恋の記録

藤谷 郁

文字の大きさ
上 下
42 / 236
奇怪な日常

12

しおりを挟む
「私、引越そうと思ってるんです」

『ああ、そのほうがいい。君のアパートはいまや事故物件だ。住み続けるのは精神衛生上、よろしくないね』


智哉さんと話しながら、コンビニで買った賃貸情報誌をぱらぱらとめくる。職場に近くて、家賃がここと同じくらいの物件はないかしら……

いや、そんな条件よりも大事なことがある。

次の部屋を決める時、前の住人がなぜ引越したのか、今度は不動産屋に確かめようと思う。隣人トラブルで出て行ったとか、もしもそんな理由なら最初から除外したい。


『もしもし、ハル、聞いてる?』

「あ、ごめんなさい」


いけない、いけない。せっかく智哉さんが相談に乗ってくれているのに。

賃貸情報誌を閉じて、電話の声に集中した。


『だから、すぐにそこを引き払って、僕のところに来ないか』

「……え」


言葉の意味がよくわからず、ぽかんとする。


「僕のところ……って、あの、智哉さんのマンションにってことですか?」

『そう。部屋は余ってるし、じゅうぶん二人で暮らせるよ』


ええーっ!?

と、思わず叫びそうになった。驚きと戸惑いと嬉しさがごっちゃになり、パニックを起こしそうになる。


『僕のマンションなら通勤に便利だろ。建物もプライバシーに配慮した設計で、セキュリティも万全だ。安心して暮らせると思う』

「そ、そうですよね」


思いも寄らぬ提案だが、説得力のある誘いに気持ちが大きく傾く。安心して暮らせるという要素を、私は今、なによりも欲している。

だけど、私と智哉さんは付き合い始めたばかりの、まだまだ浅い関係だ。なのに、いきなり同居というのは、飛ばしすぎな気がする。

もちろん、とても嬉しいけれど。


「ありがとうございます。でも……ご迷惑では」

『迷惑だったら、こんな提案はしない。ハルさえよければ、いつでも歓迎するよ』


どうやら智哉さんは本気だ。声音から気持ちが伝わってくるが、それでも私は決められなかった。長いこと恋愛から遠ざかっていたので、恋人に甘えたり頼ったりする、かげんがわからず……


