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正義の使者〈1〉
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俺と水野さんは用件を済ませた後、早々に大家宅を辞した。
二人並んで、緑大学前駅までの夜道を傘を差して歩く。住宅街を抜けると、じきに駅の明かりが見えてきた。
「大家さんも大変だなあ」
「そうですね」
電車を待ちながら、水野さんと今日の捜査について話した。人影まばらなホームを、雨の音が包んでいる。
「鳥宮さんの死が自殺であろうとなかろうと、メゾン城田は事故物件だ。新規入居は確実に減るだろうし、今住んでいる人も退去しかねない。大家さんは、何が起きたのかはっきりさせて、再発防止に取り組むと言っているが」
「難しそうですね」
「ああ、死活問題だ」
水野さんの口調に同情がにじむ。俺も、人のよさそうな大家の顔を思い出し、同じ気持ちになった。
「一条春菜さんも、退去するだろうねえ」
「えっ?」
早く反応しすぎた。にやりとする水野さんと目が合い、しまったと悔やむ。
「やめてください。そんなんじゃありませんよ」
「はは、いいじゃないか。彼女も独身のようだし、好きになるのは自由だろ?」
「なっ……」
水野さんは勘が鋭い。捜査員として頼もしい限りだが、仕事以外にも能力を発揮するので困る。しかも、今のは考えすぎだ。
「別に、そこまで気になっていません。それに彼女、男がいますよ」
「どうしてわかるんだ」
水野さんが意外そうに訊く。
「あの人、俺を鳥宮と間違えて逃げた時、男の名前を叫びました」
「男の名前?」
――ともやさん、助けて! 助けてえっ!!
「『ともや』……あれは男の名前です」
女が男にすがる声。今も耳に残っている。
「ともやさん、か。恋人かな。それにしては、男っ気のない部屋だったぞ」
「付き合って間もないのかもしれません」
「なるほどねえ」
水野さんは顎に手をやり、何か考え始めた。
「東松くん。一条さんは苦情の件を、上司と、親しい知人に相談したと言ったな」
「ええ……えっ?」
俺はまさかと思った。
「親しい知人というのが、その、ともやって男ですか。鳥宮さんの死に関わっていると?」
「そうとは言わない。しかし、恋人が困っているのを、何とかしてやろうと思うかもしれんな」
「でも、苦情をもらったくらいで、殺すというのは」
「普通は考えられん。動機が弱すぎる……しかし」
ホームに電車が入ってきた。
この時間、上りの普通電車を利用する乗客は少ない。がらんとした車両に乗り込み、ドアに近い席に座った。
電車が動き出してから、水野さんは再び話し始めた。
「なあ、東松くん。半年ほど前、この辺りで殺人事件があったろう」
「すみれ荘の殺人ですね」
「初めは、殺されたOLの恋人が被疑者として浮かんだよな。男の浮気が原因でしょっちゅう喧嘩して、アパート中に聞こえるような大声で怒鳴り合っていたとか。だが、よく調べてみると、隣に住む学生が『喧嘩の声がうるさい』と、たびたび文句を言っていたことがわかった。他の住人も被害者と揉めていたため、灯台下暗しの状態だよ。結局、犯人はその学生。隣人トラブルによる殺人だったわけだ」
その事件のことは、俺も捜査員の一人だったので、よく知っている。
騒音に耐えられず殺してしまったと、学生は凶行を認めた。学費稼ぎのアルバイトと卒業研究に忙殺されていた彼は、ほとんどノイローゼの状態だった。
普段から大人しい男なので、周囲の人間は驚いたという。
「誰が、いつ、殺意を抱くかわからない。私はいろんな可能性を考えたいと思っている」
