恋の記録

藤谷 郁

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「と、いうわけなんです」


私が話し終えると、水樹さんは顎に手を当て、考え込む。

話の内容を整理しているのだろうか、それはずいぶん長い時間だった。


「僕の考えを述べる前に、一つ確認しておきたい」

「えっ、何でしょう」


気になることでもあったのかしらと、私はテーブルに身を乗り出す。


「この前、急に電話してきたのは、僕にそのことを話したかったから……そうだね?」

「……それは」


もちろん相談したかった。でも、恋人でもないのに図々しいと思い、ためらったのだ。


「……話せばよかったと、後悔しています。かえって心配をかけてしまったようで、すみません」

「いや、いいんだ。大体分かってたから」

「?」


どうして分かるのだろう。不思議に思う私に、彼は答える。


「一人暮らしの女性が不安な様子で、しかも夜に突然電話をくれる――その理由は、大体察しがつく。今の話は、電話をもらった時点で分かっていた。君はあの時すでに、僕に相談していたのさ」

「は……はあ」


そういうものだろうか。

よく理解できないけれど、水樹さんのはっきりとした口調は説得力がある。まるで、女性心理の専門家のようだ。


「家族、女友達、あるいは職場の上司。頼る相手は他にもいるだろうに、君はまっ先に僕に相談してくれた。とても嬉しいよ」


私は頷きかけて、ハッと思い出す。

職場の上司といえば、古池店長。父親が大家だという店長に意見を求めたくて、水樹さんより先に相談していた。

そして、思い込みは神経の無駄遣いであること、不安な時は管理会社に連絡するようにと、アドバイスをもらっている。


「あの、水樹さん。実は、その……」

「ん?」


水樹さんの瞳は熱を帯びている。

それは男としての喜びだと、男性心理に疎い私にも、よく分かるのだった。


「いえ、何でもありません。そうです、私……水樹さんに、まっ先に相談しました」

「あの夜の電話で、既にね」

「はい」


嘘をついてしまった。

でも、実は上司に相談済みだなんて、とても言えない。水樹さんの熱っぽい瞳。私を見つめる男性の眼差しを受け入れ、感情に従うのが自然だ。

それに彼が言うとおり、私は電話をかけたあの夜、水樹さんを頼っていた。それは事実であり、すべてが嘘ではない。

水樹さんは満足そうに微笑み、本題に入った。


「僕が思うに、ポストに苦情を入れたのは隣人だ。まず間違いない」

「やっぱり、そうなんでしょうか」

「ああ」


彼の答えに迷いはない。まるで、真相を知っているかのように、はっきりと結論づけている。


「ということは、あのコワモテ男が苦情主なんですね」


古池店長の、コワモテ男が実は優しい説は完全に消滅した。私は、水樹さんの言うことが絶対に正しいと信じる。


「その男が隣に住んでいるなら、犯人だ」


水樹さんは憎々しげに言う。

私を悩ませる苦情主は、彼にとって犯罪者に等しい存在なのだ。

私のために怒ってくれる彼を見て、顔が熱くなる。感激のあまり、指先も微かに震えてきた。


「私もずっと、あの男を疑っていました。でも……」

「でも?」


身を乗り出し、私の瞳を覗き込む。真剣な表情だ。


「一つだけ、変だなと思うことが。あの男が犯人なら、苦情の紙を、なぜ集合ポストに入れたのかしら。ドアポストに放り込めば簡単なのに」

「ああ……」


ちょっと意外そうに片眉を上げるが、すぐに答えた。


「カムフラージュだな。他の階の人間がやったように見せかけたんだ。くだらないやつの、小賢しいやり方だよ」

「な、なるほど」


水樹さんは辛らつだ。コワモテ男に対して、本気で怒っている。

私はまたしても感激し、嬉しさのあまり頭がくらくらしてきた。


「どうした、具合でも悪いのか」

「いえ、すみません。ちょっと頭が……今頃、酔いが回ったのかな」


きっとのぼせたのだ。

親身になってくれる水樹さんの、思いやりと優しさに――

だけど、そんなこと正直に言えない。


「出ようか。外の風に当たった方がいい」



水樹さんに抱えられるように、店を出た。彼は外のベンチに私を座らせてからスマートフォンを取り出し、タクシーを呼んだ。


「本当にごめんなさい……グラスワインで酔うなんて」

「いいよ。日頃の疲れが出たんだろう」

「それに、またご馳走になってしまって……」

「気にするな。それより、今後のことだけど」


水樹さんは私の言葉を遮り、肩を抱き寄せた。

突然の密着に驚くけれど、されるがまま。体に力が入らない。


「今現在は、とりあえず平穏なんだね」


アパートのことだ。

低い声と、水樹さんの体から立ち上るフレグランスが、たまらなかった。私は理性を保つよう努力しながら、こくりと頷く。

「はい。あれ以来、苦情はきていません。でも、アパートに入居して以来、誰かに監視されているみたいな、妙な不安があって……」


何だか眠くなってきた。

水樹さんの前で、こんなだらしない姿を晒すなんて恥ずかしい。


「たぶん、神経質になってるんです。自分らしくないと思うのですが」

「いや、君らしいよ」

「……え」


水樹さんは、肩を抱く手に力をこめた。私を守るように。


「君はもともと神経質で、怖がりなんだ。だから、僕が付いてなきゃいけない」

「……」

「君の不安は僕が取り除く」


私の顔を覗き込み、じっと見つめる。

優しくて、穏やかな眼差し。

なのに、どうしてか恐ろしく、殺気すら感じさせる声音――


タクシーのヘッドライトが辺りを照らし、それから私の意識は切れ切れになった。


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