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正義の使者〈1〉
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「杉田さん。あなたは四月七日の夜九時頃、アルバイト先から電車で戻り、駅から歩いて帰宅した。あちらの方向から……」
水野さんは駐車場へと続く道を指さし、次にアパートの建物を見上げた。
「そして、鳥宮さんがベランダの仕切り板から身を乗り出して隣の507号室を覗く姿を、目撃したのですね」
俺はメモをとる手を止め、杉田が頷くのを確かめる。神妙な顔つきだ。
「はい。バイトの初日だったので日付けも間違いないです。あと、その日は日曜日で、午前中に引越し会社のトラックが来ていました。一条さんが越してきたんですね。それまで507号室の窓は真っ暗だったから、明かりが点いてるのに気付いて、誰か入居したんだなって何となく見上げたんです」
「それであなたは、鳥宮さんが隣を覗くのを見て、変だなと感じた」
「はい。507号室の窓は閉まっていて、カーテンも引かれてました。何をしてるんだろって、首を傾げたんですが……」
杉田はばつが悪そうに、
「自分には関係ない。まあいいやって、見過ごしたんです」
水野さんも俺も、特にコメントしない。杉田に限らず、アパートの住人は皆、同じような対応をしただろう。
「507号室の住人が男性なのか女性なのか、わからなかったし。この前、初めて一条さんと顔を合わせて、若い女性だと知りました。しかも、わりときれいな人じゃないですか。だから、もしかして鳥宮さんは、彼女の部屋を覗こうとしたのかもって、ピンときたんです」
おそらく杉田の推測は当たっている。
鳥宮はその時点で既に、一条春菜に執着していたのだ。引越し作業をする彼女を、ドアの隙間からでも盗み見たのか。
悪い癖が出たというわけだ。
「しかしあなたは、鳥宮さんのそういった行為を目撃したのは一度だけなんですね」
「そうなんです。だから、一条さんに伝えるべきかどうか迷いました。彼女は隣人について何も知らない感じでしたし、鳥宮さんは死んでしまったし、今さら言っても気持ち悪いだけだろうなと思って」
杉田は一旦話すのを止め、胸を押さえた。黙って見守っていると、硬い表情で言葉を継ぐ。
「だから、一条さんと顔を合わせた日、覗きのことはあえて教えず、無難な会話で終わらせました。でも……やっぱりもやもやして、せめて警察の方には話すべきだったと悔やんでたんです。そしたら……」
「先ほど駅でばったり私と会い、話す決意がついたわけですね」
杉田は初めて、ほっとしたように笑う。大人びた顔立ちに、年相応の素直さが浮かんだ。
「はい。刑事さんが一生懸命に捜査しているのに、協力しないのは良くないと思って、決めました」
見かけは今時の女子学生だが、中身は擦れていない。こういうことがあるから、刑事は何度も聞き込みをし、何度も同じ質問をするのだ。
俺の知る刑事の中では水野さんと瀬戸さんが特に、地道な捜査を重視する。
昔気質と揶揄する者もいるが、粘り強い姿勢が実績に結びついていた。
杉田はぺこりと頭を下げてから、駅へと駆けていった。大学に行く時間を遅らせて捜査に協力してくれたのだ。
「杉田さんの言葉は信用できる。だが他に鳥宮の覗き見を目撃した人間はいない」
「住人でもなければ、五階のベランダをわざわざ見上げませんよね」
目撃者がいたとしても、杉田が最初そうであったように口をつぐむだろう。
隣人の顔も名前も知らず生活する人々にとって、無用なトラブルを避けることは自分を守る術だ。
触らぬ神に祟りなし、である。
「もう一度、一条さんに話を聞く必要があるな」
「ええ。訪ねてみましょう」
水野さんは電話を取り出すと、まず杉田の証言を課長に報告し、それから鑑識係に指紋採取の要請をした。507号室のベランダに鳥宮が侵入した形跡がないか調べるのだ。
それには一条春菜の同意がいる。
書店員は土日休みとは限らない。部屋にいてくれよと願いながらエントランスに回ると、水野さんが入り口の手前で立ち止まった。
「水野さん、どうかしましたか」
「うん。さっき公園で子どもを遊ばせてるお母さん達に、聞き込みをしたのだがね」
「えっ、もしや有力な情報が?」
期待する俺に、水野さんは苦笑を浮かべた。
「いや、路上駐車がじゃまだから、警察が何とかしてくれと言われたよ」
「路上駐車?」
アパートの前に小さな公園がある。
うっそうとした樹木と、ペンキの剥がれた遊具。今は明るい雰囲気だが、夜は不気味に感じられそうだ。
「路駐って、公園の周りにってことですか?」
「そうらしい。皆さん地元の住民で、公園の脇をよく車で通り抜けるそうだ」
今は一台も止まっていないが、もし路上駐車をすれば道幅も狭いし、なるほどじゃまである。
