恋の記録

藤谷 郁

文字の大きさ
上 下
59 / 236
正義の使者〈1〉

16

しおりを挟む
夕方、採取した指紋の照合結果が出た。

結論から言うと、鳥宮優一朗が507号室のベランダに侵入した痕跡は見つからなかった。足跡や指紋、微物など、証拠となるものが雨風に流されてしまった可能性も否定できないが。

しかし戸境の仕切り板表面には、鳥宮の指紋が付着していた。それも507号室側の、かなり深いところに。仕切り板の一部は雨に打たれず、指紋を採取することができたのだ。

つまり、杉田の証言は正しかった。

鳥宮がベランダから身を乗り出し、仕切り板につかまって隣を覗き込んでいたという証言である。

深いところに指紋が着いたのは、おそらく、ベランダに置かれたコンテナに乗って上半身を伸ばしたためだ。

一条春菜に興味を持って覗き行為に及んだのは間違いない。

明らかにならなかったのは、転落死した夜明け前、彼がベランダの手すりに上がり何をしようとしていたのか――証拠がない以上、不明と記すほかなかった。



夜になり、俺は書類を作成しながら、独りごとをつぶやく。


「雨さえ降らなければ、推測を立証できたかもしれん……今年の悪天候が恨めしいぜ」


プリントアウトした書類をファイルにしまったところに、水野さんが声をかけた。


「東松くん、鳥宮のご両親がおみえだ。一緒に来てくれ」

「わかりました」


我々の推測を、両親は認めたがらないだろう。たとえ自分達が一番よく分かっていたとしても。



俺と水野さんが応接室に入ると、両親はソファを立ってお辞儀をした。父親はムスッとしているが、母親はどこかぼんやりとして、顔色も悪いように見えた。

水野さんは早速、調査結果をもとに説明を始める。

両親は黙ってそれを聞いた。鳥宮優一朗がベランダから隣の部屋に移動しようとして転落した可能性に触れると、父親は怒りの形相になるが、すぐに下を向いてしまう。


「つまり警察は、息子の転落死は自殺ではなく事故という判断なんですね。あいつが手すりに上がって何をするつもりだったのか、それは分からなかったと、そういうことですね」

