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正義の使者〈1〉
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夕方、採取した指紋の照合結果が出た。
結論から言うと、鳥宮優一朗が507号室のベランダに侵入した痕跡は見つからなかった。足跡や指紋、微物など、証拠となるものが雨風に流されてしまった可能性も否定できないが。
しかし戸境の仕切り板表面には、鳥宮の指紋が付着していた。それも507号室側の、かなり深いところに。仕切り板の一部は雨に打たれず、指紋を採取することができたのだ。
つまり、杉田の証言は正しかった。
鳥宮がベランダから身を乗り出し、仕切り板につかまって隣を覗き込んでいたという証言である。
深いところに指紋が着いたのは、おそらく、ベランダに置かれたコンテナに乗って上半身を伸ばしたためだ。
一条春菜に興味を持って覗き行為に及んだのは間違いない。
明らかにならなかったのは、転落死した夜明け前、彼がベランダの手すりに上がり何をしようとしていたのか――証拠がない以上、不明と記すほかなかった。
夜になり、俺は書類を作成しながら、独りごとをつぶやく。
「雨さえ降らなければ、推測を立証できたかもしれん……今年の悪天候が恨めしいぜ」
プリントアウトした書類をファイルにしまったところに、水野さんが声をかけた。
「東松くん、鳥宮のご両親がおみえだ。一緒に来てくれ」
「わかりました」
我々の推測を、両親は認めたがらないだろう。たとえ自分達が一番よく分かっていたとしても。
俺と水野さんが応接室に入ると、両親はソファを立ってお辞儀をした。父親はムスッとしているが、母親はどこかぼんやりとして、顔色も悪いように見えた。
水野さんは早速、調査結果をもとに説明を始める。
両親は黙ってそれを聞いた。鳥宮優一朗がベランダから隣の部屋に移動しようとして転落した可能性に触れると、父親は怒りの形相になるが、すぐに下を向いてしまう。
「つまり警察は、息子の転落死は自殺ではなく事故という判断なんですね。あいつが手すりに上がって何をするつもりだったのか、それは分からなかったと、そういうことですね」
「はい」
父親は死体検案書に目を落とし、複雑な表情になる。
鳥宮は不慮の転落死。転落時の状況と行動の因果関係は不明と、外因死の追加事項に記されている。
そのほうが都合がいいのだろう。死因に問題がなければ、自殺だろうが事故だろうがどうでも良いのだ。
隣に座る母親はうつむいたまま、一言も発さない。
「わかりました。あの、刑事さん……」
「なんでしょう」
父親が小さな声で、ぼそぼそと訊ねる。
「その……507号室の女性が息子を訴えるとか、そういったことは……ありませんよね?」
俺と水野さんは顔を見合わせ、ひそかに息をついた。
「いいえ、そういったことはありません。ご心配なく」
水野さんが珍しく皮肉まじりで返す。しかし父親は何も感じないようで、あからさまに喜び、安堵した様子になる。
俺は呆れてしまった。鳥宮が一条春菜に不安を与えたのは事実なのに、親として詫びの言葉もないのか。
「それじゃあ、刑事さん。遺体を引き取りますんで、早く霊安室に連れてってくださいよ。葬儀屋さんを待たせちゃ悪いからね」
鳥宮の父親はさっさと席を立つ。どこまでも自分勝手な男だ。
「なあ、東松くん。ちょっと様子が変だと思わないか」
両親を遺体安置所に案内しながら、水野さんが俺に囁く。
鳥宮の母親が、涙を堪えているように見えた。昨日は亡くなった息子に怒り心頭で、事情聴取もそこそこに帰ってしまったのに。
「急に悲しみがこみ上げてきたとか?」
「そういうものかな。親父さんよりは、情があるのかねえ」
母親の心をはかりかね、首を傾げた。
鳥宮優一朗の遺体は棺に納められていた。
父親は死に顔を覗き込むが、興味がないというように、すぐに背を向けてしまった。
「早く運んでくれ」
後ろに控える葬儀会社のスタッフに、短く指示する。
スタッフが運搬にかかろうとすると、
「待ってください!」
突然、母親が制止した。叫ぶような声に、父親が驚いた顔になる。
「何だ、母さん。どうした」
「待ってください、待って……」
母親が父親を押しのけ、棺桶の縁にすがりついた。ぽろぽろと涙をこぼしている。
父親ばかりでなく、俺と水野さんも戸惑った。
現場検証で見せた冷淡な態度とは違う。今の彼女は、母親そのものだ。子どもを亡くした悲しみが、痛いほど伝わってくる。
「母さん、しっかりしないか。どうしたんだ、急に」
「だってあなた、優ちゃん……優ちゃんがっ……」
