恋の記録

藤谷 郁

文字の大きさ
上 下
50 / 236
正義の使者〈1〉

7

しおりを挟む
水野さんは頷きながら言う。


「鳥宮さんの転落時間と大きくずれているし、何か仕掛けるにしても時間が短すぎる」


確かにそのとおりだ。

しかし、転落死の前夜に現れたというのは気になる。単なる偶然だろうか。


「長谷部さん、続きをお願いします。このあと非常階段の出入りも見せてください」

「承知しました」


映像を丁寧に見ていくが、エントランスを通過する人間のうち、住人でないのは『ともやさん』だけ。非常階段を利用する者はゼロ。

これといった人物は見当たらなかった。




「鳥宮の死に、他者が関わっている可能性は低いな」


管理会社からの帰路、水野さんは納得半分、物足りなさ半分といった顔。

俺もそうだが、結果が予想どおりすぎて、ちょっと拍子抜けしている。


「部屋にあった指紋は、鳥宮のものだけ。誰かと争った形跡もなし。彼はやはり、自らの意思でベランダの手すりに上り、落ちたんだ」

「ええ。『落ちてしまった』んですね」


俺と水野さんは、一つの結論に辿り着こうとしている。

鳥宮の死は自殺ではなく、事故。

問題は、なぜ鳥宮がベランダの手すりに上がったのか。答のヒントは、前田栄二の証言と、一条春菜から預かった証拠品にある。


「ただ、どうしても引っ掛かるんだ」

「鳥宮の懐が潤った理由ですね」

「そのとおり。宝くじでもない、ギャンブルでもないなら、どこから金を手に入れたのか。どうしても、そこに誰かがいるような気がしてならんのだ」


頭をひねる水野さんに、俺も疑問を呈した。何でもないことのようで、やはり不自然に思える。


「鳥宮は、なぜサンダルなんか履いたんでしょうね」

「うむ……」


本町駅前の交差点に差し掛かった。信号は赤。

初夏を思わせる陽射しのもと、横断を待つ人が、まぶしそうに目を細めている。


「雨はどしゃぶり。アルミの手すりは濡れている。裸足のほうが滑りにくいと、気付かなかったんでしょうか」


「ベランダに出る習慣で履いてしまったのかな。どうも鳥宮は、浅慮な人間らしい」


それだけだろうか……

サンダル履きで手すりに上る鳥宮の格好を想像し、何ともいえないもやもやとした気持ちに支配される。

彼の最後の言葉は、『すべった』――

第一発見者である新聞配達員に、息も絶え絶えの状態で、懸命に伝えた。

すべった……失敗した、と。


「署に戻ったら課長に報告して、もう一度地取りをやる。必ず、何か出てくるはずだ。東松くんは、できる範囲で手伝ってくれ」

「はい」


信号が青になり、水野さんは意気揚々と進む。俺の歩幅も大きかった。

答を出す前に、疑問に思うところはすべて調べ尽くすのだ。限られた時間の中でも、精いっぱい。


横断歩道を渡る人々が駅ビルに吸い込まれていくのを見やり、彼女を思い出した。

恋人に抱えられ、よろめきながら歩く姿に違和感を覚えたが……


(あれは、俺の勘違いかもしれないな)


頭を振り、水野さんを追いかけた。




署に戻った俺は、まず鑑識の部屋に行き、例の苦情の紙についての鑑定結果を聞いた。

鑑識係は資料を見せながら、はきはきと告げた。


「鳥宮さんの筆跡と特徴は似ていますが、何しろ殴り書きなんで、真筆であるとは言えません」

「……そうですか」


筆跡鑑定の結果は残念ながらグレーだったが、指紋については一条春菜の他は鳥宮のものだけがレポート用紙から検出された。他者の関わりを示す証拠はなく、鳥宮が書いたものと見て間違いないだろう。



刑事課に戻り、水野さんに報告しようとしたが、既に外出していた。さっそく地取りに出かけたのだろう。

直に話したかったのだが、仕方ないので電話で短く伝えてから、別の仕事にとりかかる。俺は他にも事件を担当している。区切りがついてから、水野さんを手伝うことにした。


昼休み返上で捜査書類を作っていると、デスクの電話が鳴った。内線だ。

パソコンの画面に目を当てたまま、受話器を取る。


「強行犯係、東松で……」

『お久しぶり。昼ごはん、一緒に食べない?』

「……」


久しぶりに聞く、艶っぽい声。

断っても無駄だとわかっているので、俺は「食堂ですね」とだけ確認し、資料作りを中断した。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