『それに、この辺りのスーパーは、夜遅くまで開いてるぞ』

「あ……」


智哉さんのユーモラスな口調に、つい顔がほころぶ。


「覚えていてくれたんですね」

『うん』


不安で堪らなかった夜、智哉さんに電話をかけた。あの時の何気ない会話と彼の優しさに、どれだけ励まされたことか。

智哉さんはいつも、私に寄り添ってくれる。

付き合いが浅いとか、そんなの関係なく甘えればいい。恋人として、誰よりも信頼できる男性なのだから。


「ありがとう、智哉さん。いつか必ず、恩返ししますね」


真面目に言ったのだが、電話口の彼は楽しそうに笑う。その明るさに、またしても励まされる。


『いいね、君は。そんなところが僕は好きなんだ』

「……!」


どうしてこう、さらりと言えるのかな。

ストレートな言葉に胸を射貫かれ、私は返事もできない。火照り始める頬を手で押さえながら、ぎこちない動きで窓辺に寄った。カーテンを開けると、雨がまだ降り続いていた。


「えっと……じゃあ、なるべく早く退去の手続きをしますね。引越しの準備を整えて、日にちが決まったら智哉さんに連絡を」

『いや、すぐにでもおいで。細かい段取りはあとでいい』

「え? でも」

『本当は、今から迎えに行きたいくらいなんだ。怖がりな君が、その部屋で一晩過ごすことを考えたら、かわいそうで』


智哉さんの口調は真剣だ。不安な環境に置かれた私のことを、心から案じてくれるのがわかる。

だけど、少しだけ過保護な気がした。

彼は前にも私について「神経質で怖がり」だと言った。間違ってはいないけれど、意外とのんきな面もあるし、そこまで弱くないと思う。かわいそうというのは大げさである。


「大丈夫ですよ。一晩や二晩、耐えられます」

『ハル』


低い呼びかけとともに、ためいきが聞こえた。


『昼間、きちんと話をすればよかったな。失敗した……』


いかにも残念そうに言うので、何だか悪い気がした。これでも甘えてるつもりだけど、もっともっと、いっそ図々しいくらい甘えたほうが、彼は安心するのかしら――

私は焦燥感にかられ、黙り込む電話を耳に押しあてた。


「もしもし、智哉さん。私のことをそんなふうに心配してくれて、本当にありがとう。でも、失敗したなんて言わないで」

『うん……』


元気のない声。私はカーテンを閉めて部屋に向き直り、壁時計を見上げた。


「今から荷造りします。迎えに来てくれますか?」


私は智哉さんの恋人。

彼の想いに応えるのが幸せなのだと自覚した。

しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

探偵SS【ミステリーギャグ短編集】

原田一耕一
ミステリー
探偵、刑事、犯人たちを描くギャグサスペンスショート集 投稿漫画に「探偵まんが」も投稿中

彩霞堂

綾瀬 りょう
ミステリー
無くした記憶がたどり着く喫茶店「彩霞堂」。 記憶を無くした一人の少女がたどりつき、店主との会話で消し去りたかった記憶を思い出す。 以前ネットにも出していたことがある作品です。 高校時代に描いて、とても思い入れがあります!! 少しでも楽しんでいただけたら幸いです。 三部作予定なので、そこまで書ききれるよう、頑張りたいです!!!!

怪奇事件捜査File1首なしライダー編(科学)

揚惇命
ミステリー
これは、主人公の出雲美和が怪奇課として、都市伝説を基に巻き起こる奇妙な事件に対処する物語である。怪奇課とは、昨今の奇妙な事件に対処するために警察組織が新しく設立した怪奇事件特別捜査課のこと。巻き起こる事件の数々、それらは、果たして、怪異の仕業か?それとも誰かの作為的なものなのか?捜査を元に解決していく物語。 File1首なしライダー編は完結しました。 ※アルファポリス様では、科学的解決を展開します。ホラー解決をお読みになりたい方はカクヨム様で展開するので、そちらも合わせてお読み頂けると幸いです。捜査編終了から1週間後に解決編を展開する予定です。 ※小説家になろう様・カクヨム様でも掲載しています。

戦憶の中の殺意

ブラックウォーター
ミステリー
 かつて戦争があった。モスカレル連邦と、キーロア共和国の国家間戦争。多くの人間が死に、生き残った者たちにも傷を残した  そして6年後。新たな流血が起きようとしている。私立芦川学園ミステリー研究会は、長野にあるロッジで合宿を行う。高森誠と幼なじみの北条七美を含む総勢6人。そこは倉木信宏という、元軍人が経営している。  倉木の戦友であるラバンスキーと山瀬は、6年前の戦争に絡んで訳ありの様子。  二日目の早朝。ラバンスキーと山瀬は射殺体で発見される。一見して撃ち合って死亡したようだが……。  その場にある理由から居合わせた警察官、沖田と速水とともに、誠は真実にたどり着くべく推理を開始する。

ファクト ~真実~

華ノ月
ミステリー
 主人公、水無月 奏(みなづき かなで)はひょんな事件から警察の特殊捜査官に任命される。  そして、同じ特殊捜査班である、透(とおる)、紅蓮(ぐれん)、槙(しん)、そして、室長の冴子(さえこ)と共に、事件の「真実」を暴き出す。  その事件がなぜ起こったのか?  本当の「悪」は誰なのか?  そして、その事件と別で最終章に繋がるある真実……。  こちらは全部で第七章で構成されています。第七章が最終章となりますので、どうぞ、最後までお読みいただけると嬉しいです!  よろしくお願いいたしますm(__)m

天泣 ~花のように~

月夜野 すみれ
ミステリー
都内で闇サイトによる事件が多発。 主人公桜井紘彬警部補の従弟・藤崎紘一やその幼なじみも闇サイト絡みと思われる事件に巻き込まれる。 一方、紘彬は祖父から聞いた話から曾祖父の死因に不審な点があったことに気付いた。 「花のように」の続編ですが、主な登場人物と舞台設定が共通しているだけで独立した別の話です。 気に入っていただけましたら「花のように」「Christmas Eve」もよろしくお願いします。 カクヨムと小説家になろう、noteにも同じ物を投稿しています。 こことなろうは細切れ版、カクヨム、noteは一章で1話、全十章です。

そして、天使は舞い降りた

空川億里
ミステリー
 舞台は東京都の北区。赤羽大学の女子寮で、不可解な事件が起きるのだが……。

処理中です...