恋の記録

藤谷 郁

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奇怪な日常

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穏やかで頼りになる、良い店長だと思っていたのに。実は違ったのだろうか?

いやでも、彼は愛妻家として有名だ。職場の女性にセクハラするような人には思えない。

だけど……


――ねえ、一条さん。お客様の中に、印象と実際が違う方がいらっしゃいますよね。穏やかに見えてヒステリックだったり、柄が悪そうなのに紳士だったり。コワモテさんも案外、話せば優しい人かもしれませんよ。


コワモテ男の件で相談した私への、店長のアドバイスを思い出す。あれは、そのまま店長に当てはまるのではないか。

深く考えたくなくて、私は頭を振り、売り場の仕事に集中した。



十三時ちょうどに私は事務所を出て、六階にあるカフェ『フローライト』に向かった。

制服の上にカーディガンを羽織っただけの野暮な格好だが、仕方ない。のんびり着替えていたら、休憩時間がなくなってしまう。


「すみません、お待たせしました」


水樹さんはカフェの前で待っていた。彼も仕事用のスーツ姿である。

急いで来た私を見て優しく微笑み、


「慌てなくていいよ。さあ、中に入ろう」


肩に手を回し、リードしてくれる。

同じように触れられても、店長には不快、水樹さんにはときめきを感じる。

それはもちろん、私が水樹さんに恋をしているから。彼以外の男性を、私の本能が拒否しているのだ。


初めて水樹さんと出会ったのは、このカフェ。そして、あの時と同じ窓際の席で二人は向き合う。

窓の外は雨。朝方に比べたら小雨だが、空は暗く、街は陰鬱な色に染まっている。


「水樹さん、昨夜はすみませんでした。ご迷惑をおかけしてしまって」


私はまず、アパートまで送ってもらったことを詫びた。酔って介抱されるなど初めてのことで、あらためて恥ずかしくなる。


「ああ、そんなこと。デートは楽しかったし、思いがけず君の部屋を訪ねることができて、僕はラッキーだと思ってるよ」

「えっ、あの……それなら良かったのですが」


彼の気遣いあふれる返事に、うまく反応できない。気の利いた言葉が出ず、私はメニューに目を逸らした。


「まずは腹ごしらえしよう。それから、話を聞かせてもらうよ」


水樹さんを見ると、真顔だった。急に会いたいと連絡した私の用事が、昨夜のお詫びだけではないと、彼は察している。


「水樹さん……ありがとう」


私の気持ちを理解し、守ろうとしてくれる、彼の存在に心から感謝した。

ランチプレートはすぐに運ばれてきた。私達は言葉少なに食事をし、コーヒーがテーブルに置かれる頃、本題に入る。

私の話に、水樹さんは静かに耳を傾けていた。その冷静な態度は私を落ち着かせ、隣人の死に対する恐怖を薄めてくれた。


「そうか……しかし自殺とは、意外だったな」

「はい。とても自殺するようなタイプに思えなくて、びっくりしました」

「コワモテの男、か」


水樹さんはゆっくりとコーヒーを飲んだ。私は休憩時間の残りを気にしながら、彼が何か言うのを待つ。


「ところで、警察の事情聴取を受けた時、苦情の件は話さなかった?」

「苦情の件……」


私は初めて、あっと気が付いた。

特に質問されなかったので、コワモテ男から苦情をもらったことを、警察に話していない。


「私、まったく頭になくて。話したほうが良かったのかしら」


水樹さんはカップを置き、難しい顔で答えた。


「いや、今となっては無意味だな。変に関わりを漏らせば、もし自殺ではなかった場合、あらぬ疑いをかけられる」

「ええっ?」


どういう意味だろうと、しばし考える。

自殺でなければ他殺だ。つまり、苦情を受けたことが殺人の動機と考えられ、私が容疑者になる?


「そんな、飛躍しすぎでは……苦情をもらったくらいで人を殺すなんて」

「うん、まあそうだな。さすがにそれは、普通じゃない」


水樹さんはなぜかクスッと笑う。大げさな発想だったと、自嘲したのか。


「どうしましょう。もう、警察に何か訊かれることはないと思うけど」

「君は、彼が自殺したと思う?」

「ええ。状況的に」


自殺するような人に見えなくても、実際はそうではなかったのだ。人は見かけに寄らぬのだと、店長の顔を頭に浮かべた。


「それなら、別に話さなくてもいい。だけど、もし今度何か訊かれたら、一応報告すべきかな」

「苦情をもらったことを?」

「そう。考えてみれば、隠す必要がない。君は加害者どころか、隣人に怖い思いをさせられた被害者なのだから」


被害者――

それも大げさな表現だと思うが、間違ってはいない。確かに私は、あの苦情に恐怖を感じた。何しろ、苦情主はコワモテ男である。


「分かりました。もしも警察に訊かれたら、正直に答えます」


だが、そんな機会はないだろう。それに私は、あのアパートを早々に出るつもりだ。コワモテ男との縁は、きっぱりと切れる。


「水樹さんと話して、気持ちが落ち着きました。ありがとうございます」

「それは何よりだ。ところで、春菜。『水樹さん』と呼ぶのはやめないか」


急に話題が変わって、私はぽかんとする。というか、今、春菜って呼んだ?

彼はテーブルに身を乗り出し、まっすぐに見つめてきた。
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