「はい」
水野さんは、勘だけで動く人ではない。あらゆる材料から事件の背景を描き、一つ一つ検証していく。
鳥宮優一朗の件も、自殺にしては不自然と感じた根拠があるのだ。
考え込む水野さんの横で、俺はポケットから手帳を取り出し、手元に開いた。
これまでの捜査で知り得た事象を、細かくメモしてある。頭に入っている情報と併せ、最初から読み直してみた。
四月十八日 木曜日 午前5時18分――
鳥宮優一朗(24)は救急車の中で息を引き取った。
遺体が搬送された警察署で母親が事情聴取を受け、息子について捜査員に話した。
「優一朗は二年前、大学を卒業すると同時に家を出て、あのアパートに引越しました。就職した食品会社に近いからです。ところが、いつのまにか会社を辞めて、今は派遣会社で働いていたようです」
「ようです……?」
「はあ……今朝ほど大家さんから電話をいただき、初めて知りましたので」
実家は同じ緑市内にあるが、親子は疎遠だった。連絡を取り合わないらしく、母親は息子の現状について、詳しく知らない様子である。
「それにしても自殺だなんて。一体、何を考えているのか。弟の将来に悪い影響がでたらどうするのよ……」
遺体確認の際、母親がつぶやいた言葉から、親子間になんらかの事情があることが察せられた。
その後、母親は捜査員とともに、アパートの部屋に移動。鑑識作業はほぼ終わっていた。
十分ほど待つと、仕事を抜けてきた父親がようやく現れた。両親が揃ったところで捜査員は事情聴取を再開するが……
「どれくらいかかりますかね?」
父親は小さな物流倉庫に勤める社員で、「早く戻らないと、社長にどやされる」と、時間ばかり気にした。
息子が亡くなったというのに、まるで他人ごとだ。
呆れる捜査員に、「あいつが自殺する理由などまったくわからない」と、両親は迷惑そうに答えた。さらには、
「遺書がないですって? でも自分で飛び降りたんでしょう。自殺なら自殺で構わないです。解剖とか、面倒なことはしないでくださいよ。すぐに引き取って、葬儀を済ませたいので」
あまりの態度に、居合わせた捜査員は呆気に取られた。
彼らは本当に親子なのだろうか。
その後、父親は仕事に戻り、母親立ち会いのもとでの現場検証が行われた。
二人並んで、緑大学前駅までの夜道を傘を差して歩く。住宅街を抜けると、じきに駅の明かりが見えてきた。
「大家さんも大変だなあ」
「そうですね」
電車を待ちながら、水野さんと今日の捜査について話した。人影まばらなホームを、雨の音が包んでいる。
「鳥宮さんの死が自殺であろうとなかろうと、メゾン城田は事故物件だ。新規入居は確実に減るだろうし、今住んでいる人も退去しかねない。大家さんは、何が起きたのかはっきりさせて、再発防止に取り組むと言っているが」
「難しそうですね」
「ああ、死活問題だ」
水野さんの口調に同情がにじむ。俺も、人のよさそうな大家の顔を思い出し、同じ気持ちになった。
「一条春菜さんも、退去するだろうねえ」
「えっ?」
早く反応しすぎた。にやりとする水野さんと目が合い、しまったと悔やむ。
「やめてください。そんなんじゃありませんよ」
「はは、いいじゃないか。彼女も独身のようだし、好きになるのは自由だろ?」
「なっ……」
水野さんは勘が鋭い。捜査員として頼もしい限りだが、仕事以外にも能力を発揮するので困る。しかも、今のは考えすぎだ。
「別に、そこまで気になっていません。それに彼女、男がいますよ」
「どうしてわかるんだ」
水野さんが意外そうに訊く。
「あの人、俺を鳥宮と間違えて逃げた時、男の名前を叫びました」
「男の名前?」
――ともやさん、助けて! 助けてえっ!!
