恋の記録

藤谷 郁

文字の大きさ
上 下
32 / 236
奇怪な日常

2

しおりを挟む
状況が把握できない。

504号室のスギタさんは大変なことが起きたと言った。

そうだ、大変なことだ。

アパートの住人が飛び降り自殺したのだ。

しかも、私の隣の部屋に住む、あのコワモテ男が。


「信じられない」


駅への道を急ぎながら、私はつぶやく。夢でも見ている気分だ。


「信じられない。自殺するような人に見えなかったのに」


駅前のコンビニに差し掛かったところで後ろを振り向き、もう一度つぶやいた。

まっすぐに伸びる歩道。いつもと同じ景色なのに、まったく違って見える。私はこの町に引っ越したその日、良い思い出がたくさんできますようにと願った。

こんな状況になるとは、予想だにせず。


私は前に向き直り、駅に足を進めた。とにかく仕事に行かねば。そして、水樹さんに会って、今朝のできごとを報告するのだ。


(仕事が終わった後でもいいけど、できれば昼休憩に会いたい。メールしておこう)


ホームで電車を待つ間に、急いでメールを打った。用件は告げず、『昼休憩にお会いできませんか。休憩は十三時からです』とだけ。

送信後、すぐに着信音が鳴った。


《 OK 『フローライト』で待ってる 》


「水樹さん……」


思わぬできごとに動揺していた私は、ようやく落ち着きを取り戻す。彼の存在が、これほど大きく感じられるなんて……

こんな状況なのにときめいてしまう自分に呆れながら、電車に乗り込む。そして、ドア付近の定位置に収まってから、今朝のアパートの様子を頭に思い浮かべた。


メゾン城田の前に警察車両が停まり、現場となった駐車場周りには野次馬が何人か集まっていた。

雨の中、警察官が建物に近い地面を調べていた。あの辺りにコワモテ男が落下したのだ。その上方には、あの男が住んでいた506号室のベランダがある。

そして、隣は私の部屋だ。

第一発見者は新聞配達員。発見時、コワモテ男はまだ息があったらしく、救急車で搬送されたが間もなく死亡が確認されたという。


(警察の事情聴取なんて初めてだから、緊張しちゃった。刑事ドラマみたいだったな)


警察は第一発見者や大家の他、アパートの住民にも事情聴取を行った(その時、コワモテ男の名前が鳥宮とりみやだと初めて知った)

事情聴取の内容は、午前四時半から五時の間、妙な声や物音を聞かなかったか。気付いたことはないか――など。

特に、506号室の両隣、下の部屋の住人には丁寧に聴き取っている。本当に自殺かどうか判断するための初動捜査だと、大家が青ざめた顔で住人に説明していた。

変死の場合、そういった調査をするらしい。


(もし自殺でなければ、他殺?)


コワモテ男が自殺するなど考えられない。だけど、こんな静かな町で殺人事件なんて、もっと考えられない。

私はそこまで考え、ふと、あることを思い出す。以前、山賀さんが言っていた、アパートの隣人トラブルによる殺人事件だ。

その事件は、城田町で起きている。

コワモテ男の人相をあらためて思い出す。いかにも悪人面だった。

もしかしたら、誰かの恨みを買い、殺されたのかもしれない。柄の悪い仲間同士のいざこざとか。

いくら田舎町でも、事件が起きる時は起きる。

だけど、やはり納得できないのは、殺人事件にしては状況が不自然だから。

コワモテ男が転落したとされる時間帯、住人の誰も、不審な物音や人が言い争うような声など聞いていないという。

私も眠ってはいたが、隣のベランダで大きな音がすれば目を覚ますだろう。しかし何も気付かなかった。

つまり、いつもと変わらぬ、静かな夜明け前だったのだ。

電車が本町駅に着いた。私は傘を握りしめて、ホームの雑踏に紛れた。

同じ電車にコワモテ男が乗っていたらどうしよう。毎日不安だったことを思い、虚しい気持ちになる。

苦情の件で気掛かりだった隣人が死んだ。

言ってみれば、隣人問題による不安が解消されたわけだが、手放しで喜べない。

それどころか、怖くて体が震える。


「もうあの部屋には住めない。住みたくない」


504号室のスギタさんが言っていた。メゾン城田は事故物件になったと。

コワモテ男の死は、大家だけでなく、私達住人にも大きなダメージを与えた。

虚しさに包まれながら、本当に大変なことが起きたのだと、私は実感していた。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

白い男1人、人間4人、ギタリスト5人

正君
ミステリー
20人くらいの男と女と人間が出てきます 女性向けってのに設定してるけど偏見無く読んでくれたら嬉しく思う。 小説家になろう、カクヨム、ギャレリアでも投稿しています。

