恋の記録

藤谷 郁

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奇怪な日常

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外廊下の突き当りに二つの人影があった。一人は大家さん。もう一人のスーツ姿の男性は刑事だと、東松さんが教えてくれた。


「東松くん、何をやってるんだ。下で悲鳴が聞こえたが、君が原因かね」

「すみません。ちょっと、怖がられてしまいまして」

「やっぱりか」


東松さんの上役らしき刑事が、私にぺこりと頭を下げる。四十代半ばくらいの小柄な男性だ。体格も雰囲気も、いかつい東松さんとは対照的である。


「緑署の水野みずのと申します。うちの東松が失礼しました。いえね、あなたがお帰りになるのが見えたので、彼が出迎えに行くと言いまして。やっぱり止めたほうが良かったなあ。鬼瓦のような顔に、びっくりされたのでしょう」

「いえ、そんな……あの、こちらこそ大げさに騒いでしまって、すみません」


東松さんは黙っている。

びっくりした原因は他にもあるが、とりあえず今は無難に対応した。


「一条さん。お疲れのところ、申しわけありません。こちらの刑事さんが、鳥宮さんのことで住人の皆さんにお尋ねしたいことがあるそうで」


大家さんが間に入り、説明を始めた。大家さんこそ、かなり疲れた様子である。


「鳥宮さんは自殺だと思ったんですけど、どうも状況的に、不審な点があるみたいですよ」

「えっ?」


大家さんは、506号室のドアを指差した。

現場保存用の黄色いテープが貼られている。指紋を採取したのか、ノブを中心に粉が残るのがわかった。


「不審な点というのは、どういう……」

「ちょっとお待ちを。その辺りは私どもから話しますので」


水野さんが、私と大家さんのやり取りを遮る。先ほどまでとは打って変わって、鋭い語調だった。


「一条さん、お時間をいただいてもよろしいですか」

「え、ええ……それは構いませんが」


水野さんは目つきも変わっている。エレベーターの中で東松さんが私を凝視した、あの目と同じだ。


「では、早速ですが……」

「あっ、ちょっと待ってください、刑事さん」


水野刑事が聞き込みを始めようとすると、大家さんが口を挟んだ。


「何でしょうか」

「一条さん、怪我してますよ」


大家さんの指摘で、全員の目が私の膝に集まる。デニム生地が破れ、血が滲み出ていた。さっき転んだ時、地面に膝を打って傷を負ったようだ。

全然、気付かなかった。


「本当だ、これは手当てが先だな」

「自分、絆創膏持ってます」


東松さんがポケットを探り、私に絆創膏を差し出す。可愛いうさぎ柄の絆創膏だ。


「……えっ」


意外な趣味だと思って見上げると、


「薬局でもらった、試供品ですよ」

「あ、ああ……なるほど」


ぶっきらぼうな返事に、つい噴きそうになる。

コワモテ男とファンシーなうさぎが、膝の痛みも気付かぬほど緊張していた私を、リラックスさせてくれた。

というより、私はずっと東松さんを警戒していたのだ。警戒する必要などないのに。


「すみません、部屋に入って急いで手当てしますので。それと……」


今頃になって、服が濡れていることに気付いた。

東松さんから逃げて、雨の中に飛び出したから。つまり、彼も同じ状態なのだと、初めて思い至る。


「膝が痛くて、立ったままでは辛いので、もしお話が長くなるようなら、上がってもらえますか」


予想外の提案だったらしい。

刑事二人は顔を見合わせ、少しだけためらいを見せてから承諾した。



傷の手当てをしたあと、素早く着替えてから外で待っている刑事達を呼んだ。大家さんは帰ったらしく、いなかった。

彼らを部屋に招き入れたのは、警察の聞き込みに協力するというより、東松さんに上着を乾かしてもらいたいというのが主な理由だ。彼を化け物呼ばわりし、迷惑をかけたお詫びである。

そして、私も彼らに確認したいことがあった。

鳥宮という人物について。

亡くなった鳥宮さんは、殴り書きの苦情をポストに入れるような人間だったのか。もしそうだとしたら、場合によっては情報提供が必要になるかもしれない。

智哉さんが言ったように、私は『不安な思いをさせられた被害者』なのだから。



「しかし、静かなアパートですねえ。まるで、誰も住んでいないかのように」


水野さんはコーヒーを飲み、ふうと息をついた。

その隣に座る東松さんは窓のほうを向き、何か考えている。カーテンを閉めてあるのに、何が見えるのだろう。


「人の気配がしないんですよ。さっきだって、一条さんの悲鳴を聞いても、様子を見にいく人が誰もいなかった。無関心というか……これだけ部屋数があるのに、ちょっと寂しいですな」


実際そのとおりなので、私は頷いた。

確かにアパートの住人は、互いに干渉しない。でも今は特に、無理もない状況なのだ。

鳥宮さんのことがあったばかりだし、余計なトラブルに巻き込まれたくない気持ちは、よくわかる。


「あの、東松さん。良ければ召し上がってください」


さっきから窓ばかり見ている彼に、茶菓子をすすめた。


「あ、どうも。いただきます」


大きな手でクッキーをつまみ、一口で食べた。怖い顔が少し和むのを見て、思わず笑いそうになる。

甘い菓子が好きなのかもしれない。


「何です?」

「い、いえ別に。コーヒーもどうぞ」


コワモテ男を前に、私は妙な心地だった。

あんなにも恐れていた彼と、今は普通に接している。誤解が解けたとはいえ、なぜこの人に、親しみのようなものを感じるのか不思議だ。

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