「『ともや』……あれは男の名前です」
女が男にすがる声。今も耳に残っている。
「ともやさん、か。恋人かな。それにしては、男っ気のない部屋だったぞ」
「付き合って間もないのかもしれません」
「なるほどねえ」
水野さんは顎に手をやり、何か考え始めた。
「東松くん。一条さんは苦情の件を、上司と、親しい知人に相談したと言ったな」
「ええ……えっ?」
俺はまさかと思った。
「親しい知人というのが、その、ともやって男ですか。鳥宮さんの死に関わっていると?」
「そうとは言わない。しかし、恋人が困っているのを、何とかしてやろうと思うかもしれんな」
「でも、苦情をもらったくらいで、殺すというのは」
「普通は考えられん。動機が弱すぎる……しかし」
ホームに電車が入ってきた。
この時間、上りの普通電車を利用する乗客は少ない。がらんとした車両に乗り込み、ドアに近い席に座った。
電車が動き出してから、水野さんは再び話し始めた。
「なあ、東松くん。半年ほど前、この辺りで殺人事件があったろう」
「すみれ荘の殺人ですね」
「初めは、殺されたOLの恋人が被疑者として浮かんだよな。男の浮気が原因でしょっちゅう喧嘩して、アパート中に聞こえるような大声で怒鳴り合っていたとか。だが、よく調べてみると、隣に住む学生が『喧嘩の声がうるさい』と、たびたび文句を言っていたことがわかった。他の住人も被害者と揉めていたため、灯台下暗しの状態だよ。結局、犯人はその学生。隣人トラブルによる殺人だったわけだ」
その事件のことは、俺も捜査員の一人だったので、よく知っている。
騒音に耐えられず殺してしまったと、学生は凶行を認めた。学費稼ぎのアルバイトと卒業研究に忙殺されていた彼は、ほとんどノイローゼの状態だった。
普段から大人しい男なので、周囲の人間は驚いたという。
「誰が、いつ、殺意を抱くかわからない。私はいろんな可能性を考えたいと思っている」
「はい」
水野さんは、勘だけで動く人ではない。あらゆる材料から事件の背景を描き、一つ一つ検証していく。
鳥宮優一朗の件も、自殺にしては不自然と感じた根拠があるのだ。
考え込む水野さんの横で、俺はポケットから手帳を取り出し、手元に開いた。
これまでの捜査で知り得た事象を、細かくメモしてある。頭に入っている情報と併せ、最初から読み直してみた。
四月十八日 木曜日 午前5時18分――
鳥宮優一朗(24)は救急車の中で息を引き取った。
遺体が搬送された警察署で母親が事情聴取を受け、息子について捜査員に話した。
「優一朗は二年前、大学を卒業すると同時に家を出て、あのアパートに引越しました。就職した食品会社に近いからです。ところが、いつのまにか会社を辞めて、今は派遣会社で働いていたようです」
「ようです……?」
「はあ……今朝ほど大家さんから電話をいただき、初めて知りましたので」
実家は同じ緑市内にあるが、親子は疎遠だった。連絡を取り合わないらしく、母親は息子の現状について、詳しく知らない様子である。
「それにしても自殺だなんて。一体、何を考えているのか。弟の将来に悪い影響がでたらどうするのよ……」
遺体確認の際、母親がつぶやいた言葉から、親子間になんらかの事情があることが察せられた。
その後、母親は捜査員とともに、アパートの部屋に移動。鑑識作業はほぼ終わっていた。
十分ほど待つと、仕事を抜けてきた父親がようやく現れた。両親が揃ったところで捜査員は事情聴取を再開するが……
「どれくらいかかりますかね?」
父親は小さな物流倉庫に勤める社員で、「早く戻らないと、社長にどやされる」と、時間ばかり気にした。
息子が亡くなったというのに、まるで他人ごとだ。
呆れる捜査員に、「あいつが自殺する理由などまったくわからない」と、両親は迷惑そうに答えた。さらには、
「遺書がないですって? でも自分で飛び降りたんでしょう。自殺なら自殺で構わないです。解剖とか、面倒なことはしないでくださいよ。すぐに引き取って、葬儀を済ませたいので」
あまりの態度に、居合わせた捜査員は呆気に取られた。
彼らは本当に親子なのだろうか。
その後、父親は仕事に戻り、母親立ち会いのもとでの現場検証が行われた。
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