恋の記録

藤谷 郁

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正義の使者〈1〉

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息子には冷淡だが、人様には気遣いをする。母親の心理に違和感を覚えながら、捜査員は答えた。


「住民の皆さんに事情聴取したので、一応、知ってはいますが……お詫びというのであれば、大家さんを介したほうが良いと思いますよ。いきなり訪ねては、相手さんも戸惑うでしょうし」

「まあ、そうですよねえ……」


母親は頷くが、期待はずれといった表情だ。すぐにでも知りたかったのだろうか。


(なぜ急に隣人の話を?)


捜査員は首を傾げつつ、今朝がた事情聴取にあたった課員の報告を思い出した。

505号室の住人は男子大学生。507号室の住人は社会人の若い女性だ。どちらも、鳥宮が転落した時間はぐっすりと眠っており、何も気付かなかったと話した。

他の住人も似たり寄ったりの答で、捜査の参考にならず。

第一発見者の新聞配達員も、転落の瞬間は見ていない。メゾン城田の横を通りかかったのは落下後である。


「では、大家さんにお尋ねしてみますわ」

「それが良いでしょうな」


母親はそわそわした感じで、捜査員から顔を背けた。その様子を観察しながら、捜査員は考える。


新聞配達員はメゾン城田の横を通りかかり、駐車場で誰かがうずくまっているのに気付き、バイクを止めた。

外灯は暗く、その上雨が降っているためよく見えない。近付いてみると、人が倒れている。まだ息があるとわかり、慌てて救急車を呼んだ。

救急車が来る前に鳥宮は意識不明になった。配達員は、その前に言葉を聞いている。


「小さな声で、よく聞き取れなかったけど。確か、『すべった』……って、言ってました」


鳥宮はベランダ用と思われるサンダルを履いていた。彼はサンダル履きでベランダの手すりに上ったと推測される。その時、足を滑らせたのだろう。しかし――

配達員の証言を、捜査員は不思議に感じていた。

自ら飛び降りた人間が、『すべった』などと言うだろうか。まるで、失敗したかのような発言だ。飛ぼうとする前に足を滑らせてしまった。踏み切るタイミングがずれたことに対する、後悔なのか?


鳥宮は死亡したので、もはや確かめようがない。

捜査員は、さっきからなぜか落ち着かない母親を見やり、尋ねてみた。


「息子さんは、細かいことに拘るタイプでしたか? 例えば、完璧主義者だったとか」


その質問に、母親は眉を吊り上げた。


「完璧どころか、何もかも中途半端ですよ。ちょっと上手くいかないとすぐに投げ出して、楽なほうに流れるんです。最後まで迷惑かけて。どうしてあの子は、バカなことばっかり!」


母親は死んだ息子をなじり、現場検証を終えるとすぐさま帰ってしまった。早く遺体を引き取らせてくれと、念を押してから。

すごい剣幕だった。

鳥宮がこれまで、どんなバカなことをしてきたのか不明だが、『息子は人生を途中で投げ出し、自殺した』――母親は、そう考えているようだ。

捜査員は顎に手をやり、今一度思案する。

やはり、自殺にしては不自然な点が多い。

だが、転落時に誰かと揉めた形跡はなく、不審な物音や声を聞いた者もいない。事件性がない上、検視でも飛び降り自殺の遺体であると結論が出ている。

鑑識からも、これといった採取物の報告を受けず、現場検証は滞りなく終わった。

しかし捜査員――水野警部補は署に戻り、上役に報告した。


「鳥宮優一朗の周辺を、少し調査させてください」



俺は手帳を閉じて、隣に座る水野さんに確認する。


「検視の結果では、鳥宮優一朗の死因は多発外傷による急性循環不全。転落したことで、下肢を中心にダメージを負ったんですね」

「そうだ」


水野さんも手帳を取り出した。


「大腿骨頸部、骨盤、足関節のほか、肋骨、肘など上腕部も骨折している。どうやら彼は後ろ向きの格好で、足から飛び降りた。地面に対し垂直に落ち、その反動で前のめりになり地面に手をついたと推測される」

「額を打っていたら即死でした」


多発性粉砕型骨折と、そのダメージによる出血性ショック。いっそ即死であれば、苦しまずに済んだのに。

鳥宮の痛みを想像し、気の毒になりながら、転落時の状況を頭に描く。


「ベランダにコンテナが置かれていました。鳥宮は、これを踏み台にして手すりに上ったようです。その際、戸境の仕切り板を支えにしたらしく、庇に指紋が残っていますね」


507号室との境にある仕切り板だ。

つまり鳥宮は505号室ではなく、507号室に近い位置から転落した。


(一条春菜の部屋だ。彼女はその時、眠っていた……)


俺はふと、彼女の部屋の窓を思い出す。

白っぽい、無地のカーテンが引かれていた。明かりをつければ、外から様子が窺えそうな、薄い生地である。防犯上、好ましくないと感じた。


口をつぐむ俺の横で、水野さんが「うーん」と唸った。


「鳥宮は手すりの上に立ち、庇につかまった。外側に背中を向け、万歳の格好になったんだな。足元はサンダル履きで、ベランダの手すり部分はアルミ製……」


水野さんが、大きく目を見開く。何か、思い付いたのだろうか。


「なぜ、サンダルなんか履くんだ? 自殺ならむしろ、履物は脱ぐのが普通じゃないか」

「まあ、そうですよね」


それについては、俺も疑問だった。第一、サンダルなど履いたら滑りやすい。


「あれっ?」


水野さんと顔を見合わせる。鳥宮の最後の言葉は、『すべった』――


「鳥宮は、足を滑らせて落ちた。自殺するつもりは、なかったのかもしれん」

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