夫の色のドレスを着るのをやめた結果、夫が我慢をやめてしまいました

氷雨そら
恋愛
夫の色のドレスは私には似合わない。 ある夜会、夫と一緒にいたのは夫の愛人だという噂が流れている令嬢だった。彼女は夫の瞳の色のドレスを私とは違い完璧に着こなしていた。噂が事実なのだと確信した私は、もう夫の色のドレスは着ないことに決めた。 小説家になろう様にも掲載中です

夫の不貞現場を目撃してしまいました

秋月乃衣
恋愛
伯爵夫人ミレーユは、夫との間に子供が授からないまま、閨を共にしなくなって一年。 何故か夫から閨を拒否されてしまっているが、理由が分からない。 そんな時に夜会中の庭園で、夫と未亡人のマデリーンが、情事に耽っている場面を目撃してしまう。 なろう様でも掲載しております。

ピエロの嘲笑が消えない

葉羽
ミステリー
天才高校生・神藤葉羽は、幼馴染の望月彩由美から奇妙な相談を受ける。彼女の叔母が入院している精神科診療所「クロウ・ハウス」で、不可解な現象が続いているというのだ。患者たちは一様に「ピエロを見た」と怯え、精神を病んでいく。葉羽は、彩由美と共に診療所を訪れ、調査を開始する。だが、そこは常識では計り知れない恐怖が支配する場所だった。患者たちの証言、院長の怪しい行動、そして診療所に隠された秘密。葉羽は持ち前の推理力で謎に挑むが、見えない敵は彼の想像を遥かに超える狡猾さで迫ってくる。ピエロの正体は何なのか? 診療所で何が行われているのか? そして、葉羽は愛する彩由美を守り抜き、この悪夢を終わらせることができるのか? 深層心理に潜む恐怖を暴き出す、戦慄の本格推理ホラー。

復讐の旋律

北川 悠
ミステリー
 昨年、特別賞を頂きました【嗜食】は現在、非公開とさせていただいておりますが、改稿を加え、近いうち再搭載させていただきますので、よろしくお願いします。  復讐の旋律 あらすじ    田代香苗の目の前で、彼女の元恋人で無職のチンピラ、入谷健吾が無残に殺されるという事件が起きる。犯人からの通報によって田代は保護され、警察病院に入院した。  県警本部の北川警部が率いるチームが、その事件を担当するが、圧力がかかって捜査本部は解散。そんな時、川島という医師が、田代香苗の元同級生である三枝京子を連れて、面会にやってくる。  事件に進展がないまま、時が過ぎていくが、ある暴力団組長からホワイト興産という、謎の団体の噂を聞く。犯人は誰なのか? ホワイト興産とははたして何者なのか?  まあ、なんというか古典的な復讐ミステリーです…… よかったら読んでみてください。  

【完結】「心に決めた人がいる」と旦那様は言った

ゴールデンフィッシュメダル
恋愛
「俺にはずっと心に決めた人がいる。俺が貴方を愛することはない。貴女はその人を迎え入れることさえ許してくれればそれで良いのです。」 そう言われて愛のない結婚をしたスーザン。 彼女にはかつて愛した人との思い出があった・・・ 産業革命後のイギリスをモデルにした架空の国が舞台です。貴族制度など独自の設定があります。 ---- 初めて書いた小説で初めての投稿で沢山の方に読んでいただき驚いています。 終わり方が納得できない!という方が多かったのでエピローグを追加します。 お読みいただきありがとうございます。

失った記憶が戻り、失ってからの記憶を失った私の話

本見りん
ミステリー
交通事故に遭った沙良が目を覚ますと、そこには婚約者の拓人が居た。 一年前の交通事故で沙良は記憶を失い、今は彼と結婚しているという。 しかし今の沙良にはこの一年の記憶がない。 そして、彼女が記憶を失う交通事故の前に見たものは……。 『○曜○イド劇場』風、ミステリーとサスペンスです。 最後のやり取りはお約束の断崖絶壁の海に行きたかったのですが、海の公園辺りになっています。

パパー!紳士服売り場にいた家族の男性は夫だった…子供を抱きかかえて幸せそう…なら、こちらも幸せになりましょう

白崎アイド
大衆娯楽
夫のシャツを買いに紳士服売り場で買い物をしていた私。 ネクタイも揃えてあげようと売り場へと向かえば、仲良く買い物をする男女の姿があった。 微笑ましく思うその姿を見ていると、振り向いた男性は夫だった…

ずぶ濡れで帰ったら彼氏が浮気してました

宵闇 月
恋愛
突然の雨にずぶ濡れになって帰ったら彼氏が知らない女の子とお風呂に入ってました。 ーーそれではお幸せに。 以前書いていたお話です。 投稿するか悩んでそのままにしていたお話ですが、折角書いたのでやはり投稿しようかと… 十話完結で既に書き終えてます。

処理中です...