恋の記録

藤谷 郁

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正義の使者〈1〉

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一条春菜への聞き込みを終えた俺と水野警部補は、メゾン城田をあとにした。

外は雨が降り続いている。


「東松くん、大家さんの家に寄るぞ」

「はい」


水野さんは傘を差し、早足で進む。聞き込み先でコーヒーなど飲んでいたので遅くなってしまった。


(507号室の一条春菜さん……か)


俺を化け物呼ばわりした女の顔を目に浮かべた。

五階の外廊下から、彼女が帰宅する姿を認めた時、まさかと思った。電車の中でぶつかってきたあの女が、転落死した鳥宮の隣人とは驚きである。

思わず迎えに出たのは、興味が湧いたからだ。刑事としてか、個人としてか、それは判然としない。

しかし、ひどい再会だった。

コワモテは自覚しているが、あれほど怖がられたのは初めてだ。鳥宮と勘違いしたとはいえ、お化けはないだろう。



「どうした、なに笑ってるんだ?」


水野さんに話しかけられ、現実に戻る。いつの間にか、大家の自宅前に来ていた。


「俺、笑ってましたか」

「えらく楽しそうにな。ふふ……」


意味ありげな視線から顔をそらした。水野さんは、仕事以外にも勘が働く人だ。


「早く用件を済ませましょう。遅くなりますよ」

「そうだな」


インターホンを鳴らすと、大家がすぐに出てきた。水野さんはまず捜査協力への礼を述べ、そのあと一条さんから預かった苦情の紙について話した。


「こんなトラブルがあったなんて、まったく知りません。一条さんは、管理会社にも連絡してないのですか?」


大家はなにも知らなかった。また、鳥宮優一朗は入居して二年になるが、彼が周りとトラブルを起こしたことはないと言った。


「他の住人はいかがです。こういった形での苦情は、以前にもありましたか」

「いいえ、初めてですよ。苦情をポストに入れるなんて」


大家は不思議そうに首をひねる。水野さんは俺と目を合わせてから、遠慮がちに用件を切り出した。


「申し訳ありませんが、大家さん立ち会いのもとで、防犯カメラのデータを見せていただけませんか。一条さんのポストに苦情を入れたのが鳥宮さんだとすれば、それを確認したいのですが」


メゾン城田は、防犯カメラが二か所に設置されている。エントランスと、もう一つの出入口である外階段下だ。

駐車場にもあれば、転落時の状況を確認することができたのだが、昔ながらのアパートゆえか、カメラは必要最小限の配置だった。


「ことがはっきりするのであれば、調べてください」


大家は快諾し、すぐ管理会社にも連絡すると約束した。


「住人の皆さんに、今後も安心して暮らしてほしいですから。他にも協力できることがあれば、なんでも仰ってくださいよ」

「ありがとうございます。では、お言葉に甘えてもう一つ、お願いなんですが」


水野さんは、鳥宮が転落死する前後の、アパートへの人の出入りを確認したいと頼み、大家はそれも受けた。

強制ではなく、任意である。

実のところ警察では、初動捜査と検視結果から、鳥宮の死は自殺だろうと判断されていた。

しかし、自殺にしては不自然な点があるという水野さんの声に課長が耳を傾け、少し捜査することになった。

何も出なければ自殺だろうが、現時点では死因の種類は断定できない。

課長は俺を呼び、『大きなヤマが片付いたばかりで余裕があるだろう』と、水野さんの補助を命じた。

俺は他にも事件を担当している。

仕事に余裕などあるわけないでしょう、と言いたいところだが、水野さんには日頃めんどうを見てもらっているし、なにより勉強になると思い、引き受けたのだ。

とはいえ、ここまで突っ込んで調べるとは、意外である。水野さんはどうやら、鳥宮の死の背景に、なんらかの絵を見ているようだ。

予断ではなく、経験に裏打ちされたイメージ。ベテラン刑事にしか見えない絵に、彼女も描かれているのだろうか――

俺はふとそんなことを思い、そうであってほしくないと感じる自分に戸惑った。

初めは俺も、もし鳥宮の転落死が自殺ではなく事件なら、両隣に住む人間を注視するつもりだった。

隣人トラブルによる事件は珍しくない。げんにこの近所でも、すみれ荘というアパートで殺人事件が起きている。半年ほど前の出来事であり、俺も捜査本部の一員だった。

だが……一条春菜に会い、彼女は真っ白な人間だと確信した。

それは別に、ジャンパーを乾かしてもらったからではない。

警察官として六年間、様々な犯罪者に接してきた。ベテラン刑事には遠く及ばないが、若造なりの勘である。
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