田での出来事に関して、私以上にナーバスになっている。


「はい。今日にでも大家さんと管理会社に連絡して、解約の手続きをします」

「引越し会社も、早めに手配するべきだな。日取りが決まったら僕も手伝うから、急いで荷造りしよう」

「え、ええ」


やはり智哉さんは心配性だ。私を怖がりで、頼りない女性として見ている。

守ってくれるのは嬉しいけれど、前のめりの姿勢に、少し気圧されてしまう。


「わかりました。とりあえず、出勤の準備をしますね。寝室から荷物を取ってきます」

「うん。僕はリビングにいるから、支度ができたら呼んでくれ」



私は旅行バッグを部屋に運び、洋服を取り出してクロゼットに吊るした。


「忌まわしいアパートか……まあ、そうだよね」


メゾン城田は、いまや事故物件だ。しかも、私の部屋は亡くなった鳥宮さんの隣室。

そして、苦情の紙をポストに入れたのは、その鳥宮さんかもしれない。

智哉さんが心配するのも当然だ。私は彼の恋人なのだから。


「いけない。ぼーっとしてる場合じゃないわ」


駅ビルまで徒歩十分とはいえ、のんびりしていたら遅刻してしまう。

クロゼットに吊るした洋服から、空色のワンピースを選んだ。いつもはカジュアルなパンツスタイルだけど、今日はなぜかスカートの気分。

智哉さんに、女らしい姿を見てほしい。そんな乙女心が、服装の選択に影響しているのだ。

着替え終わると、クロゼットの鏡を使ってメイクした。時間を気にしながらも、丁寧に施す。

カーディガンを羽織り、バッグを持って廊下に出た。


「智哉さん、仕事に行ってきます」


リビングに顔を出す私を見て、彼は目をぱちくりとさせた。


「ずいぶん、お洒落してるな」

「う、うん」


からかい口調だが、視線は熱っぽい。私は恥ずかしい気持ちになり、もじもじした。


「僕はコンビニに行きたいから、途中まで送るよ。おいで」


私の心情を察したのか、彼は何もコメントせず、ただ優しく肩を抱いた。




マンションを出て、通りをまっすぐ歩いて行けば駅ビルに着く。本町のメインストリートは、朝から人も車も賑やかだった。


「バスがたくさん出てるし、駅も近い。買い物に困ることもないし、便利な場所に自宅を購入されましたね」


感心する私に、智哉さんは首を横に振った。


「僕の部屋は分譲賃貸だよ。二年前に転勤が決まって物件を探してた頃、ちょうど募集をかけてたから、借りることにしたんだ」

「えっ、そうだったんですか」


知らなかった。それに、二年前に転勤というのも初耳である。彼も私と同じく、異動でこの街に越してきたのだ。


「仕事柄、転勤が多いからね。家や土地を買うのは、なかなか難しい」

「あ、わかります。うちの社員も異動があるから、持ち家の人はほとんどいません」

「そうか。冬月書店も全国に店舗があるよな」


彼と並んで歩きながら、私は、知りたいと思っていたことを訊いてみる。


「智哉さんの実家はどこですか? 私の実家は所沢なんですが、大学進学と同時に家を出て以来ずっと一人暮らしで、緑市に来る前は東京に住んでいました」

「ああ……」


一気に喋りすぎたせいだろうか。智哉さんが、少し戸惑った様子になる。

彼のことを知りたいのと同じくらい、自分のことも知ってほしくて、勢いづいてしまった。


「ごっ、ごめんなさい。いきなり……」

「いや、構わないよ。そうか、まだ話したことがなかったな」


コンビニの前で智哉さんは立ち止まり、私と向き合う。


「僕の実家は、岐阜の片田舎にあった」

「岐阜……」


頭の中に日本地図を広げ、岐阜県の位置を探そうとして、ふと違和感に気付く。

見上げると、深い感情を宿す瞳が私を映していた。


「昔、災難に巻き込まれて……両親も家も、もう存在しない」

「……」

「兄弟もいない。僕は、独りなんだ」


何と返事をすればいいのか、わからない。心の中で、安易に尋ねたことを激しく後悔した。

でも智哉さんは優しく微笑み、こわばる私の頬を、そっと撫でてくれる。


「何年も前のことだし、今はもう、よく覚えていない。これまで話題にしなかったのは、たぶん、きみに無用な心配をさせたくなかったからだ」

「智哉さん、あの……」

「気にしなくていいよ。ハルにはいつも、笑顔でいてほしい」


私は黙って頷く。

過去に何があったのか、わからない。だけど、彼の事情を勝手に想像し、同情するのだけは止めよう。

彼が望むとおり、いつも笑顔で傍に寄り添っていたい。


「送ってくれてありがとう、智哉さん。仕事に行ってきます!」

「ああ、行ってらっしゃい。気を付けて」


交差点を渡る手前で振り向くと、智哉さんはまだ私を見送っていた。

互いに手を振り、微笑み合う。

何気ない仕草の一つ一つが、さっきよりもずっとずっと大切に思えた。

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