「犯人はアパートの住人だと決めつけてたぞ。最近、見なれない車がよく止まっているとか」
「はあ。時期的に、新しく引っ越してきた人ですかね」
二台目の駐車場を借りられず、路駐しているのかもしれない。
水野さんは駐車場へと続く道を指さし、次にアパートの建物を見上げた。
「そして、鳥宮さんがベランダの仕切り板から身を乗り出して隣の507号室を覗く姿を、目撃したのですね」
俺はメモをとる手を止め、杉田が頷くのを確かめる。神妙な顔つきだ。
「はい。バイトの初日だったので日付けも間違いないです。あと、その日は日曜日で、午前中に引越し会社のトラックが来ていました。一条さんが越してきたんですね。それまで507号室の窓は真っ暗だったから、明かりが点いてるのに気付いて、誰か入居したんだなって何となく見上げたんです」
「それであなたは、鳥宮さんが隣を覗くのを見て、変だなと感じた」
「はい。507号室の窓は閉まっていて、カーテンも引かれてました。何をしてるんだろって、首を傾げたんですが……」
杉田はばつが悪そうに、
「自分には関係ない。まあいいやって、見過ごしたんです」
水野さんも俺も、特にコメントしない。杉田に限らず、アパートの住人は皆、同じような対応をしただろう。
「507号室の住人が男性なのか女性なのか、わからなかったし。この前、初めて一条さんと顔を合わせて、若い女性だと知りました。しかも、わりときれいな人じゃないですか。だから、もしかして鳥宮さんは、彼女の部屋を覗こうとしたのかもって、ピンときたんです」
おそらく杉田の推測は当たっている。
鳥宮はその時点で既に、一条春菜に執着していたのだ。引越し作業をする彼女を、ドアの隙間からでも盗み見たのか。
悪い癖が出たというわけだ。
「しかしあなたは、鳥宮さんのそういった行為を目撃したのは一度だけなんですね」
「そうなんです。だから、一条さんに伝えるべきかどうか迷いました。彼女は隣人について何も知らない感じでしたし、鳥宮さんは死んでしまったし、今さら言っても気持ち悪いだけだろうなと思って」
杉田は一旦話すのを止め、胸を押さえた。黙って見守っていると、硬い表情で言葉を継ぐ。
「だから、一条さんと顔を合わせた日、覗きのことはあえて教えず、無難な会話で終わらせました。でも……やっぱりもやもやして、せめて警察の方には話すべきだったと悔やんでたんです。そしたら……」
「先ほど駅でばったり私と会い、話す決意がついたわけですね」
杉田は初めて、ほっとしたように笑う。大人びた顔立ちに、年相応の素直さが浮かんだ。
「はい。刑事さんが一生懸命に捜査しているのに、協力しないのは良くないと思って、決めました」
見かけは今時の女子学生だが、中身は擦れていない。こういうことがあるから、刑事は何度も聞き込みをし、何度も同じ質問をするのだ。
俺の知る刑事の中では水野さんと瀬戸さんが特に、地道な捜査を重視する。
昔気質と揶揄する者もいるが、粘り強い姿勢が実績に結びついていた。
杉田はぺこりと頭を下げてから、駅へと駆けていった。大学に行く時間を遅らせて捜査に協力してくれたのだ。
「杉田さんの言葉は信用できる。だが他に鳥宮の覗き見を目撃した人間はいない」
「住人でもなければ、五階のベランダをわざわざ見上げませんよね」
目撃者がいたとしても、杉田が最初そうであったように口をつぐむだろう。
隣人の顔も名前も知らず生活する人々にとって、無用なトラブルを避けることは自分を守る術だ。
触らぬ神に祟りなし、である。
「もう一度、一条さんに話を聞く必要があるな」
「ええ。訪ねてみましょう」
水野さんは電話を取り出すと、まず杉田の証言を課長に報告し、それから鑑識係に指紋採取の要請をした。507号室のベランダに鳥宮が侵入した形跡がないか調べるのだ。
それには一条春菜の同意がいる。
書店員は土日休みとは限らない。部屋にいてくれよと願いながらエントランスに回ると、水野さんが入り口の手前で立ち止まった。
「水野さん、どうかしましたか」
「うん。さっき公園で子どもを遊ばせてるお母さん達に、聞き込みをしたのだがね」
「えっ、もしや有力な情報が?」
期待する俺に、水野さんは苦笑を浮かべた。
「いや、路上駐車がじゃまだから、警察が何とかしてくれと言われたよ」
「路上駐車?」
アパートの前に小さな公園がある。
うっそうとした樹木と、ペンキの剥がれた遊具。今は明るい雰囲気だが、夜は不気味に感じられそうだ。
「路駐って、公園の周りにってことですか?」
「そうらしい。皆さん地元の住民で、公園の脇をよく車で通り抜けるそうだ」
今は一台も止まっていないが、もし路上駐車をすれば道幅も狭いし、なるほどじゃまである。
「犯人はアパートの住人だと決めつけてたぞ。最近、見なれない車がよく止まっているとか」
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