恋の記録

藤谷 郁

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奇怪な日常

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緑大学前駅で降りた私は、好物のみかんゼリーを買うため、コンビニに立ち寄った。

あの部屋で夜を過ごすことを思うと、食欲がわかない。どうせ眠れないだろうし、せめて好きなデザートでも食べながら引越し先を探そう。

一日も早く、メゾン城田を出る。それが今の自分にとって、最優先事項だ。


みかんゼリーをカゴに入れてから、雑誌コーナーに回った。引越し先はネットで探すつもりだが、賃貸情報誌があれば一応チェックしておきたい。

雨のためか、いつもより店内は空いている。店員が二人、棚を補充しながら会話するのが聞こえた。


「店長に聞いたんだけど、あのお客さん亡くなったらしいぞ」

「あのって、どのお客さん?」

「ほら、この前めちゃくちゃクジ引いた人」

「えっ、マジで?」


何の話か知らないが、仕事中にお喋りするのは感心しない。しかも、特定の客の噂話など。


(あ、あった……)


賃貸情報誌を見つけて、パラパラとめくった。


「しょっちゅう来るけど、なーんにも買わずに、長時間立ち読みして帰る人だよな」

「そうそう。だから、くじを引きまくったのには驚いたよ。スナック菓子とかカップラーメンも、山ほど買ったし」

「ふうん……えっ、でも何で死んだってわかったの?」

「それがさ」


ボソボソと小さな声になった。

情報誌をかごに入れて、ちらりと背後を見やる。二人とも若い。おそらく学生アルバイトだろう。


「うわあ、マジで?」

「びっくりだろ? この前、あんなに生き生きとクジ引いてたのにさ。人間って、いつどうなるかわかんないよなあ」


私はレジに進み、「すみませーん」と彼らに声をかけた。一人が慌てて飛んできて、レジに入る。

愛想は良いが、軽い印象。男の子だけど、どことなく土屋さんを連想させる。


「ありがとうございましたあ!」


明るい声を背に、店を出た。


そういえば、土屋さんのことも何とかしなければ――さっきの店員を見て、彼女を思い出した。

アパートは引越せば済むけど、人間関係はそんな簡単に切ることができない。土屋さんと私の間には、仕事というしがらみがある。

縁が切れるとしたら、どちらかが会社をやめる時だ。


「まったく、頭が痛いわ……ん?」


私は目を瞬かせた。傘立てに入れたはずの傘がない。


「ええっ、どうして」


ひょっとして、また電車内に置き忘れた?

いや、今は雨が降っている。私は傘を差して、駅から歩いてきた。雨の雫を払って傘立てに入れたという、確かな記憶がある。

盗まれたのだ。


「ちょっと、嘘でしょ……」


ほんの数分、コンビニで買い物する隙に、誰かが持って行ったのだ。しかも、お気に入りの傘を!

降り続く雨をしばし眺めた後、諦め気分で店内に戻る。

500円のビニール傘をレジに持って行くと、先ほどの店員が状況を察したのか、同情の目を向けてきた。


「ひょっとして、盗られちゃいました? たまにあるんスよねえ。ケーサツに連絡します?」

「……いえ、結構です」

「ですよね」


軽い口調にムッとするが、黙って代金を払う。彼に八つ当たりしてもしょうがない。傘の管理は客側の責任だ。

それに、傘泥棒は立派な犯罪だが、現行犯でもない限り、警察がわざわざ動くとは思えない。

というか、私は何だか疲れてしまった。

とことんついてない自分の現状にうんざりする。早く引越して運気を変えたいと、本気で思った。




アパートに着く頃、雨脚が強くなってきた。


「よく降るなあ。まだ四月なのに、梅雨みたい」


夜の中、メゾン城田が暗く沈んでいる。

思わず立ち止まり、雨に濡れる建物をぼんやりと眺めた。いつもより窓の明かりが少ないのは、気のせいだろうか。駐車場もがらんとしているような……


「ああもう、早く部屋に入ろう」


コワモテ男が落下した地点を見ないようにして、エントランスへと小走りした。

私はこれまで、幽霊を見たことがないし、それらしき体験も皆無だ。でも、薄暗い場所にいると、何か見てしまいそうな、心理的な恐怖を感じる。

公園の植え込み、木の陰、頼りない外灯……そこにある何もかもが、恐怖をかき立てる演出だった。


エレベーターの前に立つと、ちょうど籠が下りてくるところだ。このアパートに住むのは自分一人ではないと思い出し、少しホッとする。


(そうよ、私だけじゃない)


今朝、初めて顔を合わせた彼女、504号室のスギタさんも不安そうにしていた。自殺者が出たアパートで夜を過ごすのは、誰だって怖い。私だけじゃない。

籠が一階に着いた。

降りる人のじゃまにならないよう横に立ち、ドアが開くのを待つ。静かなエントランスに、ドアモーターと微かな摩擦音が響く。

大きな影が、ゆっくりと出てきた。


「……え」


私はその影を見上げ、固まった。開いた口を閉じることも、瞬きすらできず、まさに硬直する。


そんな、そんなことって……


大きな影は、私を睨み下ろした。見覚えのある、恐ろしい目つき。

でも今感じる恐怖は、あの時の比ではない。

なぜなら、この男は既に死んでいる、幽霊だから――


「きゃああーーーーーー!!」


自分でも驚くような叫び声を上げた。

コワモテ男の幽霊が、ビクッと震える。幽霊がなぜ震えるのか、私は考える間もなく傘を握りしめ、めちゃくちゃに振り回した。

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