ダブルネーム

しまおか
ミステリー
有名人となった藤子の弟が謎の死を遂げ、真相を探る内に事態が急変する! 四十五歳でうつ病により会社を退職した藤子は、五十歳で純文学の新人賞を獲得し白井真琴の筆名で芥山賞まで受賞し、人生が一気に変わる。容姿や珍しい経歴もあり、世間から注目を浴びテレビ出演した際、渡部亮と名乗る男の死についてコメント。それが後に別名義を使っていた弟の雄太と知らされ、騒動に巻き込まれる。さらに本人名義の土地建物を含めた多額の遺産は全て藤子にとの遺書も発見され、いくつもの謎を残して死んだ彼の過去を探り始めた。相続を巡り兄夫婦との確執が産まれる中、かつて雄太の同僚だったと名乗る同性愛者の女性が現れ、警察は事故と処理したが殺されたのではと言い出す。さらに刑事を紹介され裏で捜査すると告げられる。そうして真相を解明しようと動き出した藤子を待っていたのは、予想をはるかに超える事態だった。登場人物のそれぞれにおける人生や、藤子自身の過去を振り返りながら謎を解き明かす、どんでん返しありのミステリー&サスペンス&ヒューマンドラマ。

PetrichoR

鏡 みら
ミステリー
雨が降るたびに、きっとまた思い出す 君の好きなぺトリコール ▼あらすじ▼ しがない会社員の吉本弥一は彼女である花木奏美との幸せな生活を送っていたがプロポーズ当日 奏美は書き置きを置いて失踪してしまう 弥一は事態を受け入れられず探偵を雇い彼女を探すが…… 3人の視点により繰り広げられる 恋愛サスペンス群像劇

マクデブルクの半球

ナコイトオル
ミステリー
ある夜、電話がかかってきた。ただそれだけの、はずだった。 高校時代、自分と折り合いの付かなかった優等生からの唐突な電話。それが全てのはじまりだった。 電話をかけたのとほぼ同時刻、何者かに突き落とされ意識不明となった青年コウと、そんな彼と昔折り合いを付けることが出来なかった、容疑者となった女、ユキ。どうしてこうなったのかを調べていく内に、コウを突き落とした容疑者はどんどんと増えてきてしまう─── 「犯人を探そう。出来れば、彼が目を覚ますまでに」 自他共に認める在宅ストーカーを相棒に、誰かのために進む、犯人探し。

✖✖✖Sケープゴート

itti(イッチ)
ミステリー
病気を患っていた母が亡くなり、初めて出会った母の弟から手紙を見せられた祐二。 亡くなる前に弟に向けて書かれた手紙には、意味不明な言葉が。祐二の知らない母の秘密とは。 過去の出来事がひとつづつ解き明かされ、祐二は母の生まれた場所に引き寄せられる。 母の過去と、お地蔵さまにまつわる謎を祐二は解き明かせるのでしょうか。

【完結】リアナの婚約条件

仲 奈華 (nakanaka)
ミステリー
山奥の広大な洋館で使用人として働くリアナは、目の前の男を訝し気に見た。 目の前の男、木龍ジョージはジーウ製薬会社専務であり、経済情報雑誌の表紙を何度も飾るほどの有名人だ。 その彼が、ただの使用人リアナに結婚を申し込んできた。 話を聞いていた他の使用人達が、甲高い叫び声を上げ、リアナの代わりに頷く者までいるが、リアナはどうやって木龍からの提案を断ろうか必死に考えていた。 リアナには、木龍とは結婚できない理由があった。 どうしても‥‥‥ 登場人物紹介 ・リアナ 山の上の洋館で働く使用人。22歳 ・木龍ジョージ ジーウ製薬会社専務。29歳。 ・マイラー夫人 山の上の洋館の女主人。高齢。 ・林原ケイゴ 木龍ジョージの秘書 ・東城院カオリ 木龍ジョージの友人 ・雨鳥エリナ チョウ食品会社社長夫人。長い黒髪の派手な美人。 ・雨鳥ソウマ チョウ食品会社社長。婿養子。 ・林山ガウン 不動産会社社員

サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由

フルーツパフェ
大衆娯楽
 クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。  トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。  いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。  考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。  赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。  言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。  たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。

順風満帆の過ち

RIKAO
ミステリー
エリート街道を歩く僕の身に起きた想定外のトラブル。こんなことに巻き込まれる予定じゃなかったのに――― *この物語はフィクションであり、実在の人物・団体とは一切関係ありません

処理中です...