父親は妻の肩に手を置くが、引き剥がそうとはしない。彼女の必死な様子に、気圧されている。
結論から言うと、鳥宮優一朗が507号室のベランダに侵入した痕跡は見つからなかった。足跡や指紋、微物など、証拠となるものが雨風に流されてしまった可能性も否定できないが。
しかし戸境の仕切り板表面には、鳥宮の指紋が付着していた。それも507号室側の、かなり深いところに。仕切り板の一部は雨に打たれず、指紋を採取することができたのだ。
つまり、杉田の証言は正しかった。
鳥宮がベランダから身を乗り出し、仕切り板につかまって隣を覗き込んでいたという証言である。
深いところに指紋が着いたのは、おそらく、ベランダに置かれたコンテナに乗って上半身を伸ばしたためだ。
一条春菜に興味を持って覗き行為に及んだのは間違いない。
明らかにならなかったのは、転落死した夜明け前、彼がベランダの手すりに上がり何をしようとしていたのか――証拠がない以上、不明と記すほかなかった。
夜になり、俺は書類を作成しながら、独りごとをつぶやく。
「雨さえ降らなければ、推測を立証できたかもしれん……今年の悪天候が恨めしいぜ」
プリントアウトした書類をファイルにしまったところに、水野さんが声をかけた。
「東松くん、鳥宮のご両親がおみえだ。一緒に来てくれ」
「わかりました」
我々の推測を、両親は認めたがらないだろう。たとえ自分達が一番よく分かっていたとしても。
俺と水野さんが応接室に入ると、両親はソファを立ってお辞儀をした。父親はムスッとしているが、母親はどこかぼんやりとして、顔色も悪いように見えた。
水野さんは早速、調査結果をもとに説明を始める。
両親は黙ってそれを聞いた。鳥宮優一朗がベランダから隣の部屋に移動しようとして転落した可能性に触れると、父親は怒りの形相になるが、すぐに下を向いてしまう。
「つまり警察は、息子の転落死は自殺ではなく事故という判断なんですね。あいつが手すりに上がって何をするつもりだったのか、それは分からなかったと、そういうことですね」
「はい」
父親は死体検案書に目を落とし、複雑な表情になる。
鳥宮は不慮の転落死。転落時の状況と行動の因果関係は不明と、外因死の追加事項に記されている。
そのほうが都合がいいのだろう。死因に問題がなければ、自殺だろうが事故だろうがどうでも良いのだ。
隣に座る母親はうつむいたまま、一言も発さない。
「わかりました。あの、刑事さん……」
「なんでしょう」
父親が小さな声で、ぼそぼそと訊ねる。
「その……507号室の女性が息子を訴えるとか、そういったことは……ありませんよね?」
俺と水野さんは顔を見合わせ、ひそかに息をついた。
「いいえ、そういったことはありません。ご心配なく」
水野さんが珍しく皮肉まじりで返す。しかし父親は何も感じないようで、あからさまに喜び、安堵した様子になる。
俺は呆れてしまった。鳥宮が一条春菜に不安を与えたのは事実なのに、親として詫びの言葉もないのか。
「それじゃあ、刑事さん。遺体を引き取りますんで、早く霊安室に連れてってくださいよ。葬儀屋さんを待たせちゃ悪いからね」
鳥宮の父親はさっさと席を立つ。どこまでも自分勝手な男だ。
「なあ、東松くん。ちょっと様子が変だと思わないか」
両親を遺体安置所に案内しながら、水野さんが俺に囁く。
鳥宮の母親が、涙を堪えているように見えた。昨日は亡くなった息子に怒り心頭で、事情聴取もそこそこに帰ってしまったのに。
「急に悲しみがこみ上げてきたとか?」
「そういうものかな。親父さんよりは、情があるのかねえ」
母親の心をはかりかね、首を傾げた。
鳥宮優一朗の遺体は棺に納められていた。
父親は死に顔を覗き込むが、興味がないというように、すぐに背を向けてしまった。
「早く運んでくれ」
後ろに控える葬儀会社のスタッフに、短く指示する。
スタッフが運搬にかかろうとすると、
「待ってください!」
突然、母親が制止した。叫ぶような声に、父親が驚いた顔になる。
「何だ、母さん。どうした」
「待ってください、待って……」
母親が父親を押しのけ、棺桶の縁にすがりついた。ぽろぽろと涙をこぼしている。
父親ばかりでなく、俺と水野さんも戸惑った。
現場検証で見せた冷淡な態度とは違う。今の彼女は、母親そのものだ。子どもを亡くした悲しみが、痛いほど伝わってくる。
「母さん、しっかりしないか。どうしたんだ、急に」
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父親は妻の肩に手を置くが、引き剥がそうとはしない。彼女の必死な様子に、気圧されている。
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