恋の記録

藤谷 郁

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幸せの部屋

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智哉さんのマンションに移ることになった私は、彼が迎えにくるまでの間に急いで荷造りした。

とりあえず、二、三日ぶんの着替えと『お泊まりセット』を旅行バッグに詰める。本格的な引越し準備は、明日以降だ。


「お泊まりセットなんて、何年振りだろ」


大学時代、付き合っていた彼氏のアパートに、たびたび泊まった。サークルの飲み会の帰りとか、遅くまでデートした夜とか。わりと気楽に上がり込んだ気がする。

でも今の私は、気楽どころか緊張の極みだ。あの頃と比べ物にならないくらいドキドキしている。

初めての感覚だった。


「そっか。今回の場合は泊まる……ていうんじゃなくて、一緒に暮らすんだものね」


智哉さんの口振りからすると、ルームシェアというより同棲。つまり私は、彼とともに一つ屋根の下で生活するのだ。まるで、結婚した男女みたいに。

ますます胸が高鳴る。智哉さんと出会って以来、何となく意識してきた結婚の二文字が、急に現実味を帯びてきたような。そういえば、実家の母が『良い人ができたら紹介してね。縁市そっちの人でもいいわよ』なんて言ってたっけ。

部屋の戸締りを確かめながら、あれこれ考えた。


「そういえば、智哉さんの実家ってどこだろう。もしかして本当に地元の人なのかな」


今度、聞いてみなくては。生活をともにする彼のことをもっと知りたい。

それに、このアパートを出ることをいずれ親に報告する。その際、智哉さんのマンションに引越す経緯を根掘り葉掘り訊かれるだろう。彼のことを何も知らないでは、心配性の母が納得すまい。


準備万端整った頃、インターホンが鳴った。時間どおり、智哉さんが迎えにきてくれたのだ。

部屋のライトを消して、玄関に急ぐ。

ドアを開けると、彼は私の顔と姿を見回し、ほっとしたように笑う。


「行こうか」


智哉さんは私の旅行バッグを当然のように持ち、片方の腕をそっと肩に回した。なんというさり気なさ。スマートなリードに、胸が再びときめき始める。鍵をかける手が震えてしまう。


「……智哉さん?」


歩き出そうとして、彼は立ち止まった。506号室のドアをじっと見ている。

ほんの数秒だけれど、とても冷たく、怖い顔になるのがわかった。


「これからは僕が傍にいて、君を守る」

「……」


私を見つめる眼差しはとても優しい。ロマンティックで幸せな未来が、目の前に広がっていた。




智哉さんはタクシーで迎えにきていた。お酒を飲んでいるからかな……と思ったが、彼は車を持っていないという。


「通勤は徒歩だし、車に乗る必要がほとんどないからね。ここ最近運転したのは、店の車くらいだ」


少し意外な気がした。智哉さんなら、最新型の洒落た車に乗っているのでは――と、勝手に想像していた。

でも確かに、街中に住めば車は不要だろう。



タクシーが本町のメインストリート沿いに立つマンションに着いたのは、四十分後。雨降りのためかスピードは控えめだった。

車を降りて建物を見上げた私は、メゾン城田とは大違いの立派な外観に圧倒された。


「僕の部屋番号は1401だよ」


マンションは地上14階建てなので、最上階である。


「間取りは3LDK。天井が高いから、部屋が広く感じられるのが気に入ってる。冬は暖房代が、多少かさむけどね」

「なるほど」


智哉さんは私の荷物を持ち、玄関へと歩き出す。もちろん出入口はオートロックだ。

中に入ると、通りの音が遮断された。静かな空間に、二人の靴音がきれいに響き渡る。


(ロビーの床も壁もぴかぴか……新築のマンションかしら)


水樹智哉。三十二歳、独身。職業は老舗の靴販売店『ドゥマン』の店長。

紳士で、優しくて、立派なマンションに一人暮らしをする彼と偶然出会い、同棲することになった。この出来過ぎの展開は、ベタな恋愛小説のよう。しかも私は、大学時代の彼氏と別れて以来、恋愛から遠ざかっていた枯れ女である。


「なんだか、夢みたい」

「夢?」


エレベーターホールに響くつぶやきに、智哉さんはクスッと笑う。


「どうして、そう思うんだ?」

「だって、その……私が夢見てた、理想どおりの展開だから、理解が追い付かないというか」

「理想どおり? 僕にも理想どおりだよ」

「ええっ?」


それは、私と一緒に暮らすことが、だろうか。

刺激的な発言に驚き、彼を見上げる。


「僕の望んだとおり、展開してる。君と出会って、恋をして、一緒に暮らすのは理想であると同時に、当たり前のことなんだ。なにも怖がることはない」

「智哉さん……」


愛情にあふれた眼差しに包まれる。

私は智哉さんの恋人。彼の想いに応えることが幸せ。もっと素直に、感じるままに、甘えればいい。


「好きだよ、ハル」


彼がくれたのは、優しくも熱い口付け。

爽やかな男性の香りが、枯れ女の恋心を、しっとりと潤した。

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