恋の記録

藤谷 郁

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正義の使者〈1〉

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「も、もう行くぞ。時間が押してる」

「うっ、ううっ……」


父親に促され、母親はようやく棺から離れた。ハンカチを握りしめる手が、わなわなと震えている。

優ちゃんというのはたぶん、幼い頃の呼び名だ。


(そういえば、お袋が前に言ってたな)


『時々、なかばの夢を見るよ。どういうわけか、夢に出てくるあんたは小さな子どもで、私はハラハラしながら追いかけてる。転んだらどうするのって、心配してさ。あんたはもう大人なのに、可笑しいよねえ』


母親にとって、子どもはいつまでたっても子どもなんだ。

鳥宮の母親を見ながら、そんなことを思った。






葬儀会社の搬送車に遺体が運び込まれたあと、鳥宮の遺品を両親に渡した。

割れたメガネとサンダルである。


「ブランドのサンダルか……分不相応なものを買いおって」


父親は舌打ちし、袋をこちらに戻そうとした。


「警察で処分してくれ」

「そういうわけには、いきませんので」

「あいつが残したものは何もいらない。これに限らず、アパートのがらくたもだ」


相続放棄でもするつもりだろうか。しかし、息子が最後に身に着けていた遺品くらい、受け取るべきだ。


「あの、すみません。私が預かります」


父親の後ろから、母親がおずおずと申し出た。剥げた化粧と、泣きすぎて真っ赤になった目が痛々しい。


「……勝手にしろ!」


ぷいと横を向き、搬送車の後ろにつけたタクシーに乗り込んでしまった。

この父親は、亡くなった息子に対して、ほとんど意地になっている。しかし自分にも責任があると、本当はわかっているのだろう。

母親は受け取った遺品を、大事そうにバッグにしまった。



俺と水野さんは並んで立ち、搬送車を見送った。これから斎場に向かうそうだ。


「終わったな」

「ええ」

「東松くんが手伝ってくれて、助かったよ。ありがとう」


上司に礼を言われ、恐縮する。真実に辿り付くことができたのは、水野さんが根気よく調査したおかげだ。俺は力になれた実感がない。


「しかし、やっぱり謎が残る」

「えっ」


ため息まじりの言葉に、どきっとする。


「鳥宮の金回りのことですか。でも、転落死に直接関係する証拠は出ていません」

「ああ、そうだ。私が気になるのは、さっきの、鳥宮が履いていたというサンダルな……」

「サンダル?」


水野さんは「うーん」と唸り、夜空を仰いだ。


「有名ブランドのレザーサンダルだった。親父さんの言うとおり、鳥宮の持ち物にしては高級品といえる」

「そうなんですか」


スーツや小物に凝る水野さんらしい気付きだ。ブランドに詳しくない俺は、素直に感心する。


「金回りが良くなったから、奮発したんでしょうか」

「そうかもしれん。しかし気になるのは、アウトソールが革だったこと。レザーの靴底は濡れた路面で滑りやすいのだが、鳥宮は知らなかったのかな」

「あ……」


鳥宮はサンダル履きで手すりに上がった。雨がどしゃ降りの中、最も滑りやすいレザーサンダルを履いて――


「高級サンダルをベランダ履きにするのも妙だし。真相は明らかになったが、どうもすっきりしない。私はこの疑問を覚えておくことにする」

「書類に追記しておきます」


水野さんが、俺の背中をぽんと叩く。追記したら、そこで切り替えろという合図だ。

他の事案が溜まっている。次の仕事に取り掛かるため、職場に戻った。

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