「はい」


父親は死体検案書に目を落とし、複雑な表情になる。

鳥宮は不慮の転落死。転落時の状況と行動の因果関係は不明と、外因死の追加事項に記されている。

そのほうが都合がいいのだろう。死因に問題がなければ、自殺だろうが事故だろうがどうでも良いのだ。

隣に座る母親はうつむいたまま、一言も発さない。


「わかりました。あの、刑事さん……」

「なんでしょう」


父親が小さな声で、ぼそぼそと訊ねる。


「その……507号室の女性が息子を訴えるとか、そういったことは……ありませんよね?」


俺と水野さんは顔を見合わせ、ひそかに息をついた。


「いいえ、そういったことはありません。ご心配なく」


水野さんが珍しく皮肉まじりで返す。しかし父親は何も感じないようで、あからさまに喜び、安堵した様子になる。

俺は呆れてしまった。鳥宮が一条春菜に不安を与えたのは事実なのに、親として詫びの言葉もないのか。


「それじゃあ、刑事さん。遺体を引き取りますんで、早く霊安室に連れてってくださいよ。葬儀屋さんを待たせちゃ悪いからね」


鳥宮の父親はさっさと席を立つ。どこまでも自分勝手な男だ。



「なあ、東松くん。ちょっと様子が変だと思わないか」


両親を遺体安置所に案内しながら、水野さんが俺に囁く。

鳥宮の母親が、涙を堪えているように見えた。昨日は亡くなった息子に怒り心頭で、事情聴取もそこそこに帰ってしまったのに。


「急に悲しみがこみ上げてきたとか?」

「そういうものかな。親父さんよりは、情があるのかねえ」


母親の心をはかりかね、首を傾げた。



鳥宮優一朗の遺体は棺に納められていた。

父親は死に顔を覗き込むが、興味がないというように、すぐに背を向けてしまった。


「早く運んでくれ」


後ろに控える葬儀会社のスタッフに、短く指示する。

スタッフが運搬にかかろうとすると、


「待ってください!」


突然、母親が制止した。叫ぶような声に、父親が驚いた顔になる。


「何だ、母さん。どうした」

「待ってください、待って……」


母親が父親を押しのけ、棺桶の縁にすがりついた。ぽろぽろと涙をこぼしている。

父親ばかりでなく、俺と水野さんも戸惑った。

現場検証で見せた冷淡な態度とは違う。今の彼女は、母親そのものだ。子どもを亡くした悲しみが、痛いほど伝わってくる。


「母さん、しっかりしないか。どうしたんだ、急に」

「だってあなた、優ちゃん……優ちゃんがっ……」


父親は妻の肩に手を置くが、引き剥がそうとはしない。彼女の必死な様子に、気圧されている。

しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

ハイブリッド・ブレイン

青木ぬかり
ミステリー
「人とアリ、命の永さは同じだよ。……たぶん」  14歳女子の死、その理由に迫る物語です。

【完結】Amnesia(アムネシア)~カフェ「時遊館」に現れた美しい青年は記憶を失っていた~

紫紺
ミステリー
郊外の人気カフェ、『時游館』のマスター航留は、ある日美しい青年と出会う。彼は自分が誰かも全て忘れてしまう記憶喪失を患っていた。 行きがかり上、面倒を見ることになったのが……。 ※「Amnesia」は医学用語で、一般的には「記憶喪失」のことを指します。

ママと中学生の僕

キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。

友達の母親が俺の目の前で下着姿に…

じゅ〜ん
エッセイ・ノンフィクション
とあるオッサンの青春実話です

『 ゆりかご 』  ◉諸事情で非公開予定ですが読んでくださる方がいらっしゃるのでもう少しこのままにしておきます。

設樂理沙
ライト文芸
皆さま、ご訪問いただきありがとうございます。 最初2/10に非公開の予告文を書いていたのですが読んで くださる方が増えましたので2/20頃に変更しました。 古い作品ですが、有難いことです。😇       - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - " 揺り篭 " 不倫の後で 2016.02.26 連載開始 の加筆修正有版になります。 2022.7.30 再掲載          ・・・・・・・・・・・  夫の不倫で、信頼もプライドも根こそぎ奪われてしまった・・  その後で私に残されたものは・・。            ・・・・・・・・・・ 💛イラストはAI生成画像自作  

〖完結〗私はあなたのせいで死ぬのです。

藍川みいな
恋愛
「シュリル嬢、俺と結婚してくれませんか?」 憧れのレナード・ドリスト侯爵からのプロポーズ。 彼は美しいだけでなく、とても紳士的で頼りがいがあって、何より私を愛してくれていました。 すごく幸せでした……あの日までは。 結婚して1年が過ぎた頃、旦那様は愛人を連れて来ました。次々に愛人を連れて来て、愛人に子供まで出来た。 それでも愛しているのは君だけだと、離婚さえしてくれません。 そして、妹のダリアが旦那様の子を授かった…… もう耐える事は出来ません。 旦那様、私はあなたのせいで死にます。 だから、後悔しながら生きてください。 設定ゆるゆるの、架空の世界のお話です。 全15話で完結になります。 この物語は、主人公が8話で登場しなくなります。 感想の返信が出来なくて、申し訳ありません。 たくさんの感想ありがとうございます。 次作の『もう二度とあなたの妻にはなりません!』は、このお話の続編になっております。 このお話はバッドエンドでしたが、次作はただただシュリルが幸せになるお話です。 良かったら読んでください。

命を狙われたお飾り妃の最後の願い

幌あきら
恋愛
【異世界恋愛・ざまぁ系・ハピエン】 重要な式典の真っ最中、いきなりシャンデリアが落ちた――。狙われたのは王妃イベリナ。 イベリナ妃の命を狙ったのは、国王の愛人ジャスミンだった。 短め連載・完結まで予約済みです。設定ゆるいです。 『ベビ待ち』の女性の心情がでてきます。『逆マタハラ』などの表現もあります。苦手な方はお控えください、すみません。

処理中です...