恋の記録

藤谷 郁

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正義の使者〈1〉

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メゾン城田に戻ると、ちょうど鑑識係のワゴン車が到着するところだった。


「マチさん、忙しいところすまないね」

「おう、係長。お疲れさん」


車から降りてきた鑑識係のリーダー町田まちだ警部補に、水野さんが声をかけた。彼らは旧知の仲なので、普段から親しく呼び合っている。

運転席から降りた若い鑑識員も、荷台からジュラルミンケースを取り出して後に続く。


「近くの現場にいたんで、タイミングよかったよ。で、どこを調べりゃいいんだい」


町田さんに訊かれ、水野さんが上を指差す。


「このアパートの五階の部屋だ。507号室のベランダを調べてほしい」

「507? 昨日転落したのは506号室の住人じゃなかったか」

「それが、いろんなことがわかってな……おっ、来た来た」


水野さんが俺の頭越しに手を振った。振り向くと、一人の女性が駆け足でやってくる。

一条春菜だ。


「すみません、お待たせしました」


空色のワンピースにカーディガンを羽織っている。服装のせいか、昨夜より女らしい雰囲気に感じられた。


「いやいや、我々も今来たところですよ」


一条さんはほっとした顔になり、居並ぶ警察官にぺこりと頭を下げる。そして俺と目を合わせ、


「東松さん。先ほどは、お電話をありがとうございました」

「こちらこそ、仕事中に失礼しました」


ちょっと無愛想に返す俺に、彼女はなぜか微笑む。水野さんがじっと見ているので、俺は硬い表情を保った。


「それでは、一条さん。早速始めさせていただきたいのですが」

「あ、はい。どうぞこちらに」


五人揃って507号室に上がった。

一条さんがカーテンを開けるのを見て、水野さんが俺にそっと耳打ちする。


「ずいぶん薄地のカーテンだな。夜に明かりを点ければ、中の様子がわかるかもしれん」

「ええ、俺もそう思いました」


隣のベランダから覗き込む鳥宮の姿が、いよいよリアルに浮かび上がってくる。それを確かめるため、戸境いの仕切り板を中心に、指紋が残っていないか調べるのだ。


「うーむ。506号室もそうだが、このベランダは日当たりがいいなあ。その上、雨が奥まで降り込んで、いろんなものを洗い流しちまってる」


町田さんが難しい顔で作業を始めた。俺と水野さんはじゃまにならないよう、部屋に引っ込む。

一条さんにすすめられて椅子に座ると、水野さんがあらたまった口調で、鳥宮について調査した結果を彼女に話した。


「覗かれてるなんて、まったく気が付きませんでした。でも……このアパートに越してから、何だか視線を感じるというか、誰かに監視されているような気が、しなくもなかったです」


だからこそ、苦情の紙が不気味だったという。


「でもまさか、鳥宮さんがベランダに侵入していたなんてことは……」

「それはまだ分かりません。指紋採取の結果を見なければ」


しかし、上手く採取できるだろうか。町田さんの言うとおり、窓ガラスやサッシに鳥宮の指紋がついたとしても、雨に流されてしまっただろう。

今年の春は雨がよく降る。しかも嵐のような――


「あ、ちょっと失礼」


電話がかかってきて、水野さんは携帯を耳にあてながら外に出てしまった。

俺と一条さんの二人きりになり、しばし沈黙が漂う。

組んだ指先に視線を落とし、適当な話題を探した。鳥宮に関することは不安にさせるばかりなのでやめよう。一条さんは書店員だ。本の話でも振ってみるか……


「もうジャンパーは、いりませんね」

「……?」


何のことかと思って彼女を見ると、えらく明るい表情だ。鳥宮の行為に怯え、ついさっきまで動揺していたのに、笑みまで浮かべている。


「今日はよく晴れて、暑いくらい。このまま夏になっちゃいそうですね」

「あ……ああ、確かに」


俺がいつも着ている、くたびれたジャンパーのことだ。彼女から話題を振ってくるとは思わず、反応が遅れてしまった。


「今日は暖かいので脱いできたんです」

「ふふっ……こうして見ると、スーツもお似合いですよ」

「はあ、どうも」


何が言いたいのかよく分からないが、ずいぶんリラックスした様子だ。俺のことはもう怖くないらしい。というより、どこか面白がっているようにすら見える。

女の心理は謎だ。

窓の外に広がる青い空を見やり、俺はふと気付いたことを思い出す。


「そういえば、洗濯物が干してないですね」

「……えっ?」


天気の話題が出た流れからの、世間話的な、素朴な疑問である。だから、一条さんが戸惑うのが不思議だった。

それに、どういうわけか頬を染めている。


「いや、よけいな干渉でした。すみません」


防犯上の理由で洗濯物を干さない女性もいる。男が訊くことじゃなかったかもしれない。


「いいえ、そんなこと……えっと、実は私……」


一条さんは赤くなった頬を押さえ、はにかみながら答えた。


「私、昨夜から知人の家に泊まってるんです」
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